8-6.初めて声を上げて泣いた
「マリアさん、ロラン!」
迷宮から出て倒れ込んだ二人を見つけ、先に脱出していたシオたちは急ぎ駆け寄った。
ここまでずっと走り通しだったのだろう。二人の体は汗でぐっしょりと濡れ、倒れ込んだまま動けない程に疲労は濃い。それでもすぐに治療が必要そうな傷は見当たらない。シオもグレッグたちも胸をなで下ろした。
「えっと……ノエル先生、は?」
しかしノエルだけがいない。それに気づいたジョシュアが指摘するとロランが大の字に寝そべったまま顔だけを向けた。
「ば、バカでっかいナノドラゴンが出て……先生は俺らだけ先に逃してくれたんだ」
「ってことは、まだ中にいんのかよ!?」
なら早く助けにいかないと。グレッグが剣を担いで走り出そうとする。だがその肩をシオが掴んだ。
「……行かせるわけにはいかないよ」
「あんた……! ノエル先生の恋人なんだろッ! 心配じゃねぇのかよ!」
「心配さ。すごく……心配だよ。だけど」
ロランとマリアを逃したと聞いて「ノエルさんらしい」とシオは思った。彼女は自分を盾や囮にすることを厭わないし、それでも必ず戻ってくる。彼女の強さからすればむしろ他の人間がいた方が邪魔になるだけだ。ロランたちを先に逃したのだって、そうすることで彼らの安全を確保しつつ、自分が戦いやすいと判断したのだろう。シオはそう理解した。
「今、僕らが突っ込んでいったところでノエルさんの邪魔になるだけだよ」
「けどっ……!」
「それに今戻ったら、また危険にさらされることになる。そうなると、何のために僕らが先に脱出したか分からなくなる」
彼の気持ちはありがたいし、自分もできればノエルと一緒に戦いたい。彼女の背中を守ると、横に並んで戦うと、そう願って自分を鍛えているのだから。
けれども今は生徒たちの安全を託されたのだ。他ならぬノエルに。ならその役割を全うすることこそが、彼女と一緒に戦うことと同義だ。
シオがほぞを噛むグレッグの肩を叩いて慰めたその時、地響きが足元から伝わってきた。
「な、何っ!?」
それは次第に大きくなっていき、何事かとシオたちを始め、学院やギルドの関係者全員が身構えた。
直後、轟音を立てて迷宮の入口が崩落した。
破砕音と突風が入り乱れ、舞い上がった大量の砂埃が視界を奪う。口の中がザラザラとなる中、教員の誰かが風魔導を行使したようで、舞っていた砂埃が吹き飛ばされる。
シェリルはゆっくりと顔を上げた。そうして目に入ってきたのは、完全に塞がれた迷宮の入口だ。
「あ……ああ……」
山肌が完全に崩れ落ち、巨大な岩石が幾重にも入口だった場所に覆いかぶさっている。もう、とても迷宮に入ることはできそうにない。その様を目撃した誰もが口元を押さえ、言葉を失い、あるいは頭を抱えて呆然と立ち尽くした。
遅れて悲鳴や絶望を吐露するため息が聞こえ始める。シェリルは膝から崩れ落ち、マリアは自身を責めた。
「私があの時……強引にでもノエル先生を一緒に連れ出してれば……!」
「大丈夫」
だがシオだけは動じていなかった。この中で、誰よりも付き合いが長い彼だけが知っている。ノエルという、見かけだけは幼い女性のことを。
「心配しなくていいよ」
「シオ先生……?」
「ノエルさんはこんなことで死んだりしないから」
その言葉を肯定するように、突然崩落した入口が吹き飛んだ。再び砂塵が吹き荒び、辺りを鈍色のカーテンが覆っていく。
やがて響く金属質な音。砂埃の奥に小柄なシルエットが浮かび上がって。
そしてそのカーテンを押し開けて、髪がカラスのように真っ黒になったノエルが姿を見せ、シオは相好を崩したのだった。
私はポツンと一人、離れたテントの下に座っていた。
生徒や学科長とは無事を確認しあい、彼らは今、他の救護テントで治療を受けている。みんなかすり傷程度ではあったものの、さすがに疲労が濃くてテントで点滴を受けながらゆっくり休んでいた。無理もない。始めての迷宮探索にしては色んなことが起こりすぎた。とはいえ、無事に脱出できたのは何事にも代えがたい経験になる。
と、そこに一本のボトルが差し出された。
「お疲れ様でした、ノエルさん」
差し出してくれたのはシオで、よく冷えたそれを喉へと流し込む。迷宮内でたっぷり魔素を吸収したので肉体的には乾きも疲れも感じないけれど、なんだろうか、水分が全身に染み渡っていくような感覚を覚える。
「シオに感謝を。生徒たちも全員無事に脱出できた」
「ノエルさんこそありがとうございました。色々とありましたけど、本当にみんな脱出できてよかったです。ユリアンくんたちは……残念でしたけど」
そう言ってシオがロランへと視線を向けた。
彼は救護テントとは別のテントで、机に置かれたユリアン・ヴェルニコフの腕をジッと見つめていた。そして同じテントの別の場所では、最初に発見した遺体となった探索者の家族が泣き崩れていた。後者については、どうやら数日前から迷宮内で行方不明になっていたらしい。
どちらも、私が脱出前に影を使って回収したものだ。迷宮の通路があちこち繋ぎ変わっていたおかげで偶然にも脱出路の途中に見つけることができた。
ロランは腕を見つめるばかりで何もしない。それでも目を離さないということは、色々な思いが去来しているのだと思う。仲は良くなくても、互いが置かれていた立場においては思うところがあるのかもしれない。もしくは同胞意識みたいなものがあるのだろうか。私は誰にもそういった思いを抱いたことはないものの、戦争中のヴォルイーニ兵たちは、会ったこともない遠方の仲間によく哀悼を示していた。それと似たものかもしれない。
「あっちのご家族も……残念ではありますけど、遺体だけでも持ち帰れて良かったです」
視線をもう一方の探索者家族の方へ向ける。遺体のご両親だろうか。一組の男女が縋り付いて号泣し、その後ろで妹と思しき十代の女性がジッと死体を見下ろしていた。私はその顔からどうしてか、目を離せなかった。
女性は口を真一文字に結んで、泣き声を上げてはいなかった。それでも固く握りしめられた両手は震えていて、目は真っ赤に充血していた。
「兄さんの……バカ。何笑ってんだよ。死んだら……終わりじゃん」
微かな彼女のつぶやきが、聞こえた。
その瞬間、私はエドヴァルドお兄さんの死体をクレアのところへ連れて帰った時のことを思い出した。
エドヴァルドお兄さんを前に、クレアは最初、呆然と立ち尽くしていた。私から死んだ時の状況を黙って聞き、やがて幾つか簡単な問いをして、それから彼女は静かに泣いた。
泣き声を上げず、ただ黙って涙を流し続けた。口からあふれそうになる想いを、暴れ狂う想いを必死で堪えている。そんな泣き顔だった。テントで探索者の兄と対峙する彼女も、似た顔をしていた。
私とクレアが初めて会った記憶はそこで終わり。けれども私の記憶はそこからさらに巻き戻っていく。
血と爆薬と、魔素の匂い。破壊されたテントが転がって、焼け焦げた軍用車が酷い匂いを放っている。生きている人がいない、戦場の痕。その中でお兄さんが車の側面にもたれかかってかろうじて生きていた。
今にも死にそうだった。けれどお兄さんは笑っていた。私を見て笑っていた。
「生きろ」
それが最後の言葉。お兄さんの指先が私の胸に突き刺さり、めり込んでいく。
言葉とは裏腹な行為。私はお兄さんを守れなかった。だから一緒に死んでも構わないと思ってその苦痛に満ちた行為を受け入れた。
だけれどすぐにそれは終わって、私に残ったのは胸元の新たな刻印だった。それまで刻まれていたものとは違う、新たな魔法陣。それを見た瞬間、私は直感した。
私は、自由だ。
いつも抱えていた、何処かに戻らなければという焦燥感もなくなって解き放たれたような気分だった。煙と砂埃でくすんだ青空を見上げれば、どこへでも行けそうだった。ここではないどこかに飛んで行きたくなった。
顔を下ろせば、お兄さんは笑ったまま死んでいた。死ぬというのに、何故笑っていたのか。私は当時、意味が分からなかった。
「ノ、ノエルさん!? どうしたんですか?」
「え?」
隣からシオの慌てた声がした。振り向けば、透明な雫が彼の腕を濡らした。
私の目から雫がこぼれ落ちていた。それは止まることを知らなくて、私は私自身が泣いていることも自覚できなかった。けれど自覚した途端、激しい胸の昂ぶりを覚えて体が勝手に震えてきた。
堪えようとしても、我慢できない。喉がしゃくり上げ、嗚咽があふれ出る。涙はいよいよ止まらなくなって、まるでこれまでの人生で溜まりに溜まっていたものが全部押し流されてきているかのようで。
(理解、した……)
何故、お兄さんが笑っていたのか。
嬉しかったんだ、お兄さんは。私がお兄さんを守らなければならなかったのに、お兄さんが私を守ってくれたのだ。私を自由にし、自分が死ぬことで私が戦場から離れると分かっていたのだ。それで私が生き残れると確信して、だから笑顔で逝ったのだ。
同時に、私は理解した。お兄さんと一緒に過ごした間、どれだけお兄さんに守られていたのか。どれだけかけがえのない日々をお兄さんと過ごしていたのか。どれだけ、意味のある時間を共にしていたのか。
(私は、私はっ……)
理解できていなかった。お兄さんがもういないという事実を。
死んだという事実は知っていた。死に際に笑ったという事実は知っていた。クレアがお兄さんの死を心から悲しんでいたという事実を、知っていた。けれど、知っていただけだ。
お兄さんの声を聞くことはもうない。お兄さんが困ったように頭を掻くこともない。お兄さんが皮肉っぽい笑顔を浮かべることもない。お兄さんが……私の頭を撫でることはもう、ない。
そのことを、死んでから何年も経った今さらになって……本当の意味で理解した。
喪失感が堪らない。これが、人の死を前にした感情というものなのだろうか。だとしたら……途方もなく、辛い。辛くて、怖くて、痛くて、苦しい。
「お兄さんと……エドヴァルドお兄さんともっと一緒に過ごしたかった」
「ノエルさん……」
「どうしてお兄さんが……生きていてほしかった」
同時に、理解する。今回の探索で生徒たちがみんな無事であったこと。誰か一人でも死んでいたらと思うと怖くて、だからこそみんなを助けることができた安堵と喜びは計り知れない。きっとお兄さんも、こんな気持ちだったのだろう。
安堵と、喪失。押し寄せてきた感情に私は翻弄され続け、涙が止まらない。
そんな私の背に手が伸びる。シオが私の頭を包み込むようにギュッと抱きしめてくれて、彼の体温がぽっかりと空いた心の穴と表現できるものを少しずつ埋めてくれた。きっと急に泣き出し、支離滅裂な発言を口走った私にシオも困惑してるに違いない。それでも何も言わず慰めようとしてくれる、その優しさが嬉しくて……申し訳ない。
それでも今は、その優しさに甘えて溺れていたい。
私たち以外誰もいないテントで私は彼を強く抱きしめて、そして「ノエル」となって初めて声を上げて泣いた。
エピソード8「カフェ・ノーラと王立学院」完
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