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 二日おき六時に更新

  さんざん小野寺の胸で泣いて足を蹴って蹴って蹴りつくして小野寺が根をあげて。わたしと小野寺はそのまま孤児院への帰路へと付いていた。

 孤児院からおばさんの家までは車で来なければならないほどの距離があって、小野寺も来る時はタクシーを利用したのだそうだ。だがしかしそれに必要なお金はわたしの絵を買うためになくなってしまっていて、わたしたちは何時間もかけて徒歩で孤児院まで帰らなくてはならなかった。

 「……無計画」

 目の前で足が棒になりそうに歩いている小野寺に言うと、小野寺はびくりと言いたくないことを言われたように閉口した。わたしはその疲れ切った背中をじっとり見詰める。わたしもいい加減歩き続けで疲れていた。

 「いやいやでもあれじゃん」

 小野寺が言い訳するように振り替える。

 「ポケットに入ってる奴全部投げつけたほうが格好良いしよ。……あの状況で言えるか?

 『ちょっとタクシー代残してもらえますか?』なんて、カツアゲされるときみたいなこと言えるか?」

 確かにそれは言って欲しくない。しかしながら、こう疲れてくると嫌味の一つでも言いたくなる。わたしはなるだけ冷ややかな視線を小野寺に注ぎ続ける。小野寺はふてくされたように「だってよぉ」うつむいて肩を落とした。

 歩き続けているうち夜はすっかり深くなって、空はおぼろげに輝く星空に満たされていた。わたしは空を見上げる。何座の何星がどこのどれとかそんなことはわからないし興味もない。ただなんとなく綺麗だなとは感じられた。闇は色んなものを美しく見せる。

 「本当はさ。……さっきの金、おまえ連れてどっかどこへでも逃げるために使おうと思ってたんだ」

 と、小野寺は唐突に疲れた声でそう切り出した。

 「あのイカれたばばぁと狂った孤児院から……。おまえを連れ出してどこにでも逃げてしまおうと思った。あの院長、ポンと金が出るから問い詰めたらきっちり横領してたし……。まったく何も信用できねぇよな、内のばばぁだって……。あーぁ」

 そう言って肩を落とす。

 「その金も結局キレて全部叩きつけちまったし。上手くいかねぇな。またあの孤児院に戻らなくちゃならないのかな? 院長もあの金、多分秘密を知ったおれたちの手切れ金のつもりで渡したんだろうしよ……」

 「そんなわけないじゃん」

 わたしは言った。こんな子供に手切れ金なんて渡せるわけもない。どうしたって責任が付きまとう。

 「いやいやいやいや分からねぇぞ? どこぞのヤクザの居座り屋の土地とかで、やっすい生活費で切り詰めた生活を送れたかもしれないじゃないか? 現におれはそうするつもりだったしな」

 小野寺から借りた漫画にそういやそんな内容の奴があったな、とわたしは思い出す。確かぶらぶらでんなんちゃらとかいう。

 あの臆病そうな院長のことだ。この何をするか分からないタイプの小野寺に脅しつけられれば、どうにかしてわたしたちを遠ざけたいと考えるのも無理はないように思える。わたしをあのおばさんのところに突き出したのもそういう理由だろうし、小野寺だってもしかしたら金を渡してどこかに島流しにする計画を立てていたのかもしれない。ありえない話ではないだろう。

 「しょうがないよ。どっちにしてもヒゲンジツテキな感じだし。わたし、あの孤児院そんな嫌いじゃない」

 「……良く言えるな、そんなこと。殺人鬼のいるかもしれねぇ院なのによ」

 殺人鬼、という言葉を聞いて、わたしは何か胸に引っかかるものを感じた。

 「院長は生徒に手を出すしルームメイトはホモ野郎だし……」

 「君なんかは変態のぱんつ学者だしね」

 「おまえは自分の目ぇえぐるイカレポンチだ」

 言い合ってわたしたちは二人で含み笑いをする。

 「なぁ。いつかまた、チャンスができたら。出て行っちまおうぜ。あんな孤児院」

 と、小野寺は真剣な顔をして言う。

 「……別に今は忍んでいて良い。おれたちには希望が必要なんだ。もうすぐ十五歳になって卒院の時期になってからでもかまわん。どっかでアパート借りておれが働いておまえ絵を描いて、二人で一日中セックスしながら過ごそうぜ」

 それはなんとも少年らしい、たわいもない小さな未来の夢だった。わたしは小野寺の尻を蹴りつける。小野寺は大げさに痛がって見せる。

 「本気で言ってるの?」

 「本気さ。おれはおまえとしたい」

 「そうじゃなくてさ」

 こいつにはデリカリーのかけらもないのか。あ。違うか。デリカシー。

 それでも。わたしは想像してしまうのだ。コイツと二人の、割と愉快なんだろうそんな日々を。頼りになるのかならないのか良く分からないこの男との未来を。

 「期待しとく」

 「まあ任しとけ。なるようにはなるさ」

 そして小野寺はおそろしく無責任にそう締めくくった。

 きっとそうなんだろうと思う。こいつならきっとなるべきところにたどり着くだろうし、もしかしたら本当にわたしを導いていってくれるかもしれない。わたしはそれがなんだかすごく楽しみに思えた。

 とりとめもないことを話したり聞いたり聞き流したり、道に迷ったり残っていた小銭でコンビニに寄ったりしている内に、それでも歩いてさえいれば目的地は近付いてくるもので。次第に小野寺は見覚えのある道を見付けはじめる。

 「ねぇ小野寺」

 目的の孤児院の看板が見え始めるようになったとき。わたしは意を決して小野寺に声をかけた。

 「なんだ?」

 「一之宮先生の、ことなんだけど」

 わたしがいうと、小野寺は眉を顰めてこちらを振り向く。

 「犯人か」

 「そう。そのことで」

 このことを誰かに話すのは初めてになる。おそらくずっとないだろうと思っていた。

 「本当はね。言うつもりなんてなかったんだけど……。全部の部屋の窓についている鉄格子、あるじゃない」

 「あるな」

 「あれ。わたしの部屋の奴だけ外れるんだよ。前にわたしが外れるようにした」

 「…………」

 「それとね。わたしの部屋のベッドの脇に、なんか血の付いたナイフが出てきてさ。しかもわたしってば事件が起こった日の夜中から記憶がないの」

 「そりゃおまえが犯人なんじゃねぇの?」

 と、小野寺は至極当然のことのように言った。

 「だよね」

 「おう。誰が聞いてもそう思うわ。なんでおまえが一之宮のこと殺すのかとかはともかくな」

 そう言って小野寺は両手を頭に回してみせる。

 「怖くない?」

 「誰が?」

 「わたしのこと」

 「うーん」

 小野寺は何やら考え込むように首を捻ったかと思うと、そっけない調子でこう答えた。

 「他の誰かよりはマシじゃねぇの? おまえに刺し殺されるとは思ってないし、おまえが殺してようがなかろうが、だからってそれをどうかしようとは思わん」

 ぶっきらぼうに繰り出されたその一言が、わたしにはなんとも頼もしく思えた。

 わたしは思う。こいつはわたしが人を殺していようがなかろうが、別にどっちでも良いのだろう。殺してようがなかろうが、こいつにとってわたしはわたしだ。

 「パンティ売ってくれればそれで」

 「……わたしじゃなかったら刺し殺してるよ」

 「冗談だ」

 「じゃあ売ってあげない」

 「それは困る」

 軽口を叩きながら歩いていると、やがて孤児院の門が見えてくる。わたしは空を仰いだ。星の先ほどよりもほんの少し傾いて、夜の深みも変わっている。十一時くらいだろうか? 院はとっくに消灯時間のはずだ。

 ようやく付いたな、お風呂は入りたいなと思って院の入り口を見やる。闇の中でぱっくりと口を開けたようなそのもんの隅っこに、漠然と立ち尽くしてこちらを見やる人物の姿があった。

 「おりょ?」

 小野寺がまじまじと見詰める。

 「ありゃ誰だ? ん?」

 しばし歩くと。人物の形がかろうじて分かるようになってくる。ひょろりと立ったその人物は、背の低い少女のように見えた。

 低めの身長の割りに顔立ちは大人びていて、秀麗な小さな頭の上には、桜をかたどった髪飾りが引っ付いている。この子、見たことがあるなとわたしは思った。確か今朝も会ったような。なんていう名前だったっけ?

 「おーぅ春崎」

 小野寺は陽気な声で手を上げる。

 「生還してきてやったぜ。へっへん。ちゃんと信条も一緒だ。……ところで春崎おまえどうしてこんなところにいるんだよ?」

 親しげに話しかける小野寺に、少女は屈託なく微笑んでみせる。そうしたときに見せる笑い方は、どこかわたしの妹に似ているようにも、そのもののようにも感じられた。

 少女はわたしの前を歩く小野寺の方にゆらりと近付いていく。それからにこやかな表情で背後に回した手を振り上げると、小野寺の肩のあたりに力の限り振り下ろす。

 悲鳴がこだまする。わたしは思わず小野寺の体に飛びついた。ぬめぬめとした感触が小野寺の肩のあたりから迸っている。

 「小野寺っ」

 わたしは叫んだ。小野寺は信じられないというような表情で自分の出血部を見やる。少女は幽鬼のようなただずまいで一歩踏み出すと、目にたっぷりの涙と困惑を浮かべてこう言った。

 「どうしてっ」

 少女はわたしと小野寺を交互に見やる。

 「どうして小野寺なのっ? どうしてそんな汚らわしい男なのっ? ねぇどうしてっ!」

 問いかける少女にわたしは何も言うことができない。少女はそのままナイフを振りかざして迫ってくる。小野寺はわたしを抱きすくめてアスファルトの地面に転がって回避する。

 小野寺がうめき声をあげる。さっきの斬撃が腹を傷付けたのだろう。

 「小野寺っ」

 わたしは苦悶を浮かべる小野寺に叫ぶ。

 「小野寺っ。大丈夫? 小野寺」

 「なんで」

 少女は泣き出しそうな声をあげる。

 「なんでそんな奴の心配をするの? ねぇなんで?」

 そういった少女の手には一本のナイフが握られている。わたしはそれに見覚えがあった。小野寺の真っ赤な地を吸ったそのナイフは、わたしの部屋のベッドの脇に差し込まれた、大きな工具ナイフだった。

 「どうしてわたしじゃないの? ねぇっ。ねぇねぇねぇねぇっ。ねぇっ」

 少女はナイフをきらめかせ、泣きじゃくってはそう捲し立てた。

 「答えてよ。ねぇっ。……お姉ちゃんっ」

 と、その時。わたしの目の前で少女の姿が歪んだ。

 わたしはその急激な変化にめまいを覚える。身長に見合わぬ大人びた表情が、わたしが自分で絵に描いたような小さな少女の顔になって、頭に引っかかった髪留めが消える。髪形も変わる。黒く濡れた目は子供のようにあどけなく、きりきりと狂ったようにゆがんだ表情は、怒った子供のようなたわいもないものに変化していた。

 わたしは驚いて目を見張る。わたしの目の前にあったのは間違いない。わたしの目の前にたびたび出現する、可愛い妹の姿だった。


 姉妹ごっこ。わたしたちはその遊びを安直にそう命名していた。

 今ではほとんどおぼろげにしか覚えていない。確か桜の髪留めが特徴的なそのルームメイトは、当時は塞ぎこみがちだったわたしの面倒をよくみてくれた。彼女はあらゆる方法でわたしに対してコミュニケーションを試みたし、わたしを笑顔にさせるためならどんな奇矯なことでもやってくれた。

 だからその時。わたしにとっての春崎日向は間違いなくわたしの妹だった。イズミちゃんと声をかければ彼女はわたしに返事をくれたし、彼女も甘えるようにしてわたしのことをお姉ちゃんと呼んでくれた。そうすることが、わたしの中の閉じられた世界に彼女が入り込む唯一の方法だった。彼女を失われた妹と見ることでしか、わたしは春崎日向のことを自分の内側に迎えられなかった。

 『お姉ちゃん』

 そう呼ぶことで彼女はわたしの妹になり、わたしは彼女を自分の中に迎え入れた。それははたから見れば奇怪を極めるごっこ遊びだったと思う。

 『お姉ちゃん』

 それでも春崎日向はわたしに優しくそう呼びかけた。わたしは笑顔で返事をした。失われたはずの妹に精一杯の愛情を注いだ。わたしたちは確かに二人の姉妹だったし、それを繋ぐ絆と愛情には一切のよどみが混在しない。わたしは妹の彼女のことが大好きで大好きで仕方がなくて、しかしそうしているうちに、わたしの中で春崎日向という少女の姿が霧散して、必要のないものとして霞と消えた。

 やがて孤独がいないはずの妹を殺す。それが孤独の役割であり、罪であり贖罪でもあったと思う。だけれどそんなことは今のわたしは覚えてもいない。わたしの心の奥深くで、どこかの誰かが保管している。


 「お姉ちゃん」

 春崎日向に上書きされるような形で現れた妹の姿に、わたしはうろたえて何もできない。ナイフを握った妹は大粒の涙を流しながらこちらに迫り、甘えたような涙声で訴えかける。わたしは頭の中に鉛を詰められたようなめまいを覚えた。

 「あなた……いったい……?」

 わたしは頭を押さえて妹の姿を仰ぎ見る。その愛らしい顔は疑いようもなく成長したわたしの妹で、わたしの中で生きているはずのイズミちゃんに見えた。

 まるで水面に浮かべた絵の具のように、妹の姿がゆらゆらと歪む。その向こう側におぼろげに一人の少女が見えた。悲しげな笑顔を浮かべた彼女は痛いほどまっすぐな視線でこちらを捉え、困惑と期待の入れ混じった声でこう問いかけた。

 「くぼみちゃん……あたしのことが分かるの?」

 妹の姿の向こう側から、少女が泣きそうな顔でこちらを見詰める。わたしは痛むアタマを必死で探る。この壊れそうな少女の姿を、わたしの心から必死で呼び出す。しかしどこを探しても少女はわたしの中には存在しえず、わたしは少女に向かって首を横に振る。

 少女の表情が凍りつく。

 妹の姿と少女の姿が入れ混じったその人物は、しばらく葛藤するように俯いて、強く激しい意思のこもった真っ赤な視線をこちらに向けると、血を吐くような声でこう言った。

 「もう良い」

 そいつは手に持ったナイフをきらめかせる。

 「……もう良い。あたしはずっとお姉ちゃんの妹でいてあげる……。これまでもこれからもずっと、わたしはあなたの妹でい続けてあげる……」

 諦めたようにふっと微笑むと、ナイフを前に突き出したまま妹は寂しげな声で言った。

 「もうこうするしかない……こうするしかないんだ、あたし。ねぇお姉ちゃん。あたし、お姉ちゃんの妹でい続けるために、本当に本当にがんばったんだよ? こんなの間違ってるって、本当はいやだって……思ってたけど、だけどがんばったんだよ?」

 うつろな表情の妹の姿は、これまでで一番おぼろげで。泣きながらふらりと立ち尽くす妹から、わたしは目を離すことができないでいる。

 「一之宮先生を殺したのは、あたしなんだ」

 と、妹は言った。

 「お姉ちゃんは分からないよね? 他の誰に分かったところで……こんなのお姉ちゃんにだけは分かるはずがないことだよね……。あはは。あのねお姉ちゃん、お姉ちゃんはもうちょっとでどこかの病院に連れていかれるところだったんだよ? 一之宮先生がそうしようってね、院長先生にね……相談してて。それでもあたし……おねえちゃんの妹でいたかったからっ」

 どうしてだろう。わたしは思った。

 途方もなく胸が苦しくなった。妹から与えられる愛情の放射。わたしはこれを何度も何度も享受して来た。それはものすごく心地良くて安らかで大切で、なくてはならないもののはずだった。

 なのに。どうして。

 この子の愛がこんなにも悲しいのだろう。この子に優しい言葉をかけられるあたしの姿は、どうしてこんなにもおぼろげで、淀んでしまっているのだろう。

 わたしはどうしてこの子にここまでさせているのだろう。

 わたしにはそれが分からない。わたしが妹にしているはずの残酷が、他でもないわたしには何一つとして理解できない。

 「それで……なんだって……」

 と、うめくような声が聞こえた。

 「……なんだか事情はよくしらねぇが……。それでこのおれも殺しちまうと? それはおまえにとってどんな得になるっていうんだ?」

 「黙れ糞尿野郎」

 妹は唾を吐くようにそう言った。

 「おまえはその子の何も分かっていないくせに……何を当たり前みたいな顔で隣にいるのよ? あたしがどれだけその子の為に尽くしたか、戦ったか、自分を殺してきたか……分かってるの? それなのに、それなのにどうしてあなた如きがその子の隣で」

 「目障りか?」

 「殺してやる」

 妹は血走った目で言った。

 「邪魔なのよ……あなた。あたしとおねえちゃんの世界には邪魔。どうしようもない不純物。死んでしまえば良いのよ。あなたなんか」

 「それはごめんだな……おい信条」

 小野寺は地面に倒れ付し、顔だけをこちらに向けて死にそうな顔でこう言った。

 「この女相当狂ってんぜ……。はははっ。おまえとは随分とお似合いだなぁ。しかもこいつおれのこと殺しちまうんだってよ。嘘みてぇな話だがどうやら目は本物らしい。まいったな」

 「その子に話しかけるな」

 耳障りだとばかりに首を振るい、ナイフを手にした妹はゆらりゆらりとこちらに歩み寄る。その表情は明確な悪意と峻烈な殺意に満ちて、狂的に歪んでいた。

 「あれ? あれれれれ? 分かんないよ?」

 わたしは何も分からずに二人を交互に見詰める。

 「おかしいよ? こんなのおかしいよ? どうして二人がこんなことになってるの? ねぇ。あれれれ?」

 「良いのよお姉ちゃん」

 妹は優しく微笑んでみせる。

 「もういやなことは全部なくなるからね。お姉ちゃんはあたしに任していたらよいの。ね?」

 むせ返るほど甘美な妹の笑み。わたしは目をそむけて小野寺を見た。体を傷付けられて立ち上がることもできずに無様に転がる小野寺を見る。小野寺はそんなわたしの視線に気付いて、頼もしい兄のような表情でこう口にした。

 「しゃんとしろ。信条」

 小野寺は言う。

 「おまえが選ぶんだ、信条。こいつと二人のハリボテみたいな幸福か、さっき話したおれと一緒の、クソくだらねぇポンコツな夢か」

 妹は聞くのも煩わしいといった風に眉を顰める。それから一瞬、優しげな顔でこちらを見詰め、高慢な笑顔で微笑んでみせる。何の疑いも葛藤もなく、ただ大切な人と思いを共有するかのように。妹はその間もナイフを持って小野寺に迫っている。

 わたしは必死でわたしの中を探る。答えをくれる何者かを探す。わたしに声を掛けてきてくれる、わたしの全てを肩代わりしてくれる、頼もしい誰かを願い続ける。どこか遠くに自分を逃がして、全てを正しく導いてくれる存在を乞う。

 それでも答えは聞こえてこなくて。わたしは子供みたいに首を振り続けた。小野寺が察したような顔を浮かべる。どこか不適に、いつもの飄々とした強い笑顔でこう言って来た。

 「おまえが選べ……選んで見せろ。他のどいつでもないおまえが決めろ。どっちにしたって、おれはそいつと心中してやるさ。だから……」

 「うるさい」

 妹が言う。

 「うるさいうるさい。耳障りよ。……あんたなんかの言葉がその子に届くわけないじゃないっ」

 叫び、哄笑を浮かべて妹は小野寺に飛び掛る。わたしは飛んでくる彼女を漠然と見上げることしかできないでいる。小野寺は最後までわたしから目を逸らさない。

 「しゃんとしろ、信条」

 小野寺は心臓を吐き出しそうに大声で叫んだ。

 「……本当はそこにおまえしかいないんだよっ。がんばれっ!」

 その時、わたしの全身に稲妻が迸ったような錯覚があった。

 わたしはほとんど何も考えずに動く。足に力を込め、コンクリートを踏みしめて妹へ向かう。ナイフを持った妹は一瞬信じられないものを見るような顔をして、蒼白な顔でわたしを見つめる。わたしはそこに大きく踏み込んで、飛び掛ってくる妹に向けて手を伸ばす。

 ぐちゅりと生暖かい感触が腕に響いた。

 「ぎゃっ、ぎゃぁああああああああああっ!」

 妹が叫ぶ。わたしはふかぶかと差し込まれた指の間に、柔らかいものを握りこんで引っこ抜く。ゼリーのような粘膜があちらこちらに飛び散り、ばちんと音がして桜の髪留めが飛んだ。妹はナイフを取り落とし、倒れそうになりながら小さな手を伸ばし、わたしの体をがっしりと掴んだ。

 「ど、どうしてっ。ねぇ、どうしてっ!」

 そいつはつぶれた右目を無理矢理開け、赤く黒々とした虚空でわたしを睨む。どろりとねばついた眼窩の奥には、どうしようもないぐちゃぐちゃが激しく滾り、渦巻いていた。

 「なんで邪魔するのっ? どうしてそいつなの? ねぇどうして? ねぇっ」

 「ひなちゃん……」

 わたしは名前を口にして、彼女の体を抱きすくめた。

 「ごめんなさい……」

 小さな体をぎゅっと引き寄せ、力いっぱい抱擁をする。そうしてやると、弱々しく震える暖かい体から、つき物が落ちたように力が抜けた。

 それから彼女はどこかしら嬉しそうな表情を見せると、すっと目を閉じて、ふわりとわたしの手の中で動かなくなる。

 わたしは小さな体を抱いたまま、地面に転げた桜の髪留めを拾い上げた。柔らかい髪にすっと差し込んでやる。確かに見覚えのあるそれは、いつかわたしが彼女にあげたものだった。




 「もう一人で大丈夫ですか?」

 と、何もない上から下まで真っ白な空間で、家政婦さんみたいな格好で頭から灰を被った女の人が言った。

 「あなたは?」

 「わたしは掃除人。あなたの救済人格です」

 掃除人と名乗った綺麗な女の人はそう言って微笑んで見せる。その手には大きな掃除機が握られていて、先っぽを肩に担いだその姿はどことなくたくましくも見えた。

 「きゅーさいじんかく?」

 「はい。天使さんや悪魔さんともまた違う。あなたの中に存在する意思と力を封じ込める力を持ちます」

 「ふぅん」

 わたしは言って、その真っ白な空間のあちこちを見た。空の果てから足元まで全部白い。どこまで見渡しても限りなく真っ白。ふと油断してあちこち歩き回ったら、二度と自分がどこにいるのか分からなくなりそうな、そんな本当に何もない空間だった。

 「ここにいた人たちは?」

 尋ねると、掃除人は得意そうな顔を浮かべて

 「私が全部吸っちゃいました。えへへ」

 えくぼを作って綺麗に微笑む。それからわたしのほうを優しく見据えて

 「今のあなたには、とりあえず必要のないものだと思ったから。……不思議ですね、あの人たちを吸っちゃったらここには何も残らない。あなたはいつもあの人たちと一緒にいた。あの人たちがいなくなったら、あなたの心はこんなに空虚ながらんどう」

 「違うよ」

 掃除人は意外そうな顔をする。

 「残るよ。ここにはわたしがいる。わたし一人残ったら、それで十分なんだよ」

 わたしが言うと、掃除人はほんの少しだけ目を丸くしてから、次に少しだけ愉快そうにふふふと笑った。

 「そうですね……。そうなのかもしれません」

 そう言って、掃除には自分の頭上に大きな掃除機を掲げてみせる。

 「ですがあなたはまた出会うでしょう。今のあなたはとても安定していますが、これからあなたはいくつも悩んで、いくつも苦しんで、何度も助けを呼ぶでしょう。その時わたしたちはあなたの前に現れ、共に戦います」

 「そうだね」

 わたしは言った。

 「でももう大丈夫……もう心配かけたりしない。もうあなたたちに間違いを押し付けたりはしないから……がんばるから」

 掃除人は母親のように微笑んで、手元のスイッチに白い指を触れさせる。

 「それではさようなら。また、いつか一つになるその日まで」

 「うん」

 わたしは言った。

 「ありがとう」

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