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「──まず、『屍蠟』からだけど」

 執筆部屋に戻ってきた私と小説家。

 小説家は持っていた紙を私にも見えるよう、畳の上に広げてからそう言った。

 紙は、字引の一部を写してきたものであった。他にも写してきたものがあるようで、それらも広げて見せる。

 もしやこれらの作業に時間が掛かったのだろうか。

 そんな風に推測しながら、小説家の言葉を待つ。

「最初に広辞苑で調べてみたんだけど、詳しくは書いてなくて焦ったよ。それで図書館の棚に貼られた案内を見ながらそれらしい分類を手当たり次第探してみたら──法医学の棚にあった二冊の本に、『腐らない死体』って項目があって、そこに詳しく書かれてたんだ。その一つが──これ」

 小説家は紙の一枚を指先で示した。

 どうやら抜粋して来たらしい。

 見てみると。



【腐らない死体】

 永久死体と呼ばれるものの中に、『木乃伊』と並んで知られているのが屍蠟化現象である。低温で空気の少ない環境に置かれた場合、化学変化によって蝋燭のようになってしまう。屍蠟化すると、死体は半永久的にその姿形を保つ。屍蠟化は外表から始まり、皮下組織や筋肉、骨と時間をかけて変化していき、完全に屍蠟化するまでに一年から数年とかかる。 



 ……ふむ。『屍蠟』とやらは出来上がるまでに相当な時間が掛かるのか。その上、出来る為の条件まであるとは。いやはや、何というか、作るには相当な根性が要るものなのだな。

 そんな感想を抱きながら他の紙にも目を通すが、どれも似たり寄ったりの内容で、「低温で空気の少ない」、「数年かかる」という言葉がどの紙にも書かれてあった。

 そういえば。

 敷地内に井戸があったな。

 不意に思い出して、それを小説家に言うと。

「井戸……」

 そう呟き、それから暫く考えるようにしてから。

「『人形』は『屍蠟』だとすると……『屍蠟』は『死体』で──『被害者』。となれば『加害者』が存在するわけで――……敷地内に井戸があることを考えると、その『加害者』が『墨文堂』の人である可能性が高いね」

 小説家はそこで私にちらりと視線を寄越した。

「今更だけれど、これは『事件』ってことになるよね」

 確認するように小説家は言った。

「人であるお主がそう考えるのなら」

 少し思うところがあったが、私はそう応えておいた。

「となると、あの『人形』──誰なんだろう」

 小説家のその台詞に、私は首を傾げた。

「お主……新聞も調べてきたのでは無いのか?」

「調べたよ。調べたけど、何も分からなかった」

 小説家が言うにはここ数年、この街からの行方不明者は出ていないらしい。ただ、新聞に載っていないからといって行方不明者がいないとも限らないらしい。

「……どうしようか。警察に行って訊いてもいいけど、怪しまれそうだよね。それに多分、警察が把握してるのは捜索願が出された分だけだと思うし」

 ふむ。

 そうなると調べるにはあの『墨文堂』の周りの者──近所の者たちに聞き込みをするのが一番か。

 ……聞き込み、か。

 相当、歩き回る羽目になるが……部屋に籠もってばかり居るこやつに出来るだろうか……体力的に。

 とりあえず、「では、訊いて回るより他ないな」と言ってみる。

「そうだね、そうしようか」

 意外にも、小説家は私の提案に乗ってきた。

 私は目を見開いて驚く。

 こやつ。

 『空き家』探しといい、図書館へ行こうと言い出した事といい。

 外出するのに抵抗なく──どころか積極的である。

 どういう風の吹き回しであろうか。

 じっ、とその顔を見る。

「なんだい?」

 私の視線に他意を感じたらしく小説家がそんな反応をする。

 ただの気まぐれかもしれんな。

「……今から動くのか?」

 心中にあることは置いといて、話を進めた。

「いや、流石に今日はもう暗いから止めとくよ。明日だね」

 その暗さを確認するように窓から外を見て小説家は言う。その手は畳の上に広げた紙を片付けていた。

「そうか」

 言って、私は身体を伸ばし、凝り固まった筋と骨を解す。

 小説家が紙を文机の引き出しにしまうのを尻目に、私は小説家の部屋を後にした。




 翌朝。

 私と小説家は連れ立って、下宿屋の玄関先に出た。

「おはよう」

 そう声を掛けるものがあって、小説家は声の主の方を見やり、私は即刻其処(そこ)から離れた。

「本当に慣れないものだねぇ。今日は煙管を持っていないというのに」

 苦笑しながら大家が言う。その手には煙管の代わりに新聞があり、どうやら読んでいる最中であったらしい。

「おはようございます。身体に染みついた長年の愛煙が滲み出てるんじゃ無いですか?」

「朝から手厳しいねぇ、作家先生は」

「言われることが嫌であれば止めることをおすすめしますよ」

「本当に手厳しい」

 そう言って大家は小さく肩をすくめて見せた。

「で、今日はどこにいくんだい?」

 新聞をめくりながら大家が言う。

「あぁ、はい、少し散歩をしようかと思いまして」

 小説家がそう答えると、大家は目を丸くした。

「散歩? 作家先生が?」

 驚きは相当なものだったようで、大家の新聞を持っている腕がやや下がった。

「そんなに驚くことですか?」

「驚くに決まってるだろうよ、作家先生。昨日といい今日といい、何かあったのかね?」

 大家の新聞を持つ腕はすでに膝まで下がりきっている。

「いえ、何も無いですよ」

「そうかい。まぁ、いつのまにか見えなくなってる、なんてことにならないならいいさね」

「何も言わずにいなくなることなんてしませんよ」

「どうだかねぇ」

 言って、大家は新聞を持ち直して広げた。

「疑いますね。何か前例でもあるんですか?」

 小説家が訊く。

「前例というか……まぁ、近くでそういう話を耳にしたことがあったものでね」

「……? 行方不明になった人がいるんですか?」

「行方不明なのかどうかも分からない話だよ。家族は警察に届けてないようだしね」

 ばさり、と新聞をめくる大家。

「その話、詳しく訊いても?」

「なんだい、やけに食いつくね。小説の題材にでもする気かい?」

「まぁ、そんなところです」

「もし使うようなら名前は伏せといておくれよ? 個人情報に五月蠅い時代だからねぇ」

 そう言い置いてから大家は話をした。




「ここから少し離れたところの『墨文堂』という文具屋のね、そこの二人暮らしをしている姉弟の──姉の方の姿がこの二、三年、見えないのだそうだよ」

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