キスもできないおれたちは
恋人という言葉でしか繋がっていないおれとルナのあいだには、まだ距離って言葉で表現できるなにかがある。だけど結婚した先輩たちのあいだにはきっと距離なんて概念すらなくて、二人は常に同じところにいる。言葉にするのは難しいイメージだけど、もっと簡単に言えば、自分と相手がイコールで結ばれてる、そんな気がした。
ちなみにおれたちはスラッシュとかカンマとかその辺の記号。
『おれらもいつかは──』なんて考えながら気づかれないようにさり気なく、横目でルナの姿を視界に入れる。
まだ早いけど幸せな結婚生活を妄想するだけなら余裕なんだ。
朝起こされてみたいし、ルナの作った料理だって食べてみたい。夜だって一緒に寝るかもしれない。それが毎日続くんだとすれば……。
「先に同棲しておくとイメージが固まりやすいと思いますよ」
「なっ……!?」
まるでおれの脳内覗いたのかよってタイミングで竜宮さんがそんなことをいうもんだから、おれは驚いて足をテーブルの裏にぶつけた。
「ル、ルナはまだ高校生ですし、俺たちにはまだ早いですって!」
「だが龍崇、寝ても覚めても惚れた女がそばにいるのはいいぞ。とても──、幸せだ」
テーブルの下で隠れて膝を摩りながら、おれは大慌てで竜宮さんの案を却下する。嫌とかそーゆーんじゃない、なんとなく気恥ずかしくって仕方がなかったからだ。同棲を視野に入れてなかったわけじゃない、逆におれが少しでも同棲を視野にいれていたってことをルナに感づかれたくなくて、思わずそんな風に否定してしまった。
そのうえ間髪入れず言ってきた先輩の『幸せだ』って言葉の説得力が半端ない。
まさか先輩の口からそんな言葉が出てくるなんて思わなかったし。
余計に恥ずかしいよ。
結婚してから竜宮さんは変わったけど、おれから見た先輩はそれ以上にもっと変わってる。昔の先輩を知っていれば、竜宮さんに向けられている先輩の表情も、先輩の口から聞く幸せだなんて言葉も、信じられないことだった。
結婚とか同棲とか言われておれはめちゃくちゃ焦ってるけど、ルナはどうなんだろうって気になって、そっと隣に目を向ければ見事に視線は交差する。
ルナも照れているのは丸わかりだった。まるで付き合ったばっかの時みたいな照れ方に、おれも更に恥ずかしくなる。
不意に向かいから椅子を動かす音で我に返って、視線をルナから先輩たちの方へ向ければ、すでに二人は立ち上がって帰ろうとしているところだった。もしかしなくても、気を使われたかもしれない。
「そろそろ行くよ。またな、二人とも」
「またね」
「あっ、はい、おつかれさまです!」
「ボクの分までありがとうございました! ごちそうさまでした!」
おれたちは頭を下げて二人に挨拶をする。
それを笑顔で返してくれた二人は会計を済ませるため歩きはじめ──竜宮さんがルナの横を通過する瞬間、ルナの肩に手を置いて何かを耳元で囁いていった。
ルナの顔が一瞬で真っ赤になる。
おれの位置からじゃ一言も聞こえなかったんだけど、一体何言った……?
そのままルナは、耳まで真っ赤にしながら俯いてしまうし、おれはそんなルナとお店から出ていった竜宮さんを交互に見る。会話の内容なんて見当もつかない。
ポケットに手を突っ込んで歩く先輩の腕に、抱き着くようにして腕を絡ませる竜宮さん。
ちょっと待ってくれって引き留めたい衝動に駆られるものの、すでに店からは出てしまったし、完全に二人の世界に入っているからもう無理だ。それに多分おれが聞いたところで「これは女の子同士のお話ですからっ♪」なんていわれて教えてもらえないだろう。
「ち、千聖君……」
「え、あ……! おれ、向かい側に移動するよ」
このままだと四人掛けのテーブルを二人隣同士で座ってるような、ちょっと恥ずかしい構図になってしまうのが気になって、おれは席を移動しようと立ち上がる。
ルナは一向に目を合わせてくれない。
なんとも言えない空気がおれとルナのあいだを流れていく。
何を話せばいいんだろう。
おれたちはすっかり、先輩たちの空気にのまれてしまっていた。
「せ、先輩たち、すごいですね……!」
「そーだね、普通にびっくりした」
卒業と同時に結婚に踏み切った先輩は本当にすごい。
おれは、結婚なんて二人の問題で済む話じゃないから、そこを気にして絶対に踏み切れない。
両親を巻き込むし、その他にもきっと大勢の人を巻き込む。
でも先輩はそんなことは気にならなかったんだろうな。
周りの事なんて竜宮さんの存在に比べれば塵にも及ばない問題で、何があったって俺がなんとかしてやるって強い覚悟を最初から持っていたんだ。
おれにも覚悟がないわけじゃない、だけど先輩のそれには及ばない。
ルナと合流してから、一切口をつけていなかった目の前のカップを持ち上げる。
中身は紅茶だ。竜宮さんのことを散々脳内でいじっていたけど、おれだってブラックコーヒーはそのままじゃ苦くて飲めない。
「結婚とか……おれらにはまだちょっと──」
「あっあの!」
話しながらカップを口元で傾けた、けど、ルナに遮られて一滴も口の中に入らないままおれは動きをとめた。理由はわからないけど、ルナからなんて言われるのだろうかと緊張が走る。
「同棲したら……楽しい、でしょうか?」
まるで意を決したみたいに、だけど視線は残ったココアに向けたまま、ルナは言った。
「わ、からない……けど、おれは……」
言葉に詰まったおれは、ぎこちなくただ持ち上げただけに終わったカップをテーブルの上へと戻す。決して同棲したくないわけじゃない。色々と考えてることもあるんだけど、おれでいいのかなとか急に自信がなくなってきて、何も言えないくなるんだ。
いつまでもこのままじゃダメだってこともわかってるんだけど。
だって、そもそもおれたちは、
同棲以前に、手を繋ぐ以上の事をまともにしたことないんだから。
こんなことあの二人に打ち明けたら、きっとお説教タイムに入ってしまうだろう。
自分でも思ってる、付き合って何年になるんだよって。
女性として見てないなんてことはないし、おれは経験だってそれなりにある。
もちろんルナがおれを拒否してるわけでもない。
正直言って今すぐ触れたいし許されるなら速攻おれのものにしたい。
付き合い始めの頃に、身体目当てだとか思われたら嫌だなってずっと思っていたら、タイミングを失ったままここまで来てしまって、今更踏み出せなくなってしまったのがこの結果。
おれはちょっとズルいから、ルナから来てくれたらなーなんて甘えた期待さえ持ってしまってる程だ。
で、結局何も言えず仕舞いのおれ。
ルナが少しだけ寂しそうな笑顔で、ココアをすべて飲み干した。
「千聖くん、そろそろ……」
「ん。そうだね、おれらも出よっか」
おれは、半分以上残っていた紅茶を全部飲み干してから席を立つ。
店を出るときに鳴ったベルの音が、心なしか先輩たちが出ていった時よりも低い音で響いた気がした。
「ルナ」
おれに続いて店からでたルナに手を差し出せば、迷いなくこの手を掴んでくれる。
おれたちの当たり前は、ここまでなんだ。
「これからどうしましょうか」
歩き出きながら話すルナは、さっきよりも明るい笑顔を向けてくれたけど、どうしても寂しさは抜けていなかった。無理して笑顔を作ってる。
「たしかに、『合流してから決めよう』で、そっから何にも考えてなかったね」
わかってるんだ、こんな顔させてるのはおれだ。
おれが何も言えないばっかりに、おれの気持ちを知ることができないルナは不安になっている。そんなの、誰に指摘されなくたっておれ自身が一番わかってるから。
「映画とか、どうでしょう!」
無理矢理明るめのトーンで提案してくれるルナが、愛おしくて仕方がない。
ちなみに映画は先週も行った──じゃない。違う。今はそんなことを言うんじゃなくって、映画の話をするよりも先に、しなきゃいけない大事な話があっただろ。
憧れの先輩の背中すら追えないのか、おれは。
意を決して、いつしかおれの手を引っ張るように先を歩いていたルナの手を、強く引いて立ち止まらせる。いきなりの事に驚いたルナが、おれを振り返った。
「千聖くん?」
「今日……考えてたことがあって」
不思議そうに首を傾げる彼女を見ることができない。
「指輪を見に行こうって、誘おうと……」
「えっ……まさか結こ──」
「違う違うッ! ほら、まわりで付き合ってるやつら、みんなお揃いのつけるじゃん。おれら、あーゆーのなかったから……ってか、そーゆーの嫌?」
「嫌じゃないです! 欲しいです! したいですっ千聖くんとお揃いの指輪!」
ルナがあまりにもすごい剣幕でそんなこと言うもんだから、おれは笑いそうになった。なんだ、こんなにあっさりOKしてもらえるなら、もっと前から提案すればよかったな、っていう安堵が胸に広がる。だけどこれで終わりじゃないんだよ。
「それと、ルナにしておきたい話があるんだけど……」
「なっなんでしょう!」
興奮冷めやらぬ様子のルナと向かい合ったおれは、一度大きく息を吸って、吐いて、切り出した。
「親にはもう話してあるんだけど、おれさ、家出ようと思ってて……」
「家……でる……? まさか家出ですか!? ダメですよそんな非行に走っては!!」
「いやそうじゃない! 家出るっていうか。一人暮らしってこと」
一旦区切って、ルナの様子を伺ってみる。
まだ、話が見えていないみたいだった。
「まだどのあたりに住むとかは決めてないんだけど、すこし広めの部屋を借りようって思ってて……そしたら鍵、ルナに持っててほしい。もしよかったら一緒に部屋選んでもいいし──って、ルナ……!?」
また話し出してから、おれは恥ずかしくてルナを見ていなかったんだけど、何気なく視線をルナに戻したとき、ルナの目から大きな涙がぽろぽろこぼれ始めていた。
泣き虫なのはいつものことだけどこのタイミングで泣かれる覚悟はしていない。
どうしたらいいかわからなくて咄嗟に親指でルナの頬から雫を掬った。
「話すの遅くてごめん」
ふるふると頭を左右に振って、ルナは、頬に触れるおれの手をそっと包む。
「千聖くん、ボクからも、一ついいでしょうか」
「うん、聞くよ。言ってみて」
「そろそろ、手を繋ぐ以上の事を……、ダメですか?」
心臓が止まるかと思った。
息の仕方だって一瞬わからなくなった。
それで、本当にごめんって思った。
本来、君に言わせることじゃないもんな。
周りに人がいないのをしっかり確認してから、おれは一歩先に進んだ。
触れたぬくもりは、ほんのりココアの香りがする。
あぁ、やっぱりおれは、この子が大好きだ。
触れたのはほんの一瞬で、おれはそのまま彼女を抱きしめた。
なんでかって、今の顔なんて絶対にお見せできるもんじゃないからだ。
ルナ以外なら誰に見られたっていい、けど彼女にだけは見られたくない。
「遅くなってごめん」
「……はい」
「これから先は、部屋借りたらでいいかな」
「……はい」
ルナもおれの背中に手をまわして、ぐっと力を入れてくれる。
「それと」
おれは、そんな彼女の頭を撫でながら、最後にもうひとつだけ謝った。
「スーパーの前で、ほんとごめん」
「……はいっ」
最後の返事は笑っていた。