絡み付く呪詛
左足の太ももが、古き良きオタク用語でいう絶対領域の範囲で消失している。
「……なるほど。珍しい症状だが、種類は思っていた通りか」
失礼と断り、先生は床に跪いて、消えている部分の触診を始めた。
彼の手から視認できる程度の白い光が発せられ、彼女の脚に浸透していく。
「突然襲われたと聞きましたが、曰く付きの場所に行ったりはしていませんね?」
「ええ。肝試しの季節には早いですし、妙な社や祠を壊したりなんて、分かりやすい現代怪談の導入みたいな真似もしていません。襲われたのは夜の街中です」
「良識的な方で良かった。怪現象に慣れているとお聞きしましたが、そちらとの関連性や影響もあるかもしれない。今までの障りについての経験を教えてください」
「はい。物心ついた頃から、人や獣らしき形をした説明しがたい何かが、ぼんやりと見えることがたまにあって、当時はそれが当たり前だと思っていました」
生まれついて霊などが見える者には当然の光景として写る。
魔術師や異能者の間ではよく聞く話だ。
「小学生になって、自分にだけ見えていると強く自覚し始めると、あいつらはよりはっきりした輪郭を持ちました。そして目が合うだけで威嚇してくるようになり、そのたび体調不良になって。私はそれからあれをお化けと呼んで、視界に入れないようにしてたんです」
「大変なご苦労をされたようだ。そういった浮遊霊めいたモノなどは、自分たちを認識できる者に何かと絡んでくるのです。それは今も?」
「いえ、小学5、6年の頃には、意識すれば目にフィルターをかける感覚で視界から消せるまでになりました。しばらく何もなかったのですが、何年か前からまた何かを見るようになって」
「何かとは、霊的な?」
違うと思います、と一歳は首を振る。
「今度のは火花に似た光や、白っぽい靄、古い映画のフィルムの傷みたいなものが視界のすみにチラついて。しばらくすると必ず頭痛が起こるようになったんです」
「頭痛ですか」
「ええ。頭痛薬では効き目がなくて、半日寝込むようなことも。誰かに相談もできず、もう何年もずっと悩みの種です」
「……そうですか。そちらはよくある症状だと思います。幸い、和らげる薬ならすぐに取り寄せられますので」
「本当ですか!? それだけでもここに来た甲斐がありました」
一歳は切願が叶ったかのように表情を輝かせた。
「もう結構ですよ」
触診と質問を終えた先生が告げた。
細さとほど良い肉付きを見事に両立させた脚線美が再びスカートに隠される。
俺は名残惜しい気持ちで見納めた。
そんな俺をよそに2人は再び椅子に腰掛ける。
「では脚が透明になってから、他に異変は?」
「若干の気持ちの落ち込みと脚のだるさですね。今まではストッキングで隠していましたが、今朝触れると少し痛みを感じて。だからスカートを長めに穿けば良いかなと思っていたのですが」
そこを不意の衝突で俺に見られてしまったのか。
「君は彼女の脚を見て、どう思う?」
「えーと、そうですね……今言ったストッキングなんかは個人的にこう、凄くイイと思いますね」
「? この症状をどう見るかと聞いているんだが」
「え、ああ、とんだ思い違いを。呪詛、だと思います。でも透けている症状なんて初めて見た」
「たしかに状態そのものは珍しい部類だ。念のため呪詛の専門家にアドバイスをあおぐべきか」
2人で話していると、診察結果を待つ患者の顔で一歳がこちらを見ていた。
「失礼しました。痛みや倦怠感を含め、あなたの脚が透明化しているのは、呪詛が絡み付いているせいです」
「じゅそ? それは、呪い、のようなものですか」
「そう、対象者に災厄をもたらすものです」
先生はデスクに置いてあるファイルを持ってくるよう、俺に命じた。
怪現象の症状例が記されたそれを渡すと、彼は中を開いて説明を始めた。
「あなたは噛まれたときに呪詛を脚に深く食い込まされた。今はそれが精神体の一部に根を張るように絡み付き、肉体にまで影響を及ぼしている」
「そのせいで足が透明になっていると?」
「ええ。基本的に障りよりも解きづらく、放置すれば悪化を招き、心身を弱らせる。あなたは現在透明化という特殊で珍しい症状が出ていますが、こういった症状が現れた方もいます」
見て気持ち良いものではないですが、と断りを入れ、先生はファイルを見せる。
そこにはスプーンですくったように顔面がへこんで抉れているもの、体の一部が岩石や樹木に変化してしまったもの、皮膚がウロコや水疱だらけの写真などが載せられていた。
さすがにショックなのか、一歳は口を手で覆い、目を背けてから、
「これが呪い、ですか。では、そんなものを私に掛けたアレは一体何なんです?」
「恐らく鬼一口の仕業でしょう。昨今の事例から、私はそう判断しました」
「おにひとくち? なんですか、それは」
一歳は知らない言葉にむず痒そうな顔を見せる。
そんな彼女とは対照的に、先生はさらりと言った。
「妖怪です」
「妖怪? それってあの、民俗伝承や漫画に出てくるようなものがいると?」
「厳密に言うと違うのですが、そのようなものだと考えてもらえれば。この世界では普通の生物とは違う経緯から生まれたモノ、怪現象を起こす力を持ったモノを伝承や伝説をモチーフにして妖怪と呼んでいます」
「……そう。そうね。そこらじゅうにお化けがいたんだから、妖怪がいたって不思議じゃないか」
過去の出来事を思い出しているのか、一歳は遠い目をして妖怪の存在を肯定した。
百聞は一見に如かずと言うが、実物を見たからこそ、ごく自然と受け入れられるのだろう。
「魔力の有無で見えるもの、見えないもの。光学的に捉えられるもの、捉えられないもの。その形や能力など、実にさまざま」
専門的に細かい分類があるのですが今は割愛します、と言って、彼は続ける。
「鬼一口は人型や顔だけの形で現れ、人の血肉や生命力である精気を貪る。一説には欲深い魔術師の亡霊がそれになってしまうと言われています。鬼一口は通称でして、その由来は日本に数多く残っている、人が鬼に食べられてしまうという説話からです。伊勢物語などが有名でしょう」
「ああ、在原業平の。たしか、鬼の棲みかと知らずに蔵に入れられた女性が食べられてしまう話がありましたね」
一歳は当然のように作者名とエピソードを答えた。
インテリジェンスが香る会話だ。
俺は伊勢と聞いても、海老か神社くらいしか思い付かない。
「先ほど事例で判断したと言いましたが、実は最近、この辺りであなたと似たケースでの被害者が何人も出ているのです。彼女たちは精気を吸われ、衰弱した姿で見つかりました」
「精気を、吸う?」
「吸精などとも呼ばれますが、生命力のようなものを奪われるのです。幸い重症者はいませんが、誰もが口や頭が目の前に現れて襲ってきたと証言している」
「そんなことが……彼女たち? みんな女性ということですか?」
「ええ、しかもあなたと年齢が近い」
鬼一口は若い女性を好む傾向がある、と探偵は言い添え、
「1つ違うのは、彼女たちは精気を吸われただけで呪詛を掛けられていないのです」
「私だけこんな目に遭わされてると? どうして」
「それはあなたが、強い魔力を持っていたからでしょうね」
「強い魔力?」
「他の女性たちは抵抗もできなかったが、あなたは踵を返して逃げ出すことができた。恐らく、相手が初手で放った吸精の術を、自分の魔力で打ち払ったに違いない」
「私は逃げるのに必死で特別何かをしたとか、それに魔法なんて使えませんし」
「あなたに触れたとき、並の魔術師をゆうに超える高い魔力を感じ取りました。優れた資質を持つものは無意識のうちに、その力で身を守れるといいます」
そう言われて一歳は、目元に不快感を示した。
それが何に対する意思表示なのかは分からないが。
「相手は手こずると同時に、それほどの力を何としても手に入れたいと考えたのかもしれません」
「手に入れる?」
「魔力を含んだ精気は妖怪の大好物であり力の源。そして鬼一口は欲深さの化身です。今逃してもあとで必ず我が物にする、そんな思いから呪詛であなたを縛ったと考えられる」
「一部の呪いは両者に繋がりができる。あくまで大まかだろうけど、奴は一歳さんの存在を感じ取っていると思う。その捕捉からは、ちょっとやそっとの距離じゃ逃げられない」
追い討ちをかけるようで心が痛んだが、俺は事実を伝えた。
現実に起こっている事態に対抗するには、現実を直視するしかない。
一歳はもう温いであろうコーヒーをゆっくり飲むと、
「じゃあ、私は妖怪に唾をつけられたと、そういうことですね」
「まだ憶測ではありますが、そう解釈すべきでしょう。妖怪にマークされた方が、ある日突然、行方不明になった件を何度も聞いたことがあります」
一歳は1度視線を膝に落とすと、数回瞬きする。
長いまつ毛を揺らした後、顔を上げた。
俺は悲観に曇る表情が出てくると思っていたが、彼女の瞳は強い光を宿していた。
「どう対処すれば良いですか? この呪いを解く方法は?」
「半月という時間が仇となり、呪詛は精神体に癒着し始めている。現在ご自身の魔力で拮抗状態にありますが、こうなっては呪詛の専門家でも、完全に祓い落とすのは難しいかもしれません」
「それじゃあ、どうしたら……」
愕然とする一歳に先生は、よりシンプルな方法があります、と言った。
「鬼一口を見つけ出し、倒すのです」
倒す──。
バトル漫画ではよく目にする、現実ではまず耳にしない言葉が、探偵の口から出た。