幸せな日本シリーズ
日本シリーズの熱気が冷めやらぬうちに投稿しようと思っていたのですが、なかなかいい考えが浮かばず、気付けばこんな時間に。
少々時代錯誤な感じがありますが、よろしければぜひ。
いつ以来だろうか。僕は野球観戦に出かけていた。隣には女友達。どうやら偶然チケットが取れたみたいなのだが、だれもいく相手がいないので僕を誘ったのだという。
日本シリーズの最終戦。僕と彼女は贔屓している球団が同じで、そのせいかよく野球の話で盛り上がっていた。しかし、実際に彼女と球場に行くのは初めてで、しかもそれがよりによって、最終戦までもつれ込んだ日本シリーズだ。彼女は相当気合が入っており、贔屓にしている選手のユニフォームを着用している。
「まだ早いでしょ」
「良いじゃん。今日は河東選手が先発なんだよ!」
確かに、彼女が来ているユニフォームは『KAWATOH』と書かれており、背番号は18。贔屓球団のエースだ。しかし前半戦は若手の台頭、上半身のコンディション不良によって登板の機会があまりなく、交流戦の期間は一度も出場機会を貰えなかった。そのため球団の中ではすっかり影が薄い存在となってしまい、一時期はトレード候補に挙げられてしまっていたほどだ。しかし後半戦では本来の力を取り戻し、クライマックスシリーズには調子を間に合わせてきた。
「今になって何で、河東なんて……。そりゃクライマックスの時は凄かったけど……」
「そんなこと言わないの。さ、行こう!」
軽くスキップして球場に向かう彼女を見て、僕は思わず笑ってしまった。入口でチケットを見せ、球場に入る。そこは数多のファンでごった返しており、食事をする人や仲間内で盛り上がっている人もいる。僕らはそれには目も暮れず、持ち込んだお弁当を観客席で食べていた。
それを食べ終わりしばらくすると、売り子さんが持ってきた飲み物を買い、試合開始を待つ。その間、僕は彼女と雑談をすることにした。
「チームを好きになったきっかけってあるの?」
「河東選手だね」
「そういえば、河東選手がドラフト一位でこのチームに入団してから、プロ野球を見始めたって言ってたね」
「野球自体は高校の頃から関わっていたけど、本格的に見始めたのはその頃からかな」
「そうなんだ。でもなんで?」
「聞いたら驚くよ?」
「へえ、ますます聞きたくなった」
「……それは、彼は私の婚約者だから」
飲み物が喉に詰まり、僕はむせる。それを見た彼女は大笑いして僕を見ていた。
「だから言ったでしょ。でもごめんね。私が河東くんと同じ高校だっていうのは知ってるよね?」
「……うん。話してたね」
「私、野球部のマネージャーだったんだ。甲子園まで行って、選手たちのサポートを頑張ってた」
「それは知らなかった」
「私と河東君は同級生でね、実家も近かったから、いつも仲良くしていたの。彼が三年の夏、甲子園に出たら付き合ってくれって。いきなりだから首を縦に振っちゃってさ」
「その年は、君の高校が甲子園で優勝した年だ!」
「うん。だから、彼が引退してから交際を始めたんだ」
二人しか知らない裏話を、僕は真面目な顔で聞いていた。すると、監督同士が握手を交わし、審判団が紹介される。いよいよ始まるときだった。スタメンが発表されると、河東の名前はしっかりコールされた。
「河東君! 頑張って!」
聞こえていないだろうが、彼女は健気に大声を出し続ける。その姿に、僕は涙が出そうになった。思わず声が出る。
「今日は頼むぞ! 河東!」
「お? 熱が入ってきたね」
「当たり前だろ? 優勝が懸かってるんだ!」
僕のボルテージも選手同様、最高潮に達していた。マウンドに河東が立つ。その姿は貫録さえ滲み出ており、先頭打者にしっかりと威圧感を与えている。そんな時、僕らの後ろの席の人がため息をついた。
「なんでこんな大事な試合の時に河東なんて出すかねえ。今年なんて全然だったろ」
「だよな。どうして最多勝投手の伊能を出さないんだよ。あいつも中6日だから十分出せるだろう。最低でも河東なんかよりは使える」
愚痴か? 後ろの人たちの声を、彼女は過剰なくらい気にしているようだった。唇をかみ、悔しさに耐えている。あたかも自分のことのように。
「そんな外野のことなんて無視無視! ほら、投げるよ!」
その言葉に、彼女は再び河東に視線を移す。一球目。外角に外れてボール。球速は134キロ。全盛期の勢いはないかに見えた。しかし、場内からは励ましの拍手が送られ、僕らもそれに倣った。
「大丈夫、大丈夫……」
「ああ。河東は尻上がりに調子を上げていくタイプだ。最初はこんなもんさ」
僕は彼女の緊張を和らげようと、事実を交えて声をかける。その後も彼は必死に投げ続けた。先頭打者をフォアボールで出塁させてしまったが、二番打者が送りバントに失敗。河東の見事な送球でダブルプレーに抑えることが出来たのだ。場内からは歓声があがり、僕は胸を撫で下ろした。
「ランナーを背負っても動じないね。さすが」
「でしょう? 次を抑えれば、流れがこっちに来るかも!」
三番打者はこの年の三冠王に輝いており、クライマックスシリーズでも大活躍を見せている。この日本シリーズでも、彼のヒットから得点に結びついた例が多く、緊迫した場面となった。でも、河東はやけに落ち着いている。そして彼は、真っ向勝負を申し出るように速球を投げる。スピードガンに現れた数字は、156キロ。ストライクゾーンにしっかりと入っており、審判が高らかに叫ぶ。
「おいおい、凄いな……」
「いけー、河東君!」
その後は変化球を織り交ぜながら相手を翻弄する。三冠王は手も足も出ず、5球で見逃し三振に倒れてしまった。相手側のファンからどよめきの声があがるほどだった。
「いやはや、立ち上がりから圧巻だね」
「このまま持てばいいんだけど……」
飲み物を飲みながら、1回の表を振り返る。1回の裏から、相手側もリーグ最多勝投手で迎え撃つ。打線は彼によって沈黙し、7回まで両者とも無失点だった。
お互い拮抗していた7回の裏、相手チームがピッチャーを交代した。球数は100を超えていたので、流石に疲れが見えていたのだ。2番手は、球団きっての剛腕中継ぎとして知られている、坂口という選手だった。まだ投手戦が続くのか。いまだに緊張が途切れることはなかった。しかし、投球練習を見ていると、何やら様子がおかしい。それを彼女は即座に見抜いていた。
「ねえ、なんか変じゃない?」
「何が」
「この坂口っていう投手、コントロールが定まっていない。何回か投げているけど、ストライクゾーンに入っているのは一回だけだったよ」
「本当だ。3戦目からずっと投げてるから疲れてるのかも」
球場に設置されている巨大なスクリーンに、投球練習の様子が映し出されている。確かに投げる球がことごとく浮いたり、ホームベースでバウンドしたりと、今までの坂口の投球ではない。これはチャンスなんじゃないかと彼女に言いたかったが、それでも顔を曇らせていた。スポーツは、いつ何が起こるかわからない。急に調子を取り戻して、抑えられるかもしれないのだ。
少し時間を置いて、7回裏の攻撃が始まった。打順はクリーンナップからだったが、この日は一本もいい当たりが出ていない。正直、この打席も期待できないと悟ったが、まだまだ諦めるわけにはいかない。なんだってまだお互いに点を入れていないのだ。河東の好投を、無駄にしてほしくはなかった。
「打てると思う?」
「突然どうしたの」
「私、正直言ってもう無理なんじゃないかって思う。河東君が投げている試合、いつも僅差で負けているんだもん」
「なんだよ、君らしくない」
「ほら、三振だ」
結局、クリーンナップも奮起することはなく、7回裏も無得点に終わった。それから8回の表に入る。河東は、依然として投げ続けていた。後ろの席からはため息が漏れる。
「いい加減変えろ! こいつがいると打線が奮起しない! 分かってんのか?」
「無能な投手に無能な采配してどうする!」
確かに、河東は球数が結構嵩んでいる。しかし、流石に『無能』はないんじゃないか? 僕は野次を懸命に無視し続けていたが、彼女は黙っていられなかったようで、観客席から立って大声で詰め寄る。
「河東選手の悪口は言わないでください。貴方たち、それでもファンですか?」
「おいやめろよ」
「ああ、俺たちはファンだよ? お言葉を返すようだけど、あんたみたいな悪いところは悪いと指摘できない奴こそ、ファンじゃないんじゃないか?」
痛いところを突かれた。確かに彼女は贔屓球団に対しては極端に甘く、どの選手に対しても応援している。負けた試合があったとしても、何とかして収穫である点を探して場を盛り上げるほどだ。彼女は涙目になってしまったが、直後に口を開けた。
「貴方たちの言葉は、単なる罵倒です。私は負けが込んでいても、どんな状況に立たされても、彼を応援したいんです! これ以上口を出さないでください!」
その気迫に、後ろの人たちは黙ってしまった。彼女は再び球場を見ると、すでに8回表の攻撃は終了していた。河東が三者凡退に抑えたのだ。この極限状態で臆することなく投げる彼は、凄いという言葉だけでは言い表せない。
「次は6番からだな」
「うまくいけば、河東君に打席が回ってくるね」
「そういえば、投手も打たなきゃいけなかったね、忘れていたよ」
しかし、現実は違った。6番打者はボテボテのサードゴロ、7番は平凡なライトへのフライ。わずか2球でツーアウトまで追い込まれてしまう。観客席を見渡してみると、何人かが席を立って帰っていくのが見えた。このまま行っても、どうせ点なんて取れやしない。そう思ったのだろうか。
それでも、彼女は両手を合わせて祈っている。まだ諦められない。河東君の思いを無駄にはできない。打線が応えてくれるのを待っていた。
8番打者はバットを短めに持ち、確実に出塁する態勢に入る。ここで撃たなければ、ますます投手が苦しむことになる。そういう思いからなのかもしれない。坂口が投げる。バットにボールが当たるが、そこはショート正面。観客からは溜め息が漏れる。僕らもこの攻撃で攻守交代だと思っていた。
でも、ここでアクシデントが起こった。ショートが球を零したのだ。バッターランナーは全速力で1塁ベースへと駆けていく。ショートが持ち前の強肩で送球するが、審判の判定はセーフとなった。記録はショートのエラー。思わぬ出来事にベンチは総立ち。僕らは互いに顔を合わせた。
「こんなことあるのか……」
「ラッキー! さあ、次は河東君だ!」
打席に回ってきた河東。彼はマウンドに上がる時よりも表情を強ばらせ、坂口を睨むように見つめる。代打を送らないことに不満げな後ろの外野。しかし、彼らの声は彼女には聞こえなかった。ただ必死に、婚約者を見つめている。坂口も緊張しているようで、いつもより動きが硬い。ボールが先行し、スリーボールノーストライクとなった。ここで見送れば、さらにチャンスができる。球場にいる誰もが、河東は四球を選択することを確信していた。
四球目、坂口が振りかぶって、勢いよく投げる。154キロの外角いっぱいストレート。思わず見逃してしまい、ようやくストライクが入る。続く五球目も、外に逃げるスライダーを振らされてしまう。場内が一気に緊迫した雰囲気になると、僕たちの耳には何も聞こえなくなっていた。外野の野次も、相手チームの鼓舞も、一切が遮断される。
坂口が投球フォームに切り替える。もう後には引けない。両者からそんな気迫が伝わってくる。手に汗握る展開とは、まさにこのことを指すのだろう。そしてついに、坂口が投げた。この間は10数秒となかったのだろうが、僕たちにとっては2分にも3分にも感じた。
彼の球はキャッチャーミットめがけて吸い込まれていく。でも、それは河東のバットによって遮られた。上手く芯で捉えたかと思うと、それは高々と弧を描き、そのままバックスクリーンに突き刺さる。一瞬、何が起こったのか分からなかったが、彼は成し遂げたのだ。甲子園でも達成できなかった本塁打を。
「……嘘だろ?」
「嘘なんかじゃない。嘘なんかじゃないよ! 河東君はやったんだよ!」
彼女の眼には涙が浮かんでいた。今にも爆発しそうな表情だ。観客席では思わぬヒーローの登場に歓喜しており、河東もしばらくは真顔でベースランニングをしていたが、監督や選手に迎え入れられたときにそれを実感し、喜びを爆発させていた。その様子は、しっかりとスクリーンに映し出されている。
「喜んでるね」
「君に見られているのも知らずにね」
子供のように笑顔いっぱいで飛び跳ねている河東を、彼女はくすくす笑いながら見つめていた。その後、一番打者がショートライナーに倒れ、攻撃は終了した。
「今のはいい当たりだったんだけどね」
「惜しかったね……。でもこの回抑えたら日本一だよ!」
彼女のテンションは最高潮だ。この回も河東が出てくる。どうやら監督は完封勝利に持ち込みたいのだろう。観客は大きな拍手で彼を迎え入れる。相手の方も、後がないとばかりに気合が入っている。攻撃前にベンチで入念に指示を出し、審判に代打を告げる。
でも、それは全て空回りに終わった。河東という男、本当に素晴らしい。クリーンナップからヒットの一本も出さず、三者凡退に抑えてしまったのだ。彼が叫ぶと、ベンチから監督をはじめとした選手やコーチがマウンドに走ってくる。二軍の選手やマスコットも出てきて、場は選手たちと歓声でもみくちゃになっていた。
「やった! 日本一だ!」
「本当に良かったね、河東君……」
彼女は遂に泣いてしまった。僕が彼女の顔を上げさせると、監督が胴上げをしている所だった。僕は涙を堪え、その雄姿を写真に収める。7回上げた所で、輪の中央に選手が押し出される。目を凝らしてみると、河東だった。彼は少し遠慮していたが、あれよあれよと胴上げされ、宙を舞いながら歓喜した。彼女は何枚も彼の胴上げ姿を写真に収め、感涙しきりだった。
感動と興奮が冷めやらぬうちに、ヒーローインタビューが始まった。ファンはまだ帰っておらず、監督や選手の喜ぶ姿を見逃さないでいる。優勝監督のインタビューが終わると、テレビのアナウンサーが高らかに叫ぶ。
「それでは今日のヒーロー、そして日本一のヒーローの登場です! チームを優勝に導いたホームランを放ち、そして完封勝利を収めました、河東 周平投手です!」
場内から割れんばかりの拍手が起こる。河東は照れながら壇上に上がった。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
彼が一言発する度に、場内は拍手の雨に晒される。
「今日は美味しいところを一人で持って行った印象がありますが、どうですか?」
「とんでもないです。チームの力と、ファンの皆様の声援で完封勝利を収めることが出来ました!」
「謙虚ですね!」
「ありがとうございます!」
ヒーローインタビューの様子を、彼女は泣きながら見つめていた。甲子園で記者団に囲まれている姿が重なったのだ。あの時は10年に一人の逸材とまで言われていたが、芽が出るのは遅かった。それが今日、才能が花開いたのだ。そして、記者がラストの質問を投げかける。
「今手にしているウイニングボール、誰に渡したいですか?」
「今日、試合を見に来ている婚約者に渡したいです」
「婚約者ですか! おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「でしたら最後は婚約者の方に、お伝えしたいことをどうぞ!」
すると河東は一呼吸置いてマイクを握り締める。
「ゆうき、僕は日本一のチームと日本一のファンの皆様、そして日本一の女性である君のおかげで、この栄冠を手にすることが出来ました。今度は僕が、日本一の旦那さんになります! そして、世界一幸せな家庭を築いていくことを誓います!」
思わぬプロポーズに、彼女の涙腺は崩壊した。すると、スクリーンに僕と彼女が映し出されたのだ。彼女は首を縦に振り続け、河東の言葉をしっかりと受け止めている。僕はただ、彼女の隣でささやかに拍手をしていた。
こうして、日本一幸せな日本シリーズが幕を閉じたのだった。