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感情の境界

作者: 月影

「好きだよ、悠斗ゆうと……! だから――」


ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろう。

自分にはその言葉の先が残響のように心に居座り続ける。


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オレは正直人と関わるのは苦手だ。

どうしても人の目が怖くて仕方がない。

その原因は小学校の頃に受けたいじめだ。

登校するとまず上履きがない。

上履きがあったとしても底面には画鋲が仕掛けられている。

教室に入れば指をさされ陰口を言われ、机やいすは落書きのせいで見る影もなかった。

担任の教師も見て見ぬふりを重ね、日々は水底に沈んだ泥のように重かった。

でもオレにとって一番つらかったのはそんなことじゃない。

オレだけに集中してくれるのならまだましだった。


------------------------------------------------------------------------------------------------


オレには幼馴染の少女――綾原優奈あやはら ゆうなという子がいた。

その子は高校生になった今オレと同じクラスだ。

夜空を思わせる美しい黒髪に、整った目鼻立ち。

声は清流のごとくよどみなく、頭もいい。

ただ少しだけ運動が苦手なのは愛嬌だろう。


でもオレは喜びよりも心配する気持ちが心を穿った。


そう、同じ小学校から何人かのいじめっ子が進学しており、オレへの嫌がらせはエスカレートしていくばかりだったからだ。

優奈はきっとオレを庇おうとする。

オレがいじめられ始めた頃を知っている彼女なら。きっと。


――そしてその懸念は正解で、最悪の結末を迎えることになった。


この日のオレへのいじめは度が過ぎていた。

放課後の空き教室、それも滅多に生徒が入らない場所だ。


「おい、これが何だかわかるか?」

「っ!」


一人が見せてきたのはサバイバルナイフだ。

それも冗談では済まされない凶器。


「俺らはさあ、お前がただむかつくんだよね。小学校んときからすまし顔でよお、オレだけは他の奴らとは違いますう的な顔してさ。そろそろ一発でっけえ恐怖でも与えてやろうかってなったんだよ。なあ? お前ら!」


次々に上がる賛同の声。

全部で男が3人だ。


「オレは、別にそんなつもりじゃ……」

「うっせえんだよ! 俺らがやるっつたらお前はただやられてりゃいいんだよ!!」


オレは手足を布で拘束され、身動きを封じられてしまう。

小学生の時に一回だけ反抗したことがある。

でもオレは敵わなかった。

それどころか、口合わせをされてオレは教師から不良扱いをされた。

もう、オレに反抗するだけの牙は残っていないんだ。


「そんじゃまずは切れ味を試してみっかな! なあ!」


右腕に焼けるような痛みが走る。

紅い細い糸がにじみ出て、下に垂れていく。


「お? めっちゃ切れんじゃん、このナイフ! なあ、山田お前もやってみろよ!」

「え? おれ? んまあいいか。楽しそうだし!」


いじめ仲間のもう一人にナイフが手渡される。

オレは恐怖に顔を歪めることしかできなかった。


――ああ、その時が来てしまった。


「ねえ、やめてよ……! 悠斗を放して!!」


急に教室の扉が開かれ、オレの幼馴染――綾原優奈が入ってきた。

小さいころから一緒に育った仲だ。

好きな本のことを話したり、水遊びをしたり。

小学校も中学校も別々だった優奈はオレに傷が増えるたびに心配してくれた。

出来ればわたしがそばにいてあげたい、と。

そんな言葉にオレは小さな救いを見るのは必然だったんだ。

でも、今この時ばかりは違った。


「優奈っ! 逃げろっ!!」


オレは自身の苦痛など忘れて、無我夢中で叫んだ。

今来てしまったら――。


「おやおや、彼女持ちかよ!! マジ調子乗ってんなこいつ!!――そうだ、こいつもいじめてやっか!」


一人が優奈を羽交い絞めにする。


「いやっ! 放してよ!」


オレはなけなしの勇気を振り絞って立ち上がると全身で優奈を拘束する男にぶつかる。


「いって!」

「優奈!」


オレは優奈を背後に立ちふさがるように前に出る。


「ちっ! 見せつけやがって!! お前らぶっころーー」

「あなたたち何をやっているの!!」


後から入ってきたのは生徒指導の先生だ。


「やべっ! 逃げろ!」


いじめっ子たちはすぐに反対側の扉から出ていく。


オレと優奈は事情を聴かれた後解放された。


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「どうだった? わたしが先生を呼んでおいてよかったでしょ?」

放課後の帰り道、斜め下からのぞき込んでくる優奈はすごく綺麗だ。

でもオレは深く関わってはいけない。

すでに遅いかもしれないけど、彼女はいじめの対象から遠ざけなければならない。

オレみたいになってほしくない。


「そうだね。でもあんなことはもうしないでほしい。オレは優奈に傷ついてほしくないんだ」

「うん、知ってるよ。でもね、わたしだって悠斗と同じ気持ちなんだよ? 傷ついてほしくないの」


――ああ、知っているさ。だからこそ――。


「オレはもう慣れてるからいいんだ。優奈はこれから楽しいことがいっぱいあるはずだ。それを無駄にしてほしくない」


オレは何もかも駄目にしてきたけど、文化祭や音楽祭、恋愛に友人との寄り道。

きっと優奈ならそのすべてを最高の思い出にできる。

オレなんかに構っていれば、それは泡沫になって消えてしまうだろう。


「悠斗はさ、わたしの気持ち、わかる?」

「オレが心配だっていうこと?」

「それもそうだけど。ううーん、駄目かあ。わたしね、やっと悠斗の近くに入れて嬉しいんだよ。悠斗がつらい思いをしているときに一番近くで守ってあげられる。今回は少し危なかったけどね」


そう言ってくすっと笑って見せる。

それから背伸びしてオレの頭をなでる。

優しく、それでいて力強く。


「オレは……」

「いいの! わたしが決めた道なんだから! 悠斗はわたしが守るよ」


ここでオレは拒絶を示さなかった。

これがオレの一番の後悔。


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茜色の残照が高校の屋上に立つ二人を照らしだす。


「どうしたんだ? こんなところに呼び出して」


春の終わりくらいから、オレへの嫌がらせやいじめはほとんどなくなっていた。

どうしてかいじめっ子たちは視線すら合わせない。

まるで遊び飽きたおもちゃには興味がないと言った感じだった。


「急にごめんね。悠斗に大切なことを伝えておきたかったの」

「なんでも聞くよ」


少し俯いていて濡れ羽色の前髪が表情を隠している。

季節は秋の初めごろだ。

夏のじっとりとした暑さは鳴りを潜め、涼やかな微風が吹き抜ける。


「好きだよ、悠斗……!」

「ん……!」


ただただ声を失った。

オレは優奈に今、キスを、されている。

唇と唇が触れるだけの優しいキス。


――優奈が温かくて、生きているとこの時は実感できた。


幼いころから迷惑しかかけてこなかったと思う。

いつもボロボロでかっこ悪くて、泣き言も優奈の前ではたくさん吐いた。

そんなオレを好いてくれている?

優奈はオレが苦しんでいるときにはいつも近くにいてくれた。

小学校も中学校も別だったのに、慰めてくれた。

その優しさに、オレは惚れていたんだ。


――だから。


オレも好きだ、そう答えようとした。

でも二の句は告げなかった。

唇を放すと、ゆっくりと屋上の縁へと後ずさっていく優奈。

この高校の屋上には柵がないところがある。

優奈が下がっていっているのはそこだ。

それ以上行ってしまったら。


「優奈!!」


優奈が――。

必死に手を伸ばす。遠い。今までのどんな時よりも優奈との距離が遠い。


「――だから悠斗は生きてね――」

「待って!!!」


指と指が触れ合って、そこまでだった。

鈍い音が地上から聞こえた。

次いで昇降口の方から上がる悲鳴。


「あ、ああ! あああああああああああああああああああああああああああ!!!」


地面を思い切り殴る。

何度も何度も。

頭を、胸を、腕を、脚をかきむしる。

何度も何度も。


「なんで!!! どうして!!! 優奈!!!!!!!」


オレは必至で優奈の立っていた場所に触れる。

なにも残っていない。

彼女のはにかんだ笑顔も、その清廉な声音も、優しい白い腕も、その甘い香りも、さわやかな気配も、力強かったあの眼差しも。


「う、うああ……!! あああ!!」


なにもできず、何も知らない。

オレは無知で、弱虫で、ばかだ。


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のちに優奈が書いていた日記であいつらにひどい暴力を受けていたことが分かった。

身体中にできた痣、そして無理に襲われたことも。

そしてそいつらが行ってきたオレへのいじめも事細かに記されていた。

でも最も丁寧に書かれていたのは、オレへの謝罪と慰め、祝詞のような優しい言葉ばかりだった。


そう、オレへのいじめが極端に減ったのは優奈がオレの分まで身代わりになっていたからだった。

どうして気づかなかったんだろう。

どうして気づいてあげられなかったんだろう。

オレのせいで巻き込まれ、オレのせいで追い詰められ、オレのせいでその命を絶った。

それなのに。


――声なき書に紡がれた言葉には恨み言の一つも存在しなかった。


オレはそれを知った時、初めて人を本気で殺したいと思った。

純度が高い復讐の心があいつらと自分自身に向かう。

死ぬべきでない人を身勝手に、自己中に命を奪い去ったことに対する激しい怒り。


――これからやることを優奈は望まないだろう。


彼女はすごく優しいから。

だからこれはオレがオレの身勝手で行うことだ。


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鈍い音と共に今までに感じたことのない感覚を得る。

何度も何度も。

彼女が受けた苦痛のすべてが伝わるように。

身を焦がす憎悪を、彼女を失った悲哀を、言いようのない虚しさを血濡れた銀に余さず込めて。


これがそう、オレが初めて手に入れた強さであり、弱さだった。



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