7.すみれ色の瞳
窓ガラスで確認してみたが、確かに自分の頬には赤い線が浮かんでいる。
ただ血は滲んでもいないし、放っておいても良いと判断した。
「あ、フェスカ副官!」
自分を呼ぶ若い青年の声が聞こえて、クラウディオは窓ガラスから視線を外す。護衛対象であるレオナルドは今、鍛錬終わりの湯浴み中。
ここはレオナルドの私室なのだ。豪華な室内には、レオナルド専用の浴室がある。
そこに、第五師団の騎士が訪ねて来た。
「何かあったのか?」
「問題はありません。ただ、副官の婚約者殿が訪ねて来られたそうです。本部に」
「ヴィオレット嬢が?」
会う約束はしていないはず。
クラウディオは顎に手を当て、考える。
わざわざ本部まで来たということは、何か用があるとみて間違いないだろう。用とはなんだろうか?
(結婚の取消──?)
そのくらいしか思いつかなくて、クラウディオの眉間に一瞬だけ、皺が生まれた。
気が変わった? たった一晩で?
それならそれで、構いはしないが──。
「行ってきたらどうだい?」
「殿下……」
浴室の扉が開くと、濡れた髪を雑に拭きながらレオナルドが現れた。
どうやら、話を聞いていたらしい。
「今は仕事中ですので」
「交代すればいいだろう? そこの彼でもいいよ」
「じ、自分ですか?」
伝言を伝えるために来た青年騎士は、レオナルドに指を差され、あからさまに狼狽えた。宮廷に出入りできる程度の地位ではあるが、王子の護衛となると、責任が大きすぎるからだろう。
「しかし──」
「彼女は今日も図書館だと思うよ。君と同じで、仕事熱心みたいだからね」
レオナルドは笑って、ベッドの上に置いてある白いシャツに手を伸ばす。
このあと、レオナルドは家庭教師に会う。厳しい家庭教師は、身嗜みは常に整えなさい、と言うのだ。
「殿下、私は──」
「行ってくるといいよ」
にこっと笑うレオナルドは、それ以上、クラウディオを見なかった。
こういうことは、以前もあったような気がする。
どうしてこの王子は、自分を彼女の下へ行かせたがるのだろうか?
クラウディオはしばしレオナルドの横顔を見つめ、そして動くことにした。
「一時間で戻る」
「え、副官! 待ってくださいよ!!」
足早に部屋を出て行くクラウディオの背に向かって、青年騎士は情けない声を発していた。
王立図書館の本棚は、一般的な本棚と比べるまでもなく、とても高い。一番上の本なんて、どう背伸びを頑張ってみても、届くはずがない。
そんな時は、梯子を使うしかない。今のヴィオレットのように。
「…………」
ヴィオレットは無言で、一番上の本棚に本を戻している。
結局、お昼ご飯は食べなかった。一時間のお昼休憩を、ほとんど馬車の中で過ごしてしまったからだ。ダリア達は構わず食べなさいと言ってくれたが、ヴィオレットは根が真面目すぎるのだろう。少量食べただけで、バスケットを閉じてしまった。
正直に言うと、お腹は空いている。
「…………?」
足音が聞こえたような気がして、ヴィオレットは顔を上げた。周囲を見てみても、自分は梯子の上にいるのだ。同じ目線に、人がいるはずがない。
なので、視線は下へ向けるべきだ。
「……クラウディオ──様?」
赤い髪は少しだけ乱れていて、深い緑色の瞳は真っ直ぐに、梯子の上のヴィオレットを見上げている。
ヴィオレットは手早く本を棚へ戻すと、気をつけながら梯子を降りた。
「どうかされました?」
裾が乱れていないか確認し、改めてクラウディオと向き合う。騎士服を着ているのだから、仕事終わり──いや、仕事中だろう。今はまだ、お昼が過ぎたところ。太陽だって、顔を出している時間だ。
「本部へ来られたと、部下から聞きました」
「あ、はい」
だから来たの?
ヴィオレットは視線を泳がせる。話したいことがあったから、騎士団本部へ赴いた。
だが今は、話す心構えができていない。
「ご用件は?」
クラウディオは世間話をすることもなく、本題に触れた。遠回しな言い方は、できない人なのかもしれない。
ヴィオレットがどう切り出すべきか悩んでいる間、クラウディオは何も言わず、ただ待っていてくれた。
「……私、この仕事が好きなんです。貴族なのに、とか、貴族のくせに、とか言われますけど、好きなんです」
ヴィオレットは確かめるように本棚を眺める。今いるのは、料理関連の本がまとめてあるコーナーだ。郷土料理から、宮廷料理、お菓子の本まである。
ヴィオレットは思うのだ。仕事は他にもたくさんある。酒場や食堂の給仕に、縫い子、メイドに家庭教師や乳母──探してみればいくらでも見つかる中、ヴィオレットは迷うこともなく、司書の仕事を選んだ。
ただヴィオレット自身、続くかどうかはわからなかった。働いた経験などないし、理想と現実が一致することは稀だ。
それでも自分は、一年、司書でいることができた。楽しいことばかりじゃなかったし、奇異の目で見られることも多かったが、それでも一年、働き続けてきた。すべてはそう、好きだからだ。
「だから私、この仕事を続けたいんです!」
「どうぞ。構いませんよ」
ヴィオレットが覚悟を決めて口にした願いに、クラウディオはあっけらかんと答えてみせた。
「い、いいんですか?」
これには少々、拍子抜けしてしまった。なんのために覚悟を決めたのか、わからない。
ヴィオレットは瞬きを繰り返し、食い入るようにクラウディオを見た。
「えぇ、構いませんよ。ただ、これだけは言っておきます」
「は、はい」
クラウディオが真面目な声になったので、ヴィオレットは無意識のうちに、姿勢を正した。
「私はそれなりに、高給取りだと自負しています。貴女の給料をアテにするつもりはないので」
そういえば、クラウディオは『王冠』の副官だ。レオナルド王子の護衛も務める彼が、そこらの下っ端騎士と同じ給料だとは思っていない。
だがあえて、口にしたのだろう。ヴィオレットの給料に手を出すつもりはない、という意思表示のために。
ヴィオレットは苦笑しながら、ふと本棚から不自然に飛び出している薄い本があることに気づいた。抜き取ってみれば、絵本だった。絵本が飛び出していた本棚は、位置的にちょうど、ヴィオレットの腰あたり。
きっと子どもが、戻す場所がわからなくて適当に突っ込んだのだろう。
「知ってます? これ、結構有名な絵本なんですけど」
絵本は古いものだ。表紙には、たくさんの花が描かれている。
「あまり本は読まないので」
「そうですか」
そこで話は、終わってしまった。ヴィオレットは懐かしむように、手の中の絵本を見つめている。ぱらぱらとめくり、そういえばこんな絵だったわ、と昔の記憶を呼び起こす。
この絵本は多分、男の子よりも、女の子の方が読んでいると思う。優しい色合いで、どのページを開いても可愛らしい女の子と花が登場する。冒険なんてしないし、謎解きもしない。
とても穏やかで、優しい物語。
ヴィオレットは絵本に夢中になっていて気づかなかったが、その時になって気づいた。クラウディオの手が、自分の頬に触れたことに。
綺麗だな──クラウディオは心の中で、そう思った。
ヴィオレットは柔らかな微笑みを浮かべ、絵本を見つめている。
その横顔はやはり、昨夜とは違う。昨夜のヴィオレットは、ちっとも楽しそうじゃなかった。
クラウディオだって楽しくはなかったが、女性というものは、ああいう場所が好きだと思っていたのだ。クラウディオの母ラヴィニアもそうだが、ドレスと装飾品で着飾り、おしゃべりに興じる。
そういうものだと思っていたのだが、すべての女性がそうじゃないのだと、ヴィオレットを見て思った。昨夜の、夜会でのヴィオレットは居心地が悪そうだったのに、今の彼女はリラックスしている。
その横顔を見て、純粋に思ったのだ。綺麗だな、と。
黒い髪は結い上げられ、白いうなじがあらわになっている。頬は淡いピンク色で、化粧はしていないようだ。名前が示す通りのすみれ色の瞳は細められ、自分ではなく絵本に向けられている。絵本のページをめくる白い指先は、爪が短い。
服装とか細々とした点を見れば、確かに今のヴィオレットは公爵令嬢ではないのだろう。
だが、労働者にも見えない。背筋はぴんと伸び、所作には品がある。今のヴィオレットは、とても曖昧だ。
そんなヴィオレットを見つめていたクラウディオは、どうしてだか手を伸ばしていた。
ヴィオレットの頬に、自分の指先が触れる。
その瞬間、ヴィオレットの肩がびくりとはね、細められていた目が大きく見開かれた。
「あ、あの……」
ぎこちない仕草で、ヴィオレットがこちらを見た。すみれ色の瞳は、揺れている。浮かんでいる感情は、困惑だ。
まるで、触れられるのがはじめてとでも言いたげな反応に、クラウディオは苦笑してしまった。
ヴィオレットは凛としていて、可愛いというよりも、綺麗という表現の方がしっくりくる。
ただ、今のヴィオレットは可愛いと思うのだ。可愛いくて、綺麗。思えば、こんな風にじっくりと女性を見たのははじめてかもしれない。
その時、声が聞こえた。
「神聖な図書館でイチャイチャしないでもらえます?」
第三者の声が聞こえて、ヴィオレットは跳ねるように一瞬で、クラウディオから距離を取った。
ふたりに声をかけたのは、ダリアだった。腰に手を当て、仁王立ちしている。
「すみません、すぐ仕事に戻ります」
ヴィオレットは逃げるようにその場から立ち去る。クラウディオは無言で、遠ざかるヴィオレットの背を見送った。
「それから騎士様。来るなとは言いませんけど、仕事ではない限り、図書館での帯剣は認めておりませんので」
ダリアはギロリとクラウディオを睨み、そのまま背を向け、歩き出した。
何故だろうか? ダリアからは、敵意のようなものを感じた。初対面のはずなのに。
とは言え、本人を追いかけて問いただす気はない。
ひとりになったクラウディオは用も済んだので、図書館の正面玄関へと向かう。正面玄関へ向かいながら、クラウディオは少しばかり、申し訳ない気持ちになっていた。自分の手は、毎日剣を振り、鍛錬を繰り返しているので、柔らかくない。
そんな自分の手が、ヴィオレットの陶器のような肌に触れてしまったことが、少しばかり、申し訳なく思えた。彼女が嫌悪感を抱いていなければいいのだが……。
絵本のコーナーに向かいながら、ヴィオレットは自分の頬に触れてみた。先程、クラウディオが触れた頬。
どうして触ったのかしら? 何か、汚れでもついていたとか?
ヴィオレットはそう思い、よく磨かれた窓ガラスに近寄ってみた。ジッとガラスに映る自分の顔を見つめてみるが、なんの汚れもついていない。
そうなると尚更、クラウディオの行動が理解できない。ヴィオレットは窓ガラスに映る自分に、怪訝そうな目を向けていた。
「ヴィオレット」
「あ──ダリア」
名前を呼ばれ、意識が現実に引き戻される。
つい先程、ヴィオレットとクラウディオに注意を促した人物が、小さな足音を立てながらこちらへ歩み寄る。
「さっきはごめんなさい。仕事中だったのに……」
「あの人が、四人目なんですね」
申し訳なく思い下げていた視線が、ダリアの声を聞いて、上を向いた。ダリアは――とても複雑そうな顔をしていた。
「大丈夫? その……今回は」
ダリアは心配している。気遣うような視線に、聞こうかどうしようか迷う声。
ダリアは貴族じゃないけれど、ヴィオレットが社交界でなんと呼ばれているのか知っている。三度の婚約破棄も、当然ながら知っているのだ。
「はい。結婚することに決めたんです」
「そう……」
ヴィオレットの答えを聞いて、ダリアは安堵したように肩から力を抜いた。
ダリアは厳しくて優しい。先程、初対面のクラウディオに敵意の宿る目を向けた理由は、ここにある。貴族じゃなかったとしても、同じ女性。三度も婚約破棄されれば、精神的苦痛はかなりのもの。
ダリアは心配している。四度目があるのでは、と。
「じゃあ、仕事は辞めるのでしょう?」
「いいえ、辞めません。クラウディオ様からも、許可はいただきました。……勤務日数は、減ると思いますが」
ヴィオレットが申し訳なさそうにうつむくと、ダリアはいいのよ、と言って肩をそっと撫でてくれた。
結婚って、何かしら? 家同士の繋がりを強固にするため──世間体のため──愛を形にするため──。
自分は結婚するのだ。そう決めた。
でも結婚がどういうものなのか、今も理解できていない。自分には必要のないもの、縁がないものと切り捨ててしまっていたから。
「これ、戻して来ますね」
ヴィオレットは思い出したように、手の中の絵本を見た。
やはり、仕事は辞めたくない。
だって仕事に集中していれば、余計なことを考えなくてすむもの。
ヴィオレットは歩きながら、ずっと絵本を見つめていた。