6-4.ただいま、ベネディット
「……」
子どもたち……いや、彼女の視線は一人の少年に注がれている。彼をじっと見つめながら止め処なく頬を濡らし続けていて、彼女の過去を垣間見た私にはその理由も理解できた。
「彼……ベネディットが、貴女の子ども?」
「……ええ、そうよ」彼女は鼻をすすった。「あの子はとても素晴らしい子だった。賢くて、優しくて、大人にも子どもにも、誰にでも愛される自慢の息子だったわ。本当に、目に入れても痛くないくらい。親バカかもしれないけどね」
そう言って彼女は涙で目を腫らしながら胸を張った。いや、親バカではない。確かに彼は素晴らしい子どもだと思うし自慢したくなるのも分かる。少なくとも、私自身――アイリス・クリーブランドの六歳よりは遥かに聡明だ。
そう伝えると、彼女は「ありがと……」と穏やかな顔で微笑んだ。
「私も夫も、あの子の成長が楽しみでたまらなかったわ。どんなすごい子になるんだろう、どんな立派な大人になるんだろうって、夫とよく話してた……ううん、そんなの、実はどうでも良かった。こんな私から生まれてくれた、愛する夫との愛しい子。ただ、ただ元気に育ってくれれば、それだけで良かったの……」
また涙声に変わって、けれどすぐに拭ってもう一度微笑んだ。
「成長を見る前に逝ってしまった夫のためにも、私があの子の成長を見届けなければと思ったし、いずれ大人になるのが当たり前だと信じて疑ってなかった。見てちょうだい? あんなにみんなに愛されてる子が死ぬ運命だったなんて、そんなはずない」
私と彼女の視界の先では、子どもたちが座って果物を食べていた。誰もがベネディット少年に話しかけ、楽しげに笑う。木漏れ日が彼だけをちょうど輝かせ、世界に、愛されていると思わせる子どもの姿がそこにあった。
「夫だってそう。二人とも……私なんかよりも生きるべき人間だった。それを世界は理不尽に奪い去った。だから私は、せめてあの子だけでも取り戻したかった。そしてそれが――ようやく叶ったの」
そう言って彼女は立ち上がって子どもたちの方へ近寄っていった。子どもたちの姿が一人、二人とまるで幻のようにふっと消えていって、最後にベネディットだけが残った。
彼は見上げ、母の姿を認めると破顔という表現が適切なほどに嬉しそうに笑った。涙を流しながらヴェネトリアが両手を広げると、ベネディットは一気に駆け出した。一心不乱にヴェネトリアへ走り、やがて彼女の胸へと飛び込もうとして――けれど直前でピタリと立ち止まってしまった。
急激に彼の姿が大きくなっていく。幼い子どもの姿から少年、そして青年の姿に変化した。彼は笑みを浮かべ、だけどどこか悲しそうにヴェネトリアを見下ろしていた。
「ど、どうしたの!? さあ、ベネディット、こっちへいらっしゃい?」
ヴェネトリアが促すけれど、成長したベネディットは首を横に振った。そして悲しげな表情で、だけど何も言わずに母を見つめるだけだった。
「どうして!? どうしてなの、ベネディット!? どうして……来てくれないの……?」
「それは誰も今の状態を望んでいないからだよ。他ならぬ、君の本心でさえね」
ヴェネトリアが泣き崩れて懇願する。その姿に私も同情の気持ちが湧き上がってくるけれど、そこにどういうわけか聞き慣れた、ここにいるはずのない声が割って入ってきた。
振り返れば、何故かロナがいた。
「お待たせ、ノエル」
ロナは私にウインクするとヴェネトリアの正面に立ち、彼女が向けてきた憎悪の視線を真っ向から受け止めた。
「お前は……! お前が邪魔をしたのか……! 私と、息子の再会をどうして……!」
「儀式の邪魔をしてるのは確かだけれどね。でも誤解はしないでほしいな」
「誤解、だと……?」
「そう。確かに今、外の世界では世界中の神族たちが君の儀式の進行を食い止めている。けれど」ロナはベネディットを見た。「彼が君の方へ行かないのは、君自身が望んでいないからだよ」
「そんなことはないわ!」
「抱きしめてあげたい?」
「当たり前じゃない! どれだけ私がこの瞬間を待ち望んだか――」
「世界を滅ぼしかけたその腕で、かい?」
「……ひっ!?」
彼女が見下ろすと、自身の腕が真っ赤な血で染まっていた。ボタボタと絶え間なく血が落ちて、やがて彼女の腕そのものがまるで溶けたかのように消えて無くなってしまった。
「ヴェネトリア。君は、心の何処かで恐怖している。息子に会いたい、息子と穏やかな生活を送りたい。そこに嘘偽りはない。けれど、世界を、多くの人を犠牲にして会いに来た自分を、果たして息子が受け入れてくれるだろうか、とね」
「そ、そんなはずはないわ。わ、私は……」
ヴェネトリアが膝から崩れ落ちた。体をくの字に曲げて嗚咽を漏らす。
この場所は、彼女の世界。彼女の願いを叶える場所であり、彼女の心を映し出す場所だと理解している。であればきっとロナの言っていることは真実で、ヴェネトリアも理解してしまったからこそ泣き崩れたのだと思う。
「あ、ああ……ああぁ……!」
望んだはずなのに自身が拒絶する。その葛藤に苦しめられて、ヴェネトリアが声を上げて泣いた。その肩を、ロナは優しく擦った。
「ヴェネトリア……君の愛する息子はどんな子どもだった?」
「……や、さしい子どもだったわ。私とは違って、とても優しい子……人を愛してた。こんな世界でも愛していた。誰かが傷つけば一緒に泣いて、誰かが笑えば一緒に笑う。思い出した……そう、確かにこの世界を愛していたわ」
「世界は時に理不尽さ。だけど理不尽に嫌うと同時に、理不尽なまでに愛することもある。君の息子ベネディットは世界を愛し、同時に世界にも愛されていた。少なくとも、君と一緒に生きている時は、ね」
「後悔なんてなかった。あの子を奪ったこの世界なんて滅ぶにふさわしい。あの子にもう一度会えるのなら、世界を敵に回そうが、何人が死のうが構わない。本気でそう思っていた……はずなのに」
心情を吐露して、また嗚咽が漏れる。その声は私の心をも鋭く締め付けて、苦しくなった。
そんな彼女の背中を――ベネディットが抱きしめた。ハッとして振り向いた母の頭を、大きく成長した息子が微笑んで撫でる。ヴェネトリアは口元を震わせながら、喜びに泣いた。
「苦しかっただろうと思う」ロナが彼女の正面にひざまずいた。「悲しかっただろうと思う。人ではない私には、子を失う親の気持ちを本当の意味で理解することはできない。だけれど、君が狂いながら必死に苦しみに抗った、そのことは理解できる。でもその苦しみも、もう終わりだよ」
ロナが指揮者のように腕を振るった。光が流れるように空中に描き出され、あっという間に複雑で精密な魔法陣が浮かび上がっていく。それがヴェネトリアの体に吸い込まれ、反対に彼女の体からは白い何かが煙のように押し出されてきた。
白いそれは形を変え、やがて光る人の姿を象った。たぶんだけど、ヴェネトリアと融合していた精霊だろうか。そして、どことなくロナに似てるようにも思えた。
「やあ、久しぶりだね」
ロナは気安い感じに声をかけ、精霊の方もどことなく微笑んだ。それからロナと抱き合う。その仕草は再会を喜んでいるようだった。
それから程なく精霊は消えて、ロナだけが残った。ロナはまたヴェネトリアに向き直ると彼女の頬を撫でて、優しく微笑んだ。
「願望器たり得ない私では君の願いを叶えてはあげられない。でも、この場所なら少しだけ集めた力を借りて慰めてあげることはできる」
「それはどういう――」
「ママ?」
ロナが言った意味を測りかねたヴェネトリアが問いただそうとしたけれど、それを遮って幼い声が響いた。
私もヴェネトリアも声の方に振り返った。するとそこには、また子どもの姿になったベネディットが彼女を見上げていた。
「ママ」
そう呼んでエヘ、とあどけない笑顔でヴェネトリアに抱きついた。彼女は戸惑いながらも、いつの間にか元通りになっていたその両腕でギュッと、もう二度と離さないとばかりに強く息子を抱きしめた。
「いっぱいお仕事頑張ったんだよね? ありがとう。そして……おかえりなさい、ママ」
ベネディットも母をギュッと抱きしめ、そう伝えた。ヴェネトリアの両目からは涙があふれて留まることをしらない。不格好に表情が歪み、だけれど満たされた満面の笑みを浮かべて彼女は応えた。
「――ただいま、ベネディット」
そして彼女の姿は、完全に消えていなくなった。
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