6.生き方の選択
ヴィオレットは司書の制服を身にまとい、上から外出用のケープを羽織る。朝食は手早く済ませ、これから職場である王立図書館へ出勤するのだ。
ヴィオレットは身支度を終え、玄関へと向かう。荷物は少ない、というより、ほぼ無いと言ってもいい。
玄関には、馬車が待っていた。ヴィオレットを職場まで送り届ける馬車だ。本当は馬車なんて使いたくはないのだが、徒歩で仕事場まで通うことを納得していない両親と折り合いをつけるため、王立図書館のすぐ近くまでなら、と譲歩することにした。
それにまぁ、ヴィオレットは確かに公爵令嬢なのだ。ひとりでうろうろして、犯罪にでも巻き込まれでもしたら、両親はヴィオレットの行動を制限しかねない。
「お嬢様、お待ちください!」
馬車へ乗り込もうとするヴィオレットを、エルマーが慌てて呼び止めた。馬車へ乗るのを一旦中断し、ヴィオレットは小走りで駆け寄るエルマーを待つ。
エルマーの手には、バスケットがある。中身は多分、自分のお昼ご飯だろう。
「忘れていたわ、ごめんなさい」
「えっと、これだけじゃなくて……奥様から伝言を預かって参りました」
「伝言?」
「はい。明日、シャーリーン様がお越しになりますので、お仕事はお休みするように、とのことです」
ヴィオレットはその瞬間、眉間に深い皺を寄せた。母はよくわかっていないようだが、仕事というのは気軽に休んでいいものではない。気分が乗らないからという理由だけで断れる、夜会やお茶会とは違うのだ。
「急に仕事は休めないの。貴女だってわかるでしょう?」
「それは……」
エルマーに同意を求めたが、なんと答えればいいのかわからないようだった。エルマーはただ、言われた仕事を忠実にこなしているだけなのだ。
「それに、どうしてシャーリーンがまた来るの?」
「花嫁衣装の件だそうです」
「……そう」
朝食を終えるタイミングで、ヴィオレットは両親に告げた。
「クラウディオ様と結婚します」
と。
両親は驚き、次いで満面の笑みを浮かべていたが、ヴィオレットは何か言われる前に食堂を出たのだ。両親はヴィオレットが退出した後の食堂で、嬉々として話していたに違いない。
だが、こんなにも早く動かなくてもいいじゃない、とヴィオレットは思った。
「でも採寸はしなくても構わないでしょう? つい先日、採寸したばかりだもの。私が同席する必要、ある?」
「ございます。お嬢様の花嫁衣装ですよ?」
エルマーのもっともな意見に、ヴィオレットは苦笑してしまう。
両親はようやく、ヴィオレットという重い荷物を手放せるのだ。結婚式は、きっと豪華なものにするだろう。思いつく限りの人々に招待状を出し、王都の大聖堂で、誰もが羨む完璧な結婚式を挙げさせる。
そんな結婚式を求めてはいないヴィオレットの意見なんて、誰が聞くだろうか?
「エルマーの言う通りよ、ヴィオレット」
声が聞こえて、ヴィオレットはエルマーの肩越しに、現れた母親の姿を視界に捉えた。
エルナは朝でも、きちんと身嗜みを整えている。一分の隙もない母親の姿は、完璧な公爵夫人に見えた。
「貴女の花嫁衣装を仕立てるのよ。貴女本人がいなければ、お話にならないでしょう?」
「だとしても、急に仕事を休むわけにはいかないんです。お母様には……わからないでしょうけど」
両親とも、そして妹達とも、この手の話では噛み合わない。アドルフは領地管理という仕事があるが、それはあくまでも『貴族の仕事』だ。ヴィオレットの仕事とは違う。
ヴィオレットは働いて一年経つが、家族に仕事の話をしたことはほぼない。理解されないし、話すとみんな、複雑そうな表情を浮かべるのだ。
「ヴィオレット。アドルフと私は、結婚式を再来月のはじめに、と考えているの。だから、仕事は辞めなさい。今月中に辞めて、来月いっぱいは結婚式の準備をするの」
「仕事を辞めるつもりなんてないわ!」
声を張り上げれば、エルナの眉間に深い皺が刻まれた。
「ヴィオ! 貴女はロンベルク家の娘で、結婚すればフェスカ子爵夫人になるのよ。妻は家庭を守るものよ」
貴族に生まれた女性は、両親が選んだ男性と結婚し、その男性の庇護の下、一生を終えるのだ。
エルナもそうだし、クラウディオの母であるラヴィニアだって同じ。ティアナとエステル、ふたりの妹だって、同じような人生を送るのだろう。
それが悪いとは言わない。そういう生き方だってある。
でもヴィオレットは、もっと違う生き方を選んでもいいのでは? とも思うのだ。
「……では、未来の夫──クラウディオ様の許しがあれば、よいでしょう?」
ヴィオレットは睨むようにエルナを見た。母のことは愛しているが、貴女の人生はこうなのよ、決まっているのよ、と言われるたび、押し付けられているような気分になる。母の──その他大勢の、貴族の女性の生き方を、押し付けられているような、そんな気分。
「ヴィオレット、私が言いたいのは、そういうことではなくて──」
「仕事に遅れますので、もう行きます」
エルナの言葉を聞き終える前に、ヴィオレットは馬車へ乗り込んだ。御者はどうしようか迷っていたが、エルナが小さく頷くのを見ると、馬に鞭を打ち、馬車を走らせ始めた。
ヴィオレットは揺れる馬車の中で、膝の上に乗せたバスケットを向かいの座席に移動させた。中には、料理長自慢の料理が詰まっているのだろう。膝に乗せていた時、食欲をそそるいい香りが鼻に届いた。朝食を食べた後でなければ、バスケットを開けていたかもしれない。
「ねぇ、お昼にもう一度、図書館へ来てもらえるかしら?」
「構いませんよ、お嬢様」
通話用の小さな窓越しに、御者へと話しかける。御者は前を向いたまま、明るい声でヴィオレットの頼みを承諾してくれた。
(騎士団本部は……確か……)
一度も足を運んだことはない騎士団本部の場所を思い出すため、ヴィオレットはしばし、馬車の揺れに身を任せていた。
「その傷、どうしたんだい?」
お昼前、クラウディオはいつものようにレオナルド王子の護衛に徹していた。レオナルドは家庭教師から言い渡された課題に取り組んでいる。課題に取り組む時、レオナルドはいつも、温室に足を運ぶ。理由を聞いたことはないが、多分、好きなのだろう。この場所が。
そんなレオナルドが、休憩終わりのクラウディオを一瞥し、言った。
「傷、ですか?」
「頬に赤い線がある。気づいてないのかい?」
レオナルドがこちらを見て、自分の左頬をとんとんと指差した。クラウディオは、そっと自分の右頬に触れてみる。
ある箇所に触れた時、かすかな痛みを感じた。指先を見てみるが、血はついていない。少なくとも今、出血はしていないようだ。
「そういえば……」
クラウディオは思い出す。休憩が終わり温室へ戻ろうとした道中、花瓶が降ってきたのだ。避けて──というメイドの声が聞こえたので、クラウディオに直撃することはなかったが、花瓶は粉々に砕け散った。
その時、破片が頰に当たったのかもしれない。そこら中に割れた花瓶の残骸が飛び散っていたから、そのうちのひとつがクラウディオの頬に当たっていても、不思議ではないだろう。
「それは災難だったね。他に怪我人は?」
「いません」
「それは不幸中の幸い──あ」
レオナルドはその瞬間、ぱっと顔を上げ、クラウディオを見た。
「どうかされましたか?」
「……いや、なんでもないよ」
うかがうような目でこちらを見ていたレオナルドは、クラウディオが平然としているのを見ると、安堵したような顔になり、再び課題へと向き直った。
「──殿下。今、失言だった、と思われましたね」
「…………」
クラウディオの指摘に、レオナルドは何も言わない。
ただ、図星をついたのは確実だ。レオナルドの動きが、ぴたりと止まったから。
「禁句ではありませんよ。不幸、という言葉は」
ヴィオレットとの正式な婚約発表を昨夜終えたクラウディオではあるが、彼自身に変化はない。変化があったのは、周囲と言えた。騎士団に顔を出すと、口々に言われるのだ。
「身の回りに気をつけろ」
「賭け事には手を出すなよ。全財産持ってかれるかもだぞ」
「食べ物にも気をつけた方がいい。ほら、最初の婚約者は、食中毒で死にかけたし」
正直、おめでとうぐらい言ったらどうだ、と思ってしまったほどだ。
クラウディオは逃げるように騎士団を去り、宮廷へと足を運んだが、ここでも似たようなもの。すれ違う文官や、それこそメイドでさえも、クラウディオを見る。好奇、あるいは心配といった、様々な感情の宿る目で見るのだ。
「いや、僕は祝福してるよ、ふたりのこと。ただ僕は……地位ある人間だからね。言葉には気をつけないと」
言い訳するようなレオナルドに、クラウディオはやれやれと肩をすくめる。
「どうかお気になさらず。普段通りで構いませんから」
「心がけるよ。ところで、お昼は食べたのかい? 本部へ戻るのなら、それでもいいけど、まだ食べてないのなら、一緒にどうかな?」
「殿下。何度も言っていますが、私は臣下です。殿下と食事を共にするのは──」
「堅いことは言わないでくれ。昼食はこのまま、ここで食べよう」
レオナルドはにこっと笑って、今度こそ課題へ集中することにしたらしい。
クラウディオはそのことに気づき、黙っていることにした。邪魔をするのは、悪いから。
お昼休みは一時間ある。
それだけあれば、騎士団本部へ行くことも可能だ。ヴィオレットはお昼を食べる前に、騎士団本部へと向かうため、馬車の中にいた。御者はきちんと、迎えに来てくれていたのだ。
「お嬢様、着きましたよ」
「ありがとう」
御者が扉を開け、手を借してくれた。
その手を借り、ヴィオレットは馬車を降りる。
ただヴィオレットは、はじめて訪れた騎士団本部を前に、なんというか──引き返したい気持ちになっていた。高い塀に囲まれ、入り口はひとつ。ふたりの騎士が、入り口を守るように仁王立ちしている。
「お供しましょうか?」
「ひとりで大丈夫よ。だってここは……騎士団ですもの」
ヴィオレットは深呼吸をすると、一歩、踏み出した。
「わたくし、ヴィオレット・ロンベルクと申します。クラウディオ・フェスカ様にお会いしたいのですが、呼んでいただけます?」
ふたりの騎士、どちらに話しかければいいのかわからなくて、ヴィオレットは門のちょうど真ん中辺りで、そう言った。
ふたりの騎士は互いに顔を見合わせると、ヴィオレットから見て右側の騎士が、口を開いた。
「フェスカ副官は、ここにはいませんよ」
「いない?」
騎士団本部なのに?
ヴィオレットが首を傾げると、今度は左側の騎士が口を開いた。
「副官は基本、レオナルド王子の護衛で城にいますから。まぁ、書類仕事をするため、ここにいる時もありますけど……基本、城にいますよ。今も」
「そう……ですか」
ヴィオレットはうつむき、なんだか体から、力が抜けてしまった。思いの外、緊張していたらしい。
「よかったら、中で待ちますか? 人をやって、副官を呼んできますよ」
ふたりの騎士は、うつむくヴィオレットを見て申し訳なく思ったのか、そう言った。
けれどヴィオレットは、小さく首を振る。
「いえ、出直しますわ。お邪魔して、ごめんなさい」
ヴィオレットは一礼すると、振り返ることもなく、馬車へと乗り込んだ。
「残念でしたね、お嬢様」
扉を閉めるとき、御者はまるで自分のことのように、言葉通りの残念そうな顔をしていた。
そんな顔しないで。私、彼に話が会ってきたのよ。会いたかった、顔を見たかったわけではないの。
ヴィオレットは走り出す馬車の中で、膝の上に置いた自分の手を見ていた。本当はクラウディオに会って、司書の仕事を続けたいです、と言うつもりでいたのだ。
クラウディオのことはよく知らないが、彼はきっと、ヴィオレットが働くことを非難しないと思う。責めるようなことも言わなかったし、そういう目でも見てこなかった。
だからきっと、仕事を辞めろとは言わないはず。
そう思っているのだが、実際はどうなのだろう?
やはり、自分の妻が労働者のように働くとなると、違うかもしれない。辞めろ、と言うかもしれない。
「ねぇ……少しだけ、遠回りしてもらってもいい?」
「承知しました、お嬢様」
ヴィオレットは窓の外を眺めながら、ふと思う。
こんなことなら、お昼ご飯を持って来ればよかった、と。