4.紫色のドレス
正式な婚約発表を前に、ヴィオレットは母に言われ、ドレスを新調することになった。正直に言えば、婚約発表のためにドレスを新調するのは大袈裟な気もしたが、上機嫌の母に逆らうのは利口じゃないと判断したので、大人しく採寸を受けることに決めた。仕事を一日だけ休み、屋敷を訪れた仕立て人の採寸を今、宣言通り大人しく受けている。
「髪型は決まっていますの?」
仕立て人は、痩せた女性だった。エルナが若い頃から贔屓にしている仕立て人で、優しげな容姿をしているが、腕は確か。ロンベルク家の三人姉妹のドレスも、彼女が仕立てている。
「えぇ。結い上げるのではなく、ふんわりとした愛らしい髪型にするつもりよ」
エルナは窓際に置いてあるひとり掛けの椅子に腰掛け、仕立て人──シャーリーンの問いかけに答える。
「でしたら、ドレスも愛らしいデザインをお望みですのね。婚約者の……」
「クラウディオ・フェスカ子爵よ」
「そうでしたわね。その方が見惚れるような、そんなドレスをお作りしますわ」
シャーリーンは労働者階級ではあるが、立ち振る舞いに品がある。
エルナもそうだが、ヴィオレットもシャーリーンのことは好きだ。穏やかで、言葉はいつも柔らかく、微笑みを絶やさない。今も美人だが、若い頃は咲き誇る薔薇のような乙女だっただろう。
「色は……紫にしましょうか」
「まぁ! ピンクではないの?」
エルナが声を発し、目を見開いてシャーリーンを見つめる。
「ピンクがよろしいのですか?」
「当然だわ。──ヴィオレット、貴女もそう思うでしょう?」
ようやくエルナは、娘の意見を聞くことにしたらしい。今まで黙っていたヴィオレットは、エルマーの手を借り、採寸のために脱いだドレスを着直しているところだった。
「紫で良いと思いますわ。だって私……ピンクは似合いませんもの」
ピンクが似合うのは、可愛い女性。ふたりの妹のように。
自分には青とか、濃い緑とか、瞳と同じ紫色が似合うように思う。シャーリーンは、そんなヴィオレットの気持ちに気づいているのかはわからないが、ヴィオレットにピンクをすすめることはない。
「濃い紫ではなく、淡い紫の布を使いますわ。──こちらの布です」
シャーリーンは、仕事用のかばんから布見本を取り出す。
エルナはそれを見て、「まぁ、これなら良いかしら」と、納得したような声を漏らしていた。
「髪には真珠を?」
「えぇ。身につけるものはすべて、真珠のものを使うわ。髪飾りも、耳飾りも。首飾りもすべてよ」
婚約を発表する夜会の服装は、すべてエルナが決めてしまっていた。ヴィオレットが口を挟む余地などないほど、あっという間のうちに決まっていたのだ。
「ヴィオレット様は、何かドレスにご要望はございますか?」
布見本を見つめるエルナに微笑みを返して、シャーリーンはヴィオレットを見た。
「私は別に……何もないわ」
今回の婚約発表に、両親は心血を注いでいる。これが最後、と言わんばかりの張り切りようだ。
そんな両親を押しのけ、自分の要求が通るとは思っていない。ヴィオレットは自身の両親を、よく理解しているのだ。
「お姉様だけずるいわ!」
ドレスの背──ボタンをきっちりと閉めたところで、部屋の扉が勢いよく開いた。エルナが何事なの? と不快感を露わにして扉を見た。
「エステル……なんですか、ノックもなしに」
部屋に入って来たのは、母親譲りの金髪の持ち主──エステル・ロンベルクだった。三姉妹の末っ子で、十六歳。社交シーズンの始まり──今月の初頭に宮廷へ拝謁を済ませ、社交界デビューを果たした可愛い妹。自分よりも、よほどピンクが似合う。
そんな妹は、不満そうに頬を膨らませていた。
「わたしだって新しいドレスが欲しいわ!」
どうやら、不満の理由はそこにあるらしかった。
エルナはやれやれと肩をすくめると、ひとり掛けの椅子から立ち上がる。
「貴女には、社交界デビュー用のドレスを仕立ててあげたでしょう?」
「わたくしだって、新しいドレスが欲しいわよ!」
エステルの後から部屋へ入って来たのは、もうひとりの妹ティアナだった。
こちらも、母親譲りの金髪である。今年で十七歳になり、昨年、社交界デビューを済ませた。求婚は絶えないようだが、妥協したくないと言って、今も婚約者はいない。
「ふたりとも、わかっているでしょう? 来週の夜会の主役は、ヴィオレットなの。貴女達のドレスを新調することはないわ」
エルナはハッキリ言うと、ふたりの妹を無理矢理、部屋から追い出した。父アドルフは、溺愛する娘達から頼まれれば、なんでも与えてしまう傾向にあるが、エルナは違う。娘達は愛しているが、与えて良い時とダメな時の区別はつくのだ。
「賑やかですわね」
「淑女らしさに欠けるわ。あの子達がアドルフにおねだりする前に、アドルフ本人に釘を刺しておかないと」
エルナは布見本を閉じると、シャーリーンへと返す。
「あとはお願いしても?」
「はい、奥様」
エルナは優雅に部屋を出て行く。
きっと、アドルフ宛に手紙でも書くのだろう。アドルフは今、宮廷に出向いているから。
「遅ればせながら、婚約おめでとうございます、ヴィオレット様」
「……めでたくなんかないわ」
屋敷に来た瞬間から、シャーリーンはエルナのおしゃべりに付き合っていた。
わざわざお祝いを言うなんて、律儀な人。
ヴィオレットはそう思いながらも、口から出たのはそんな言葉だった。
シャーリーンはヴィオレットの立ち姿を見て、首を傾げる。
「お嫌なんですか?」
「私がなんと呼ばれているか、貴女も知っているでしょう? 今は公になっていないけれど、来週には誰もが知ることになるこの婚約。……傷つくのは誰かしらね」
疲れたように言葉を吐き出すと、ヴィオレットは先程まで母親が座っていたひとり掛けの椅子に歩み寄った。採寸のため下着姿になっていたので、カーテンは閉じられている。近寄れば、カーテンの隙間から外が見えた。
ヴィオレットはカーテンを開けると、眩しい太陽の光に、目を細める。
「ヴィオレット様は、信じておられるのですか? 今までの婚約者様が不幸になったのは、自分のせいだ、と」
シャーリーンはハッキリと聞いてきた。エルマーが少し眉をひそめたが、ヴィオレットは気にしない。
「信じていないわ。けど私と婚約するのと同時に、不幸が重なったのも事実。三度も続けば、周囲の人は真実だと思うものよ」
自分だけは、否定し続けたい。
私は私──不幸なんて呼べるはずがないの。
けれど、それを誰かに証明したいとは思わない。クラウディオと婚約して──それこそ、その先の結婚までして、何事も無ければそれでいい。
でもそれって、彼を利用していることにならない?
自分の不名誉な呼び名を返上するため、クラウディオと結婚した──そう思えてならない。
「愛があれば、なんの問題もありませんわ」
「貴族の結婚に、愛は求めるべきじゃないわ」
「ですがヴィオレット様のご両親はどうです? おふたりは、互いを思い合っておりますわ」
ヴィオレットはシャーリーンを見た。相変わらずの優しい微笑み。
この微笑みが、何もかもを許してしまうのだ。仕立て人のくせに生意気な、とは思えなくさせる。
「ヴィオレット様は幸せになれますわ。貴女と結婚される方も、幸せになれます」
根拠がないわ、と言おうと思ったが、言わなかった。なんだかとても、疲れてしまったのだ。ドレスの採寸は久しぶりだったからだと思う。
ヴィオレットは椅子に腰掛け、背もたれに体重を預けた。
シャーリーンはそれ以上何も言わず、仕事かばんに布見本や巻尺などをしまう。
「ドレスは夜会前に、お届け致します」
礼儀正しく一礼してから、シャーリーンは部屋を出て行く。エルマーは玄関まで見送るため、その後を追いかけた。
ひとりになったヴィオレットは、思う。あの人は、知ったかしら? 私の不名誉な呼び名を。知ったのなら、早く言って欲しい。
婚約破棄──その言葉だけで、両親は今度こそ諦めるかもしれない。自分が不幸を呼ぶとは信じていない。信じていないけど、誰かが不幸になるのは嫌。
(夜会の前に……言ってくれると助かるわ)
公衆の面前で婚約を破棄されるのは、いたたまれない。
せめて手紙でも、あるいはふたりの時にでも、兎に角、そのくらいの優しさくらいなら、求めてもいいのではないだろうか?
どうかクラウディオ・フェスカが、そういう人でありますように。
ヴィオレットはただ、それだけを願っていた。
夜会当日、ヴィオレットはシャーリーンが仕立てた紫色のドレスを身にまとっていた。胸元は開いているが、決して下品には見えない、上品なカットだ。ドレスの形はクラシックで、ヴィオレットを落ち着いた淑女に見せてくれるだろう。
シャーリーンは仕立て人だが、流行ばかりを追いかけない。
そこをヴィオレットは気に入っている。
「お嬢様?」
鏡台の前、黒髪を垂らした自分の姿を、ヴィオレットはただ、見つめていた。
ヴィオレットは待っていたのだ。クラウディオ・フェスカからの、婚約破棄を。
それなのに、来なかった。
「お嬢様、クラウディオ様がお待ちです」
「そう、ね」
こちらをうかがうエルマーの顔を見るため首をひねると、真珠のイアリングが揺れた。涙型の真珠は大粒で、高価なものだと一目でわかる。
「今夜もお綺麗ですわ」
「それはシャーリーンのドレスと、貴女のおかげよ」
ヴィオレット笑って、立ち上がる。部屋を出て、廊下を進み、階段を降りる。夜会の会場は、大広間だ。ラクリマ領にあるロンベルク家の城に比べれば、社交シーズンだけ使うこの町屋敷の大広間は手狭と言えたが、それでも『大広間』と呼べる程度の広さはある。
両親は本当に張り切って、今夜の夜会を準備したらしい。招待客はかなりの数だ。
「……お嬢様?」
階段を途中まで降りたところで、ヴィオレットの足が止まった。視線の先には、クラウディオがいる。燃えるような赤い髪、深い緑色の瞳からは、今夜も感情を読み取ることは難しそう。
彼はどうして、婚約破棄しないのかしら? もしかしてまだ、知らないの?
「あの、お嬢様……」
エルマーが心配するように声をかける中、ヴィオレットはあることに気づいた。
どうして私は、自分から婚約を破棄しようとしないのかしら?
クラウディオは貴族だけれど、ロンベルク家と比べれば下、と言える。実際、不幸な目に未だあっていないとしたら、噂だけで婚約破棄なんてできるはずがない。
もしかしたら、クラウディオの方が待っていたのかもしれない。ヴィオレットが破棄することを。
それなのに、ヴィオレットは自分から婚約を破棄する考えに至らなかった。露ほども考えなかったのだ。
それが何を意味するのか、ヴィオレットにはわかった。自分の心だもの。わからないはずがないわ。
「……期待……嫌な響きね」
「お嬢様……?」
エルマーが、本気で心配し始めている。
ヴィオレットは安心させるかのように、階段を降り始めた。
あと数段で階段が終わる、というところで、クラウディオがこちらを向いた。緑色の瞳がヴィオレットの姿を映すと、少しだけ見開かれたように思えたのは、気のせいだろうか。
「お綺麗ですね、ヴィオレット嬢」
「お褒めいただき、光栄ですわ」
クラウディオが差し出す手に、自分の手を重ねる。
ヴィオレットは力なく微笑み、クラウディオを見上げた。
私はもしかしたら、と期待していたのよ。二度目も、三度目も、そして今回も。
『不幸を呼ぶ女』という不名誉な呼び名を返上できるのでは? と婚約するたびに期待していた。
だから、自分では婚約を破棄しなかったのだ。クラウディオに破棄させるよう仕向けておきながら、なんて矛盾しているのだろうか!
今更になって、自分の心の奥深い部分を知るだなんて……。
「どうかされましたか?」
「いいえ、何も──あの」
大広間へ向かおうとするクラウディオの手を握りしめ、ヴィオレットは彼をジッと見つめた。菫色の瞳は今、どんな感情を宿しているだろうか?
「私のことを何か……知りました?」
期待しないで。期待してはダメ。期待したら、傷つくわ。
どうせ、今回だって失敗に終わるんだから。
そう覚悟して聞いたら、クラウディオは視線を逸らすことなく一言だけ。
「王立図書館で働いているんですね」
それだけしか、言わなかった。
クラウディオは大広間に向かって歩き出し、ヴィオレットは拍子抜けしたまま、手を引かれる。
それだけ? それだけなの!?
ヴィオレットは隣を歩くクラウディオを見上げ、そして目を伏せた。
──期待しないで。期待しないで!
そう何度も自分に言い聞かせ、ようやく気持ちを切り替えることができた頃には、大広間に到着していた。