病室
「はい、どうぞ」
ドアがすぅと開かれた。
次の瞬間、
「はうっ!」
御子柴がビクンと体を震わせた。
そこにいたのは一歳だった。
まあタイミング的に何もおかしくはない。
ただ、俺がついさっきまで話していたラフな彼女とは醸し出す雰囲気が違う。
その場に立っているだけで、まるで舞台袖からランウェイへと歩み出したスーパーモデルを思わせる洗練さがあった。
俗な言い方なら、オーラをまとっている。
漫画なら背景に咲き誇る花を背負っての登場だ。
頭のてっぺんからつま先に至るまで、おおよそ一分の隙も見当たらない、この完全無欠さ。
数時間に満たない付き合いの俺だが、なんとなく分かる。
これは学校で憧憬の眼差しを集めているときの、
「優等生一歳千歳」だ。
「千歳お姉さま!」
一歳をそう呼んだ御子柴の声はほとんど悲鳴だった。
ただし呼び起こされた感情が恐怖でないのは、驚きとともに綻んだ表情を見ればすぐ分かった。
悲鳴は歓喜で黄色く色付いていた。
推しのアイドルが突然目の前に現れたファンはきっとこんなリアクションをするだろう。
「こんにちは」
後ろ手でそっとドアを閉めながら一歳は入室した。
その表情は極めて柔和で、どこまでも優しい。
あれを見て、屋上で俺をいきなり投げ飛ばした人間だと誰が思うだろうか。
俺自身、自分の記憶を疑いかけるほどだ。
そんな彼女の姿に御子柴は、それこそ、降臨した女神を前にした信仰者のように両手を胸の前で組み、目を輝かせ、今にも腰を折って拝みだしそうだった。
その様子はまるで崇拝のよう。
これは決して安易な比喩表現ではない。
このように、一歳への眼差しが憧憬や尊敬の先にまで達しているものは、多からずだが存在する。
彼女も間違いなくその1人だ。
「ど、ど、どうしてここに」
「あなたが入院したと聞いたものだから」
「ではもしかして、わ、私などのためにわざわざ、お、お見舞いに?」
「ええ、かわいい後輩が入院していればお見舞いくらいするものでしょう」
「か、かわいい後輩」
そのたった一言で御子柴は赤面し、表情はとろけ、恍惚におぼれた。
一歳は自分の影響力を自覚している。
そのうえで言葉や態度を選んでいるのだろうから、そりゃあ慕うものも増えるわけだ。
望む望まないかは別として、彼女は眼差しを集める偶像の何たるかを知っている。
「突然きて、迷惑だった?」
「そ、そそそ、そんなそんな迷惑だなんて、めめめ滅相もない! 大変おそれ多いことで、この御子柴三色、恐悦至極にて身に余る光栄にございます」
混乱しているのか、お姉さまというより、上様と話してるような言葉になったな。
現に時代劇みたいに、頭を平に平にしている。
「私のほうこそ、千歳お姉さまがわざわざいらしてくださったというのに、こんなだらしないパジャマ姿で」
入院中なんだからそれはいいだろ。
一歳も苦笑している。
彼女が来ると分かっていたら、本当に正装で出迎えていたんじゃなかろうか。
そんな予感さえ覚える。
「これ、お見舞い。大したものじゃないけれど」
一歳が鞄から差し出したのはチョコ。
コンビニで一箱300円程度のものだ。
一般の高校生の懐事情から見ればちょっといいお値段のお菓子。
が、見舞いの品としたら相当チープだ。
それに準備していたものではなく、恐らく彼女がおやつ代わりにでも鞄に入れていたものだろう。
ホントに大したものじゃない。
正直、よく見舞品として堂々と渡せるなと思う。
だがそれはあくまでチョコレート1箱の市場価値と、入院見舞いはこうでなくてはならないという社会通念を基準にした話。
本来贈り物で重要なのは価格などではなく、誰から贈られたか、贈られた側が喜んでくれるか否かだ。
それは御子柴が、世紀の大発見をした考古学者が歴史的発掘物を手に取るかのような、感動に打ち震えた手でチョコを受け取り、伝説の剣を岩から引き抜いた勇者の如きポーズで掲げ上げた姿が雄弁に語っていた。
価値基準に個人差があるのは分かっているが、チョコ1箱でこんなに歓喜する高校生は初めて見た。
「あ、あああ、ありがとうございます! わざわざこのような大層なお見舞い品を。後日、菓子おりを持参してお礼に伺わせていただきますので」
感謝の仕方に比例して、リアクションもさすがに大袈裟すぎる。
「座ってもいい?」
そう聞かれ、自ら椅子の準備をしようとベッドを飛び出しかけた御子柴を制止させてから、一歳は腰掛けた。
「もう具合はいいの?」
「はい、疲労で倒れただけだそうで。すぐ退院できますので、大丈夫です。本当にその、お騒がせしてしまって」
慈しむ表情の一歳に、御子柴は夢でも見ているように口元が緩みっぱなしだ。
彼女の目にはもう、一歳の横にいる俺は見えていないと思われる。
それほど一歳が持つ影響力は強い。
なのだから、聴取について何か手伝ってほしいところではある。
俺がそれを伝えようとしていると、
「私が想像していたより、元気そうで良かった。初めて聞いたときは通り魔にやられたのかと。あなたも私と同じように怖い目にあったのかと思って、すごく心配したの」
「いえ、そんなことは──私と同じ? お、お姉さまは、巷で騒がれている通り魔に何かされたのですか!?」
一歳はほんの一瞬だけ俺に目配せをしてから、
「昨晩、フードをした怪しい人を見てしまったの。それが噂になっている犯人なのかは分からない。でも相手にも見られた気がして。怖くて警察に行ったんだけど、何も起こっていないのに四六時中守るわけにはいかないと言われて」
俺はそんな話なんて聞いていない。
無論、彼女が今まで黙っていたわけでもないだろう。
全部即興の作り話、またもや勧進帳だ。
今思い付いたであろう話を舌も滑らかにすらすらと、心底感心する。
「お姉さまの身にそのようなことが! それにしても警察はどういうつもりなのですか!? 公僕の分際でありながら、あろうことかお姉さまの御身の安全を蔑ろにするなどっ! パトロールの人員を割いてでもお姉さまを優先すべきですっ!」
御子柴はとんでもない方向に憤慨した。
あらゆる物事は一歳を中心に動いて然るべきもの、と考えているようだ。
彼女の中では、無限に広がる大宇宙の中心部に一歳が鎮座しているのだろうか。
一歳は軽く諌めるように苦笑いしてから、
「それで警察から調査に協力している探偵事務所を紹介されたの、そこなら身辺警護をしてくれるだろうからって」
「探偵……ああっ」
御子柴は突然姿を現した透明人間でも見たように俺を見た。
「そこであなたが入院していることを彼から偶然聞いて。ボディガードをしてもらいながらお見舞いに来たというわけ」
素晴らしい前振りだ。
敬愛する先輩が通り魔に狙われているかもしれない。
そう聞けば、彼女も快く聴取に応じてくれるだろう。
「そうだったのですか」
ところで、と御子柴は眉根を寄せてジーッと俺を見てから、
「この人が、お姉さまを悪者から守るという大役を任されたボディーガードなのですか?」
今の俺なら御子柴の心が読める。
「だってこいつぅ、なんか弱そうじゃないスかぁ?」
とでも言いたいのだろう。
「実は彼はとんでもなく強いけど、あえてそれを隠しているの。武術の総本山とされるお寺で、35ある修行房での修行を最年少で修め、世界ジュニア格闘技大会では、ギリシャで黄道12宮を冠する闘士たちを、エジプトで9柱の神々の異名を持つ猛者たちを次々と打ち破る記録的快挙を成し遂げたのよ。去年の夏休みの南米旅行では、偶然出会った伝説のカポエイラマスターから奥義を伝授されたって。ねえ?」
「え、へ? ……あー、う、うん、そうだったかな」
「得意技はメイア・ルーア・ジ・コンパッソよね。それで旅行中、拳銃を持った路上強盗たち相手に大立ち回りしたって」
「えーと、そ、そう、そうだよ、あの技でみんな返り討ちにしてやったんだ。ま、まあ、実力の半分も出さなかったけど、楽勝かな」
どんな技だよそれ、初めて聞いたよ。
いや、それ以前にどんだけデタラメで荒唐無稽な嘘八百の武勇伝を並べてんだ。
「そんなに強い彼がどうして格闘技系の部活に入っていないのか。それは彼が一子相伝とされる実家の武術を受け継いだ伝承者で、むやみにその拳を振るってはいけない掟があるの」
俺んちにそんな掟はねえ。
いくらなんでも漫画みたいな設定を盛りすぎだ、こんなの怪しまれないわけが、
「なるほど。まるで作り話にしか聞こえないですけど、お姉さまがそうおっしゃるのですからそうなのでしょう。お姉さまが嘘を吐くはずがありません」
ええー。信じた。
あれ信じちゃうんだ、この子。
ああ、彼女ならなんだって信じるのだろう。
だって心酔し、崇拝しているのだから。
一歳の言葉は即ち、偽りなき神の言葉だ。
「彼の秘密はこれくらいにして。あなたが怪しい人を見たらしいと聞いて、是非とも捜査のために協力してほしいの。これ以上、被害を出さないためにも」
そう言って席を立った一歳はベッドのふちに腰掛けると、御子柴の手を取り、両手で握った。
「ひあっ」
そして彼女を見つめ、
「……勇気を出して、話してもらえないかしら?」
「あ、あ、ああ、は、ひゃい❤️ よろこんでえ❤️」
もはや嬌声と言っていい声で返事をした彼女はトロけ顔で、完全に魅了されていた。
年齢性別を問わず、どんな相手も思うようにできるであろう表情と仕草。
崇拝者なら、なおさらそのお願いポーズに背くことなどできまい。
一歳千歳、恐るべき女。
「……そ、それではお話しします」
一歳が椅子に戻ると、悩殺されかけていた御子柴は正気を取り戻した。
「私は塾を出たところで急に気分が悪くなり、迎えに来てくれた兄が介抱してくれたのですが……。兄が言うにはフードの男が途中から後をつけてきて、私が倒れると、その様子を遠くからずっと眺めていたと」
「そいつらどんな奴で、つけてきたのはどこから!?」
「たしか街中の通りで気付いたとか。歳や背格好は……細かいことは兄にまた詳しく聞かないと」
そこまで言うと御子柴は額に手を当て、顔をしかめた。
「御子柴さん、どうかした?」
「いえ……嫌なことを思い出して。私はあのとき、気を失いかけながら不気味な幻覚を見たんです。牙だらけの怪物が迫ってくるような」
「!?」
一歳が我がことのように眉をひそめた。
「あの日のことを考えていると、どうしてもそれが頭に浮かんできてしまうんです。記憶にこびりついているみたいに。あんなの幻か夢に決まってるのに、あの怪物が今でも私を近くで見ているような、そんな気がして、とても怖くて。だから本当は、お話しすること自体に抵抗があって」
恐怖を和らげる魔法をかけても強烈なショックを消すには時間がいる。
ちらつく鬼一口の残像も、彼女が事件の話題を拒む一因だったのか。
「御子柴さん」
一歳は労うように彼女の名を呼ぶと、
「話してくれて本当にありがとう」
深々と頭を下げた。
な
それは純粋な感謝と、自分と同じ恐怖に晒された彼女への同情、そして嫌な記憶が残る彼女に話すことを半ば強いてしまったことへの謝意か。
「い、いえ、そんな。お姉さまがおっしゃるように、怖い思いをする人を増やしてはいけないので」
話してくれたことはありがたいが、もっと詳細が分かれば。
目撃したお兄さんにも時間を作ってもらうか。
フードの男さえ見つかれば事態は大きく動く。
そのとき部屋がノックされた。
はい、と御子柴が返事すると、開いたドアから、
ぬっと黒いフードが部屋に入ってきた。