2.公爵家と侯爵家
コルセットを締めたのは久しぶりで、少しだけ不快な気持ちになった。イヴニング・ドレスを着るから仕方ないとはいえ、やはりコルセットは好きになれない。
そう思いながら、ヴィオレットは大きな鏡に映った自分の姿を見て、憂鬱な気持ちになった。黒い髪と、名前が示す通りの紫色の瞳。身につけている水色のドレスは、胸元が大胆に開いていて、なんだか頼りなく思える。コルセットで締め上げたから、腰は細く、そして胸は十分な膨らみを主張していて、今の自分はまぎれもない公爵令嬢そのもの。
ヴィオレットは、こういう自分は好きじゃなかった。司書の制服を着て、機能性だけを重視した髪型で、装飾品はひとつもない、あの地味な姿の自分の方が好き。
「お嬢様、フェスカ子爵がお越しになられました」
メイドの声で、ヴィオレットはようやく鏡から視線を外した。
「お待ちください、お嬢様。こちらを」
部屋を出ようと動けば、ヴィオレット付きメイドのエルマーがそれを止めた。差し出してきたのは、金とサファイアの耳飾りと首飾り。シャンデリアの光を受け、幻想的な輝きを放っている。
「あまり好きじゃないわ、着飾るのって」
ありのままじゃダメなのかしら?
そう言ったら、きっとみんなは笑うでしょうね。
ヴィオレットは不満さを隠すことなく耳飾りを手に取り、エルマーは首飾りを持ち、ヴィオレットの背後に回った。
「とてもお綺麗ですわ」
「貴女の腕が良いからよ」
ヴィオレットは素っ気なく言うと、絨毯を踏みしめながら、部屋の外へ出た。
長い廊下を進み、階段へさしかかったところで、声が聞こえた。ヴィオレットは足を止め、聞き耳を立てる。
どうやら、客人はクラウディオ・フェスカだけではないらしい。聞き覚えのない男女の声からして、きっとフェスカ侯爵夫妻も来たのだ。
ヴィオレットは一瞬にして、絶望的な気持ちに支配された。両家の両親が揃っているということは、この婚約は既に決まったようなもの。誰も当人の──ヴィオレットの意思など聞きもしないだろう。
(フェスカ子爵は……この婚約を受け入れているのかしら?)
ふと気になった。
ヴィオレットはこの婚約を受け入れていない。受け入れたくない。
だがクラウディオ・フェスカはどうなのだろう? 自分と同じ気持ち?
だとしたら、希望はあるのかもしれない。
「お嬢様、参りましょう」
エルマーに急かされたヴィオレットは、渋々階段を降りていく。
「ヴィオレット」
階段を数段降りただけなのに、アドルフは目ざとくヴィオレットの存在に気づいた。
ヴィオレットは引き返したい気持ちを抑えつつ、階段をゆっくりと降りる。両親は今朝からずっと上機嫌で、複雑な気持ちになってしまう。
「ヴィオレット、ご挨拶なさい。こちらはヘンリー・フェスカ侯爵と、その奥方ラヴィニア殿だ」
「……お目にかかれて光栄です。ヴィオレット・ロンベルクと申します」
感情のこもらない挨拶を済ませると、ヴィオレットはある人物に目が止まった。燃えるような赤い髪の男性──多分、この人がクラウディオ・フェスカなのだわ。
侯爵夫妻の背に隠れるように立っている男性は、アドルフやヘンリーよりも背が高く、完璧には隠れられていない。母親譲りだと思われる赤髪は、ラヴィニアの赤よりもずっと鮮やかで目を引く。
少し離れた位置からでもわかる。彼は美しい。長身で、無駄のない体つきと、凛々しい顔立ち。今までの婚約者とは違う美しさを身にまとうクラウディオを、ヴィオレットはしばし、見つめ続けていた。
「クラウディオ。お前もご挨拶を」
「──クラウディオ・フェスカと申します」
前へ出ることなく、クラウディオは礼儀正しく一礼すると、それ以上何も言わなかった。クラウディオの深い緑色の瞳と目が合ったが、感情は何ひとつとして読み取れなかった。
侯爵夫妻は「愛想のない息子で申し訳ない」と謝っていたが、ヴィオレットは少しだけ安堵した。
この人は、婚約に期待も落胆もしていないのだわ。
感情が読み取れないのは、単純に何の感情も抱いていないのか、それとも隠すのが上手いだけなのか、今の段階では知ることができない。
だが自分を見るクラウディオの目に、なんの感情の色も見えなかったことが、ヴィオレットを安堵させてくれた。
「晩餐の準備は整っておりますわ」
ヴィオレットの母──エルナ・ロンベルク公爵夫人が、穏やかにそう告げた。
今夜は晩餐会で、ロンベルク家の料理長が自慢の腕をふるったらしく、アドルフがコレクションしている自慢のワインも開けると言っていたのを思い出す。ふたりの妹は、くしくも別の貴族が開いた夜会に出席しているため、屋敷にはいない。
結婚相手選びに余念のない妹達が偶然にも屋敷にいない──両親の策略じみたものを感じてしまう。
「クラウディオ殿は飲まれますか?」
「いえ、遠慮しておきます。明日も仕事なので」
晩餐会の会場でもある食堂に全員が通され、それぞれ席に着くと、執事がワインボトルを持って現れた。メーンがお肉なので、赤ワインを用意したらしい。
「クラウディオ殿は『王冠』の副官なのだよ、ヴィオ」
「聞きましたわ」
『王冠』──それは、カルディヤ王国騎士団第五師団の通称である。第一から第五まである師団の中で、第五師団の仕事は王族の護衛。第五師団は最も人数が少なく、精鋭揃い。身分や財産ではなく、純粋な実力と人柄で選ばれる。
となると、クラウディオは優秀な騎士ということになるのだろう。
ヴィオレットには、あまり興味のない情報だが。
「ヴィオレット様は、普段何をして過ごされてますの?」
アドルフとヘンリーが政治の話をし始めたので、ラヴィニアはつまらなそうな顔をしてから、ヴィオレットに向かって微笑んだ。赤髪のせいだろうか?
ラヴィニアは少しだけ、子どもっぽく見えた。同年代のエルナと比べると、尚更、そう見える。
「王立図書館におります」
「本がお好きなのね」
「えぇ、職場でもありますし」
「ヴィオレット!」
余計な一言だわ──エルナの責めるような目と声に、ヴィオレットは食欲が失せていく。ローストビーフを無理矢理口に押し込み、炭酸水で流し込む。
どうせ破談になるとわかっている婚約ならば、早々にダメになってしまった方がいいと思うのだ。幸いなことに、クラウディオは婚約とか結婚とかに興味がないようなので、きっと破談になっても自分を責めたりはしないだろう。
破談──婚約破棄を突きつけられるたび、ヴィオレットの心は締め付けられたように苦しくなる。自分のせいじゃない。不幸を呼ぶですって? そんなことができるはずないじゃない。
けど誰も、ヴィオレットの主張になど耳を傾けたりしない。男性陣は表面上だけヴィオレットを褒めて、けれど心の中では馬鹿にしている。女性陣はもっと厄介だ。表面上はいい人ぶっておきながら、影ではあることないこと言って、ヴィオレットに好奇とか哀れみとか、そんな感情のこもる目を向けてくる。
「──私、失礼します」
胃がムカムカしてきて、これ以上、何も口に入れたくなかった。食堂に満ちるアルコールの香りが、ヴィオレットの頭をクラっとさせた。
「クラウディオ様。よろしかったら娘をお願いできます? 今夜は晴れておりますから、きっと星がよく見えますわ」
エルナの言葉に、ヴィオレットは顔を覆いたくなった。
誰ともいたくないのよ! どうしてわからないの?!
そう訴えたかったが、余計な波風を立てたくはない。ヴィオレットは無言のまま、食堂から逃げるように出た。
三階のテラスからは、エルナの言った通り、素晴らしい星空が見えた。イヴニング・ドレスだと、夜の風は冷たすぎるような気もしたが、頭と心を落ち着けるにはちょうど良いと思った。隣にクラウディオがいることだけが、納得いかないのだが。
(……しゃべらないのね……)
クラウディオは無言のまま、夜空を見上げている。
ただ夜空を見ているだけ。この状況を楽しんでいるようには見えない。
ヴィオレットはチラッと、屋敷の中へ視線を向けた。テラスには出ていないが、すぐそばにエルマーが控えている。
「……ヴィオレット・ロンベルクが社交界でなんと呼ばれているか、フェスカ子爵はご存知ですか?」
沈黙に耐えかねたのもあったのだが、単純にこの婚約を自分から終わらせてしまおうとも思った。
しかし、クラウディオの返答は予想外のものだった。
「申し訳ありません。社交界とは、縁遠いもので」
「縁遠い?」
「仕事ばかりなもので」
クラウディオの瞳に、嘘の色はない。
じゃあこの人は──『不幸を呼ぶ女』という不名誉な私の呼び名を知らないのね。
それは、喜ぶべきことだろうか? それとも、悲観するべき?
だってクラウディオは、今知らないだけだ。いずれ知ることになった時、彼は自分を、どんな目で見るのだろうか?
ヴィオレットは目を伏せ、ゆっくりと息を吐き出し、そして顔を上げた。
「では、知ることをオススメしますわ」
「何故です?」
「知れば貴方は、婚約破棄したくなるでしょうから」
ヴィオレットはその夜、はじめて微笑んだ。諦めの感情を乗せた、哀愁漂う微笑みではあったが。
「失礼しますわ。明日も仕事がありますの」
屋敷の中に戻れば、エルマーが泣きそうな顔でこちらを見てきたので、ヴィオレットは肩をすくめてみせた。
この子は優しい子。純粋に主人の幸せを願っている。
「そんな顔しないで。どうせ結末はわかっているんだから」
「わかりませんわ、そんなこと」
部屋へ戻るヴィオレットの後に続きながら、エルマーは必死に抗議する。
「旦那様も奥様も、とても心配していらっしゃいます。お嬢様だって、言ってたじゃありませんか。あの人達が不幸になったのは、自分のせいじゃない、って」
「そうよ。私のせいじゃない。でもね、私は結婚したいわけじゃないの」
自分の部屋の扉を開け、するりと滑り込むように中へ入る。
「今の生活に満足しているわ。いずれ家を出て、自立した生活を始めるつもりでいるし──」
「ほ、本気ですか? そんなこと、旦那様と奥様が認めるはずありません!」
予想通りの反応をするエルマーに、ヴィオレットは苦笑してしまった。耳飾りと首飾りを手早く外すと、鏡台の上へ置く。早くコルセットから解放されたい。
そんなヴィオレットの気持ちに気づいたのだろう。エルマーが慣れた手つきでドレスを脱がせ、そしてコルセットも外してくれた。
「今夜はもう休むわ」
「まだお客様がお帰りになっておりませんが……」
エルマーは鏡台に置かれた耳飾りと首飾りを、箱へしまう。
「疲れて眠った──そう伝えておいて」
寝間着に素早く着替えたヴィオレットは、天蓋付きの大きなベッドへ潜り込む。
ヴィオレットの部屋は、十代の娘が使うにしては落ち着きすぎていた。若草色の壁紙には、濃い緑で蔦の模様が描かれている。天井にはクリスタルの豪華なシャンデリアが煌めき、家具は木の色で統一されており、高級感が溢れていた。本棚には隙間なく本が詰め込まれており、入りきらない分は机の上に並べられている。
普通、領地を持つ貴族は社交シーズンが過ぎればその領地へと引っ込むもの。
だがヴィオレットは、シーズンオフ中もこの屋敷に住み続けている。職場である王立図書館が、王都にあるからだ。
「お嬢様……」
「言いたいことはわかるけど、何も言わないで。疲れているのは本当なのよ」
朝から図書館に出向き、帰って来たのは夕方過ぎ。帰って来ると、待ち構えていたメイド達に捕まり、浴室へと押し込められた。働いて疲れているのに、ゆっくりする時間もないまま、晩餐会である。
まだ来客が帰っていないのに失礼だとは重々承知しているのだが、疲れているのはまぎれもない事実。明日も仕事があるわけだし、早めに寝てしまいたい。
「……おやすみなさいませ、お嬢様」
エルマーはヴィオレット付きとはいえ、メイドであることに変わりはない。歳が近いから友達感覚ではあるが、線引きはきちんとしている。しつこく言えば、身分不相応だと言われかねない。
エルマーは明かりを消すと、静かに部屋を出た。
翌朝、クラウディオとラヴィニアは早々に帰ったらしいが、ヘンリーだけはアドルフと共に夜遅くまで飲んでいたらしいということを、エルマーが眉をへの字にしながら教えてくれた。