2-1.ついに始まったみたいだ
照明を落とした薄暗い執務室の中で、白く長い髪が幽霊のように浮かび上がっていた。
だが幽霊などではなく彼女はまだ生きている。革張りの椅子にもたれてじっと目を閉じているので眠って見えるが、肘掛けをなぞる指の動きが、ヴェネトリア・トリステメーアが目を覚ましていることを教えてくれる。天井のスピーカーからはラジオが流れ、落ち着いた音楽がお気に入りの空間を満たしていた。が、やがて曲が終わると女性の声へと切り替わった。
「ここからは最新のニュースをお届けします……現在、各地で原因不明の体調不良を訴える人が続出しています。症状としては倦怠感が主ですが、基礎疾患を持つ人の中には重症化して緊急搬送される人もいるとのことで、エスト・ファジール帝国では西部を中心に、連日病院へと患者が詰めかけています。同様の症状は隣国の聖フォスタニアやブリュワード王国、リヴォラント共和国など世界各地でも確認されており、当局は連携して――」
椅子のボタンを操作するとニュースが途中でぷつりと途切れ、また音楽が流れ始める。いくつか曲が切り替わり、やがて有名なクラシック音楽が静かな部屋を荘厳に染めると、彼女は口元に小さく笑みを浮かべた。
「――お母様」
扉のノック音が混じる。ヴェネトリアが音楽のボリュームを絞って入室を促すと、白い髪色のメイド服を着た女性がトレーを手に入ってきて恭しく頭を下げた。
「準備が整いました。いつでも実行可能です」
「分かったわ。ありがとう」
メイド服の女性がトレーに載せていたカップにコーヒーを注いでいく。差し出されたカップをヴェネトリアは受け取って目を閉じ、たっぷり時間を掛けてそれを味わうと、大きく息を吐き立ち上がって部屋の中央へと向かった。
間仕切りしていたカーテンを開けると、普段彼女が過ごすスペースより格段に広い空間が広がっていて、その中央には黒い台座があった。
ヴェネトリアはそこに両手を乗せ、意識を集中させる。メイドの女性と同じ白い髪が風も無いのに浮き上がり、程なく台座の上に白い光で紋様が描き出されていった。
浮かび上がったのは魔法陣。それを中心として部屋の至る方向に白い光が伸びていき、暗かった部屋が一気に光で満たされていく。
そうして露わになったのは、部屋の至るところにびっしりと並べられた機械類だ。先程まで静かだったそれが、小さく唸り声を上げ始めた。
そして正面には巨大なモニターがあった。そこには大陸の地図とどこかを撮影している映像が映し出されていて、壁一面に埋め込まれたそれが一気に部屋を明るくした。
「……」
彼女はモニター映像の一つを見つめた。映し出されているのは街の風景だ。人々が歩き、笑い、困り……至って平凡で平穏な日常の一コマが切り出されていた。
さらに視線を動かす。そこは一転して不穏な気配が漂っている。軍服を着た軍人たちがタバコを吹かしながらいかめしい顔でどこかを睨んでいる。対照的なその二つの映像をヴェネトリアはしばしにらみつけ、宣言した。
「なら――始めましょうか」
ノエルたちの住むルーヴェンからも遥か遠方に見える巨大な円筒状のタワー。遥か天高くまで伸びるそれは世界に数本あり、いずれも朽ち果ててしまっている。それが一体何のためのものなのか、今となっては杳として知れない。
存在は知られているものの、生まれてから今の今まで当たり前のようにあるものだから誰も普段から意識はしていなかった。ずっと昔、それこそ数百年前に建設されたものだろうとは推測されているが、先に勃発した大戦の最中で資料の大部分が失われ、また特に稼働もしておらず、調査団が調査した時も稼働させる方法が不明であることから、単なる旧時代の遺物として取り扱われていた。
それが突如、稼働を始めた。塔の中間層――といっても地上から肉眼で目視するのは難しい高さだ――が光を発し、やがてしばらくしてその窓から何かが次々に投射されていった。
それは丸くなって自由落下していた。だが地上に近づくと様態が変化して人型となった。手足を広げて減速し、さらにバーニアを噴射して落下速度を制御する。そうして誰もいない地上へと降り立つと、砂埃が舞い上がる中で体を起こす。
姿形は完全なる人間。次々と降り立つその容姿は老若男女様々で、しかし顔はひどく無機質で無感情。それらは言葉を交わすこともなく、銘々に異なる方向へと歩き、消えていった。
「……あ?」
そして塔の放つ光は、人々にも認知され始めていた。
最初に気づいたのは、何気なくその塔を眺めていたとある一人。単なる一風景と化していた塔の一部が光を放っていることを認め、そばにいた友人に伝えたことでまるでさざなみのように人々に伝わっていく。
「本当だ……!」
「今まで何も変化なかったってのに……」
「そもそもあの塔は何のためにあるんだい?」
何かしらの変化が生じた時に、人々が当たり前に抱く感情。期待と、不安。それらが綯い交ぜになったざわめきが街のあらゆる場所へと拡大していく。
クァドラは、ざわめく人々が混み合った街角に立っていた。他の人たちと同じく空を見上げ、同じく期待と不安のこもった、だがしかし似て非なる眼差しを上空へと向けてつぶやいた。
「ついに始まったみたいだね」
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