~トランスジェンダーの重量挙げ選手のオリンピック参加から考える提案~
サービス管理責任者からの私見
(序)
先日、ニュージーランドのトランスジェンダーの重量挙げ選手が、同国の女子選手代表としてオリンピック東京大会に参加するというニュースが目に留まった。
この選手、20代までは男子選手として活躍していたが、内面において違和感があり一度引退したという。
体は男性ではあるが、精神においては女性である事から性転換の後、女子選手として返り咲き、NZの女子代表の座を勝ち取った。
同国のオリンピック委員会は、多様性に理解がある国だと思う。
ただ一方で、女子選手側から考えてみると、マジョリティである女子選手の一人が選考から落ちてしまっているのも事実。
この事例は、なにもNZに限った事ではなく、いずれ日本もこうした課題に直面するだろう。
そういった意味でも、今回のオリンピックは重要である。
マジョリティである女子選手とマイノリティのトランスジェンダーの選手。
今後のオリンピック選考会、予選会において慎重に検討しなければならない一例となったのは確かだ。
そもそも、男性の体と女性の体は明らかに違う。
誰もが周知の事実である。
したがって、スポーツ競技において男子、女子と「区分」されたのは言うまでもない。
競技において男女を区分する事は、通例である。
これを一般的な考え方であり、マジョリティとするなら、NZのトランスジェンダーの選手の例は精神と体の問題から、女性として参加したいとなると、現制度では不具合が生じる。
こうした希望は、当然少ない事からマイノリティとなる。
※ 焦点はほかにもあるが、ここでは言及しない。
前例が少ない事例であるからこそ、非常に考えさせられる問題となった。
(1)
私は障がい者雇用促進、職業訓練、生活介助などに携わっていた。
パラリンピックではないが、障がい者スポーツ大会等にも同行した経験から、自ずと記事に引きつけられた。
結論として、なにが言いたいか?
オリンピック選手とパラリンピック選手が、同じ競技に参加する種目を新たに創設してはどうだろうか?
その意図として、
パラリンピックを障がい者という枠ではなく、多様性ある開かれた大会としてはどうだろう?
「マジョリティとマイノリティが互いに折衷し、オリンピックとパラリンピックを協力して改善する」
私のいうマイノリティは、健常者、障がい者に限らず、社会的に立場が弱い人も総合した意味を含んでいる。
トランスジェンダーの選手が女子選手として参加する賛否を明確にするより、もっと広義の意味で新たな選択肢と有益性の模索を今大会が切欠になって欲しい。
オリンピックに限らず、今後の課題としてマジョリティとマイノリティの分断、齟齬が生じる懸念から、この東京大会を起点とし、次大会からのオリンピックの指針となるよう「折衷」、「協力」と「改善」により、意義のあるものになって欲しい。
また、健常者は社会保障を受けづらいという現実も、障がいのある方に知ってもらいたい。
そして、健常者に対して協力できる事が有ればしてもらえればと考える。
これが「折衷」と「協力」と「改善」である。
(2)
次に、オリンピック延期となった最重要原因を避けることはできない。
中国発祥のウイルスによって(地域差別表現ではなく、事実の整理)、
昨年2020年開催予定だった、オリンピック東京大会が1年延期となり、残すところあと1ヶ月弱となった。
しかし、世界がパニックの中、観客の有無の問題もあってオリンピック開催に日本国民は手放しでは喜んではいない。
オリンピックを楽しみにしている人もいるが、現在も中止を求める人もいる。
日本は民主国家であるから意見が割れ、紛糾するのは当然だ。
こんな事はスペイン風邪以来の前代未聞の事態で、意見が割れるのは仕方ないとしか言いようがないが、ある意味健全だ。
今一度繰り返すが、ウイルスが世界中を恐怖に陥れている最中の大会となる。
また、日本一国の問題だけではない事を念頭に置かなければならない。
1年前、一都民の意見としては、2点の理由から「中止が望ましい」と考えていた。
①今後も多数の死者が出ることが予想され、私が生き
ていても経済は疲弊し、生活が維持できるか心配
で、お祭り気分にもなれない。
②日本が開催できたとしても、海外の国々がオリンピ
ックどころではなくなる。
あれから1年後の現在、多数意見であったからだと思うが、開催となった。
あと30日を切っては妥協するしかない。
反対していた私は、いつしかマイノリティの立場となった。
自分がいつマイノリティの立場になるかは分からない事の一つだろう。
先にも述べたとおり、「マジョリティとマイノリティが互いに折衷し、オリンピックとパラリンピックを協力して改善する」大会となる事で、平和の祭典が一部の組織だけでなく、全体的に意義あるものになって欲しい。
少数派、障がい者だけでなく、このコロナウイルスの派生的事情により、社会全体的に明日をも知れぬ憂目に直面する人々が増えてしまった。
(私も含め、予定が立たない)
今日は健康だが、明日明後日、病気になるかもしれない。
また、事故にあって障がいを負うかもしれない。
更に、近親者が他界し、その悲しみから精神的に体調を崩すかもしれない。
突然、職場を解雇、倒産することだって予想される。これらは決して、他人事ではなく自分も社会的弱者となる可能性が多分にある。
上記の様な経験、事例に接してきた中で、多数派であるとか、健常者であるとか、はたまた、障がい者といった区分は、薄氷の壁の様にしか捉えらない。
実際、私も倒産を経験し、翌月の生計が立たなくなった事があった。
平穏無事である事が、明日も明後日も10年後も続くと思いがちだが、それは幻想だ。
偶然、平穏な日々が連続し、生きているにすぎない。
日本は特に自然災害も多く、事故などに遭遇しやすい。
そして、今回のコロナ・ウイルスによって、どれだけの人々が傷ついただろうか?
オリンピックは、選手だけのものじゃない。
それを支える人々はむろん、全く接点のない国民の税金が多額に使用されている。
妙なもので、大多数である国民は、日々の生活が苦しい中、節約して税金を拠出している。
多数派なのに弱者なのだ。
オリンピックを、IOC及び、政府、東京都知事は是が非でも意義のあるものにしなければならない。
自分たちの利権や名誉の為に、日本を利用し無理矢理開催するならば中止してもらいたい。
オリンピックに使用された税金で、どれだけ生活に困った人々を救えるのか。
これをよくよく考え、その代償に相応しい大会にしてもらいたい。
(3)
日本財団 パラリンピック・サポートセンターによると、「パラリンピックの4つの価値」として以下の様に説明している。
(図があるが掲載できないので、私のブログを参照して下さい)
国際パラリンピック委員会(IPC)は、パラリンピックに出場するアスリートたちが持つ力こそがパラリンピックを象徴するものであるとし、以下の4つの価値を掲げている。
※IPC発表の英語表記は「Equality」でありその一般的な和訳は「平等」ですが、「平等」な状況を生むには、多様な価値感や個性に即した「公平」な機会の担保が不可欠です。そしてそのことを気づかせてくれるのがパラリンピックやパラアスリートの力である、という点を強調するため、IPC承認の下、
あえて「公平」としています。
冒頭に挙げたNZのトランスジェンダーの選手に対する多様性。
まさに、パラリンピックの「価値」に即していると思う。
しかしながら、パラリンピックの注目度は、オリンピックに対し、中継も少ない故に決して高いとは言えない。
したがって、この問題の解決策は、性別を問わずに混合競技を新たに設ける。
要するに、男女混合レースの追加である。
例えば、混合短距離100m走では、オリンピック選手もパラリンピックの総合100m走に出場する。
距離が長ければ50mにすればいい。
(折衷案を出し合う)
これにより、パラリンピックも否応なく注目度が上がり、「公平」「平等」なレースが実現する。
時間がないなら、各国選手のスケジュールも鑑みて、日本国内選手限定でも良いと思う。
勝ち負けよりも「参加する事に意義がある」という、オリンピックの理念をも抱合する事につながるのである。
更に、その一部売上金をホスト国の健常者の生活困窮者(父子、母子家庭も含む)にも分配する。
何故、健常者なのか?
障がい者には障がい者年金が支給されるが、健常者は生活保護ぐらいしかない。
その健常者も、日頃多額の社会保障費などを拠出するための税金を支払っている。
(※本当に税金、年金が高い)
しかし、いざ倒産、病気、けが等で働けなくなり困窮した時、生活保護を申請しても申請者の親、兄弟、親類まで援助できるか調査される。
緊急事態である時に、そんな調査をしていたら時間がかかってしまう。
それに、最初から親族を頼れるなら生活保護を申請しないだろう。
※意図的な詐欺行為は除く。
生活保護受給開始されても、途中で打ち切られてしまう可能性も高い。
私がどうしても忘れられないのは、「おにぎりが食べたい」と書き残して餓死した男性だ。
この男性は、生活保護を打ち切られた1か月後に遺体が発見された。
これは発展途上国の話ではない。
日本の北九州市の出来事だ。
健常者であったが故の出来事。
介護プランもなければ、就労支援プログラムがあったとしても名ばかりだ。
ただ仕事を紹介すれば良いというものではなく、困難な状況において少しずつ段階を追って、就業にまでつなげるような支援でなければ意味がない。
私は、サービス管理責任者の義務である講習に参加した時も思い出す。
利用者に対する虐待、加害等防止に対する講習はあったものの、支援者、介護従事者、福祉事業施設の就業者に対する保護、労災等の講習がなかった。
福祉事業に勤める人に対する配慮の講習がほとんどなかった事に愕然とした。
利用者からのセクハラや暴力、他害、暴言が日常的にあるのに対し、施設側は職員を守らない事が多い。
賃金も安いため、当然離職者も多いのが実情。
事業者側も、利用者第一という考えも大切だが、働く職員の健康と安全を確保しなければ、事業の存続も危い。
全ては人があってこそ、仕事が成り立つのだから。
私は決して綺麗事を並べている訳でない。
福祉事業において、慢性的人材不足である事実から改善に早急に取り組まねば存続は危いから述べている。
健常者も障がい者も平等に、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を持っている。
どちらが大変であるとか、どちらが生きづらいであるとかは比べようがない。
人それぞれの状況によって、全く違うからだ。
体が健康でも、苦しい状況の人は多い。
特に、コロナ・ウイルスによって、人生を180度変えられてしまった人も多く、身近にもいる。
人それぞれ千差万別であるが、誰もが「悲しみ」を抱えているのは共通していると思う。
思うような人生を歩んでいる人など、ほんの一握りだ。
大抵の人は、不安や悲しみを抱えて生きている。
時には八つ当たりしたくなる時も、喚き散らしたい時もある。
でも、それは自分だけじゃない。
誰もがそういったやりきれなさを抱えて生きている。
話を元に戻すと、今大会のオリンピック、パラリンピックの経済効果はわずかだろう。
であるなら、苦しい経済状況下の日本国民が我を押し通さず、助け合う大会とすべきではなかろうか?
健常者、障がい者、マジョリティ、マイノリティが協力する機会となって欲しい。
(4)
文句を言うだけなら誰でもできる。
せっかく開催するなら、良いものにしてもらいたい。
よって、オリンピック、パラリンピック東京大会
2020のテーマを、勝手に提唱して終わりたい。
「KAIZEN」
(改善)
KAIZEN(改善)という言葉は、日本人ならば多々使用する。
恥ずかしながら、私は薄学な為、最近になって英語でもKAIZENとして表記され使用されていることを知った。
※「とっくに知っていたよ!」という方もいらっしゃるでしょうが、怒らずにあともう少しお付き合い下さい。
欧米では「KAIZEN」という概念がなく、日本独自の概念であるという。
①「品質を向上させ質を高める」
②「少しづつ改良する」
③「悪いところを良くすること」
オリンピックも改善(KAIZEN)の余地は十分にある。
IOC会長の選考(人種)など多々問題があるが、まずは多様性「equality 」のKAIZENから第一歩を踏み出すのが望ましい。
この日本ならではの概念「KAIZEN」を掲げ、今後のオリンピック転換点となるマイノリティとマジョリティの折衷案、協力を構築する事を始めて頂きたい。
オリンピック、パラリンピックの理念は立派だが、上っ面ではなく、はたしてどれだけ実現しているのだろうか?
※企業理念、福祉事業の理念も、立派な文言が多い。
この祭典の影では多くの人々が支えている。
他方、明日を生きる為に希望を求めている人がいる事を忘れてはならない。
特に今、祭りどころではないという人にこそ、希望を持たせる大会でなければ、関係ないし、
それどころじゃない。
※ 1964年の東京大会でも、大会直前まで開催に対して中止や否定論が多かった。
しかし、いざオリンピックが始まり、日本選手が外国人選手との競技で活躍することにより、日本国民が元気づけられた。
敗戦によって打ちひしがれた日本人に希望を与えた事を忘れてはならないと思う。
だから今こそ、このコロナ渦において、私も含め、希望が欲しい。
(追記)
人は誰かの役に立つ事で、自身の存在に意味を見出せるものだと思う。
健常者、障がい者、マジョリティ、マイノリティに関係なく・・・。
そして、私は夕食として、クオリティの低いオムレツと
ペヤング超大盛やきそば(改)を食べる。
※鶏肉の細切りを炒めたものが焼きそばに投入してある
(ブログに写真が貼ってあります)
https://souchan82.hatenadiary.jp/entry/2021/06/27/_~トランスジェンダーの重量級選手のオリンピッ
(終)