3.噂と真実
クラウディオ・フェスカは、自他共に認める仕事人間だった。二十八年生きてきて、恋愛よりも、金儲けよりも、人脈を持つことよりも、剣を振る日々を送ってきたクラウディオは、その努力が認められたと言うべきなのか、王族を護衛する『王冠』の副官にまで上り詰めていた。
ただクラウディオ自身は、『王冠』に配属されても別段、嬉しくはなかった。第五師団──通称『王冠』に配属されるのは選ばれた者のみだから、とても光栄なことだと理解はしているが、いかんせん暇すぎる。剣を抜くことなど、滅多にない。
第一師団『剣』は、戦争が起こった際、最前線に立つ師団のため、所属人数はどの師団よりも多い。平民出身の騎士は大抵が『剣』に配属され、普段は配属された場所の治安を守っている。
第二師団『盾』は、国境線の防衛を担当している。常に国境線沿いに建てられた砦だとかにこもっているので、どの師団よりも王都とは縁遠いと言えた。
第三師団『弓』は、一番特殊な師団と言える。隠密──言うなればスパイ活動が仕事なので、内情を知る者は極端に少ない。所属している人間も、基本的には非公開となっている。
第四師団『槍』は、逃亡した犯罪者を捕獲するのが仕事。仕事上、『剣』とは連絡を取り合うことが多い。『剣』は街中で起きた犯罪を取り締まるのが仕事だが、逃亡し、街から出た犯罪者を追跡し捕らえるのは『槍』の仕事だからだ。
そのため、『剣』同様、『槍』も国内に散らばるように方々の街へ配属されている。
クラウディオは、『王冠』へ配属されたことを光栄に思いながらも、心の片隅で思っていた。どうせなら、『王冠』以外がよかった、と。
いや、『王冠』と『盾』以外なら、どこでも良かったと言うべきだろう。王族の護衛は、退屈すぎる。自分は剣を振っていたいのだ。何も考えず、何にも縛られず、ただ無心に剣を振る。
それが性に合っていると思うのだ。両親も兄も社交的だが、自分は気の利いたことも言えない、つまらない人間だから、社交界は肌に合わない。結婚だって、興味がない。
だから昨夜の、ヴィオレット・ロンベルクの言葉の意味が、よくわからずにいた。
──社交界でなんと呼ばれているか、知っていますか?
──知ることをオススメしますわ。
──知れば、婚約破棄したくなるでしょうから。
彼女はそう言っていた。どういう意味だろうか? 言葉通りの意味?
「難しい顔だな、クラウディオ」
考え込んでいたクラウディオは、名前を呼ばれて、今が仕事中であることを思い出した。自分を呼んだのは、この国の王子だ。
「申し訳ありません、殿下」
「構わないよ。昨夜は大事な日だったようだし、考え込むのは仕方ない」
カルディヤ王国第一王子レオナルドは、緑色の瞳を細め、笑ってみせた。同じ色の瞳──と言えるが、レオナルドの瞳の方が鮮やかで澄んでいる。クラウディオの瞳は、湖の色を模したような深い緑色だから。
「大事な日、ですか?」
自分はこの美しい王子に、何か言っただろうか?
ただ部下に、夜勤を変わってくれと言っただけだ。
「僕の情報網を甘く見てもらっては困るよ。昨夜はロンベルク公爵家との晩餐会だったんだろう?」
「よくご存知ですね」
クラウディオは驚くこともなく、淡々とした様子でレオナルドを見つめた。
レオナルドは現在、チェスに興じている。相手は従兄のディーン。
「どうだった? 婚約したのかい?」
「はい。正式な発表は、まだですが」
婚約はほぼ決定していたも同然だが、今朝、二日酔いの父親からそう聞いた。
クラウディオは王都に自分の屋敷を所有しているが、昨夜は実家に泊まったのだ。
「発表はいつだい?」
次の手を考えていたディーンが、楽しそうな微笑みを浮かべて、クラウディオを見た。
ディーンの父親はブルート公爵フリードリヒ──国王の弟である。レオナルドより二歳年上で、昔から遊び相手としてよく城へ出向いていた。
最近は領地管理が忙しく、城へ出向く頻度は減っていたが、社交シーズンのため王都へ戻って来ていた。
「それは……未定です」
「決まったら教えてくれ。婚約祝いの品を贈るから」
「そこまでしていただくわけには──」
「気にしなくていいよ。君には世話になってるしね」
レオナルドは笑っていて、ディーンも笑っている。
そんなふたりを見つめながら、クラウディオはふと、聞いてみたくなった。
「ヴィオレット・ロンベルク嬢に関する噂──を、ご存知ですか?」
瞬間、ふたりが真顔になった。
そしてお互いに顔を見合わせ、気まずそうな顔になる。
自分は、まずいことを聞いたのだろうか?
そう思わせるふたりの表情に、クラウディオは表情にこそ出さなかったが、不安な気持ちになった。
「あ〜……クラウディオは、知らないのか?」
「はい。社交界からは遠ざかっていますし、噂話には興味がないもので」
そう、クラウディオ・フェスカとは、こういう男なのである。興味本位の、一時の楽しみのために囁かれる根も葉もない噂には、爪の先ほども興味がない。
どこの令嬢が社交界デビューなのだとか、あの家の長男が労働者に夢中だとか──そんな噂話になんの価値があるというのだろうか。
大切なのは自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分で感じることだと思うのだ。
それが『真実』であると、クラウディオは思っている。
「……ヴィオレット嬢は美人で賢く、歴史あるロンベルク家のご息女だ。引く手数多だったんだが、ある噂によって現在も独身」
「その噂とは?」
「……彼女は三度婚約し、三度婚約破棄をされた。その理由は……つまり……」
レオナルドは本当に言いにくそうだ。
ここには居ない、ヴィオレットの尊厳を傷つけるのではないか、と思っているのかもしれない。
だから代わりに、ディーンが教えてくれた。
「彼女は『不幸を呼ぶ女』と呼ばれている」
「不幸を呼ぶ女──?」
思わずディーンを見つめれば、彼は視線を逸らすことなく、クラウディオを見つめ返していた。嘘じゃない──その噂が真実かどうかではなく、ヴィオレットが社交界でそう呼ばれているのは確か、ということだ。
「歴代の婚約者が、皆、不幸な目に遭っているから、そう呼ばれているようだね」
「死んだんですか?」
「ぶっ──違うよ!」
クラウディオの率直な問いに、レオナルドは反射的に吹き出してしまった。
「皆、存命だ。ただヴィオレット嬢と婚約するのとほぼ同じ時期に、不幸な出来事が起き始めるから……そう呼ばれているみたいだね」
「社交界じゃ、彼女とちょっと話しただけで不幸になった! と言う目立ちたがりもいたな」
ふたりはよく知っているようで、クラウディオは複雑な気持ちになってしまう。自分は本当にこういった話には疎いな、と思うのと同時に、昨夜のヴィオレットがどんな気持ちで「知ることをオススメしますわ」と言ったのか、それが気になった。
彼女は、俺に婚約破棄してほしいのだろうか? 四度目の、婚約破棄を。
「ヴィオレット嬢は変わり者としても有名だ」
「変わり者……?」
「公爵令嬢なのに、労働者のように働く変わり者──そう呼ばれてもいる。王立図書館の司書として働いているんだ。見に行ってみたらどうだ?」
「仕事があるので」
即答したら、ディーンに苦笑された。
「なら、誰かに代わってもらえばいい。僕から『王冠』に言っておくから、行ってくるといい」
レオナルドはそう言うと、離れた場所に控える侍従を呼んだ。
「クラウディオは急用ができた。別の護衛を」
「かしこまりました、殿下」
侍従は深々と一礼すると、任された仕事を遂行するため、その場を足早に離れた。
「さすがに、王立図書館の場所はわかるだろう?」
「は、はい」
「なら、早く行くといい。自分の婚約者を知る、良い機会だと思うよ」
レオナルドは微笑むと、視線をチェス盤へと向けた。
さっさと行け──ということらしい。
クラウディオは迷っていたが、主命だと思えば、動くことは容易い。無言で一礼すると、静かにその場から離れる。
「ロンベルク公は、早々に結婚させるだろうね」
「だろうな。溺愛する娘を、このまま独り身でいさせるわけがない。もしかすると、この婚約を機に、司書の仕事も辞めさせようと思っているかもな」
ふたりはチェス盤を睨みながら、同じことを思っていた。
ヴィオレットとクラウディオ──ふたりがうまくいけばいいな、と。
そうしたら、ヴィオレットの不名誉な呼び名は返上され、クラウディオも安らぎを得るだろうから。
王立図書館には、価値ある蔵書が何十冊──それこそ、かなりの数保管されているが、建物自体にも十分な価値がある。カルディヤ王国でも、歴史ある建物だ。一般公開されており、平民でも本を借りることはできる。
どんな国でも同じと言えるだろうが、図書館では静かにするのが暗黙の了解だ。昼間だというのに、図書館は静寂に包まれていた。
クラウディオは久しぶりに訪れる王立図書館の通路を、ただ歩いていた。司書に聞けば、ヴィオレットの居場所はすぐにわかるのだろうが、聞かなかった。
図書館の静寂は、とても落ち着ける。
ここはとても、穏やかだ。声を出すことさえ、憚られる。教会とは違う種類の静寂に包まれている。
「あ──」
少し歩いたところで、クラウディオの視界の端に、黒髪の女性が見えた気がした。足を止め、確かめるようにそちらへ向かって歩き出す。音を立てないよう、気配を消して。
「…………」
大きな窓から射し込む午後の光を背に受け止めながら、ヴィオレットはそこにいた。ブックトラックの前に立ち、本を選別している。黒い髪はきっちりと結われ、髪飾りはひとつとしてない。
司書の制服は灰色で、なんの面白みもない──と年頃の乙女なら思うことだろう。
だが首元までボタンを閉めた司書の制服に、生真面目な、けれども禁欲的な雰囲気があると気づけば、印象ががらりと変わるような気がする。
「あの……これの続き、どこにありますか?」
ふと、小さな女の子が仕事中のヴィオレットに歩み寄り、声をかけた。服装からして、貴族ではないだろうし、裕福そうにも見えない。普通の女の子、と言える。
ヴィオレットは仕事を中断し、少女の目線に合わせるため、腰を屈めた。
「これ? ちょっと待ってね。確か……あったわ」
本のタイトルを確認すると、ヴィオレットはブックトラックの中からある本を見つけ、それを少女へと手渡した。
「ついさっき、返却されたの。運が良かったわね」
「ありがとう!」
女の子は笑顔でお礼を言うと、ぱたぱたと走り去る。一時、図書館の静寂は破られていたが、不快感はない。
むしろ、微笑ましい光景と言えた。
仕事に戻ったヴィオレットの横顔は、柔らかい。昨夜とはあまりにも違う柔らかな表情を見て、クラウディオは気づいた。
彼女は、好きなのだろう。この仕事が。
クラウディオは数分──だったと思う。もしかしたら、数秒だったかもしれない。
ヴィオレットの仕事ぶりを眺めた後、声をかけることもなく、引き返した。
見られているような気がする──ヴィオレットはそう思い顔を上げたが、周囲には誰もいなかった。図書館は静かで、小さな物音だって、大袈裟に聞こえる静けさ。
だから見られているというのは、気のせいだろうと思った。
ヴィオレットは返却された本を手に取り、仕事に集中する。
ここは静かで、大好きな本に囲まれていて、誰も私を見ない。図書館の一部のようなもの。余計なことは、何も考えなくていい。社交界とか、淑女らしさとか、不名誉な呼び名とか。
ヴィオレットは穏やかな気持ちで、また一冊、選別した本の山へと積み上げた。