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二日おき六時に更新
わたしの名前はくぼみ。妹はイズミで、母親はまゆみ。父親の名前は敏明。
とはいっても血が繋がっているのは父親の方だけで。わたしはお父さんの連れ子だった。お父さんはお母さんと結婚した当時有名な画家で、たくさん個展を開いて雑誌に載せてもらって、テレビでは背広の司会者の前で偉そうに芸術を語った。
そんなお父さんはものすごいお金持ちで有名人で、けど気は優しかったから擦り寄ってくる女の人を振り切ることができず、何人もの女性と関係を持つ。やがてわたしが生まれてお父さんは結婚して二週間で離婚する。
芸術家の子供としてわたしはお父さんのアトリエで絵を描いて過ごす。三歳のときに描いた金ぴかの地球の絵や五歳の時に描いたお父さんの背中に鉄道を走らせた絵は、お父さんの個展にも飾られて後に小さな雑誌の記事になる。天才の子は天才。それから黒ばかりの絵を描くようになるまで、わたしはお父さんと一緒にもてはやされ続けることになる。
それからお父さんは今のお母さんと結婚する。お母さんは当時は雑誌の編集をしていた人で、お父さんについての記事を良く描いていたらしい。当時のお母さんは今ではまったく考えられないほど美しくてお父さんはメロメロで、わたしを二階の部屋に置きっぱなしでお母さんと遊んでばかりいる。
結婚してからのお母さんはわたしの教育に熱心になって、わたしをアトリエに座らせては何か絵を描くようにいう。その時からわたしの絵に黒いものが増えはじめる。特に良くテーマにしたのは真っ黒に描いたカラスの絵で、それが大きな賞を取ってお母さんにたいそう気に入られる。
やがて妹のイズミが生まれてお母さんはその子に付きっ切りになる。わたしはそんなお母さんと関わりを持とうとして一緒になって妹をかわいがる。妹はたいそう可愛くてわたしはすぐにメロメロになる。そのふっくらとした頬の桜色や口の中のあざやかな紅色を表現しようと一日中色を混ぜ続ける。
子供が二人になるとお父さんの活躍をテレビで見ることが少なくなる。毎日が一週間に一度になって一ヶ月に一度になって、あるとき完全に途絶えてしまう。お父さんはアトリエに閉じこもって奇矯な声をあげる。わたしはお父さんが怖くて一階に近付かなくなる。
ある日わたしは自分の絵をまったく描けないでいる。お母さんが後ろに立ってわたしが何か書くとすぐにその紙を破り捨てていくからだ。その日のお母さんはすごぶる機嫌が悪く、怯えたわたしはキャンバスの前で何時間も何時間も座り続けている。絵を描けない手なんかいらないとお母さんが激怒する。わたしは右手の指を切断される。
ぼろぼろになったお父さんはわたしを守れない。
指が千切れたことでわたしはほとんど絵が描けなくなる。あんなにわたしに絵を描かせたがっていたお母さんがそれをした。わたしは何がなんだか分からなくなってしばらく壁に向かって座り続ける。お母さんがわたしより妹に絵を描かせようとしていることにわたしは気付き始める。わたしは妹の存在がわたしの立場を揺るがし、その結果として指を切られたことに思い当たる。それに気付いたところでわたしは妹のことを愛していたし、妹のことを考えていれば自分一人で絵は描けた。
やがてわたしの心に誰か他の人の声が聞こえるようになる。
そいつはわたしがごはんを食べているとき着替えているとき遊んでいるとき絵を描いているとき現れて、近くにあるものを破壊する。これじゃないこれじゃないと口の中でぼそぼそとつぶやいてお母さんに気味悪く思われる。
ある時わたしは自分の妹を窓から投げ捨てて殺してしまう。
わたしは自分が妹を殺したのだという重圧から逃れる。わたしが見ている目の前でぼんやりとした何者かが妹を殺してしまったんだと思うようになる。わたしはわたしを一人ぼっちにした何者かのことを恨み続ける。
はたしてそいつは本当に孤独なんだろうか?
妹を殺したことになっているそいつは、本当にわたしの心の中に存在していたのだろうか。今となっては分からない。わたしはわたしの中の何者かを何度も何度も外に引き摺りだして糾弾する。わたしはわたしの中の罪を裁く。そうしているうちにそいつはぐしゃぐしゃのぼろ布みたいになって、やがてわたしはそいつに孤独と名前を付ける。
ある日わたしはキャンバスに吊り下げられた孤独の絵を描いてみせる。
わたしは捨てられて孤児院に入れられる。
「お姉ちゃん」
あまやかな声。わたしは奇妙な夢から目を覚ます。なんだっけ? 何かとんでもなく不安な夢を見ていたような気がするけれど。
鍵のかかった部屋にわたしと妹は二人、ベッドで絡み合うようにして眠っている。妹はひまわりのような笑顔でわたしを見下ろす。わたしはそれに微笑み返す。わたしはベッドをゆらりと置きだして妹の柔らかい体温を確かめる。妹はあどけない顔で首をかしげる。
「お姉ちゃん?」
わたしは妹のあちこちを触ってその骨の形や肉の柔らかさを感じてみる。違和感はない。違和感はない。目の前にいるのは確かに存在しているわたしの妹で、心の中で確かに成長して飛び出してきた本物のイズミだ。そうに違いないとわたしは自分の心に言い聞かせる。
「変なお姉ちゃん。どうしたの?」
妹は無邪気な顔で笑う。わたしは妹にいう。
「孤独をやっつけた」
「へ? 誰? その孤独って」
妹は目を丸くする。
「あなたをいじめる奴。昔あなたを殺した奴のこと。でももう大丈夫、天使のくちばしで貫かれて死んじゃったから」
「そうなんだぁ」
妹はそう言ってにこにこと微笑む。
「よかったねお姉ちゃん。これでもうお姉ちゃんをいじめる奴はいなくなった。お姉ちゃんを一人にする奴はいなくなった。お姉ちゃんはこれでもうわたしと二人、何の疑いもなく生きていけるね。ねぇお姉ちゃん」
眩く輝くような微笑。屈託なく、どこかしら記号的なその笑みは、どこか小さい頃母の為に描いた絵に似ていた。
「もう思い出した?」
「思い出したって……何のこと?」
「それはね、昔お姉ちゃんが大好きだった人のこと。ねぇお姉ちゃん」
妹はわたしに擦り寄りながら言う。
「お姉ちゃんの中の孤独は、何回人を殺そうとした?」
「……二回」
「相手は誰と誰だったかな?」
「それは……」
「良く思い出してみて、お姉ちゃん。他の奴らのいうことなんか聞かずに、自分のことだけ思い出してみて。ねぇお姉ちゃん。お姉ちゃんは誰を殺そうとした?」
わたしは自分の記憶を探る。
小野寺にまいてもらった包帯に手を当てる。上から指を押し当ててその中にあるはずの記憶に思いを馳せる。妹はほんの少しだけ不愉快そうにわたしの包帯を見詰め、それから黒く濡れた目をわたしに直接ぶつけ続ける。わたしは思いだす。
「わたしの中の孤独が殺そうとしたのは……」
そして首をかしげる。
「二回とも……妹?」
わたしが言うと、妹は一瞬だけ退屈そうな顔をしてその場を立ち上がる。
「イズミちゃん?」
「……それじゃあねお姉ちゃん。今朝も会えて嬉しかったよ。わたしたちはずっと一緒だからね、お姉ちゃん」
屈託なく笑い、妹はわたしの傍から消えていこうとする。わたしから離れていく妹に向けて、わたしは最後に問いかけた。
「イズミちゃん」
「なぁに?」
「カラスの色は?」
妹はよどみなく答える。
「白」
その日の朝食はハムエッグでわたしは醤油かソースか迷ってどちらもかけずに食べる。それから味気なくなってソースをかけるけど、醤油にしたほうがよかったかなと思い直して両方かける。味が良く分からなくなって後悔し始めたあたりで、わたしのほうにびくびくと向けられる二つの視線に気付く。
机の端っこで兜森がこちらのことをちらちらとうかがっている。怯えた小動物みたいな態度にわたしは少し笑う。院長は出てきていないらしい。
過去の自信満々の態度が嘘みたいに小さくなった兜森。あれだけ小野寺に対して横暴を振るっていた兜森も、今では体が大きいばかりでしかない。だけれどこれがふつうなんだとわたしは思う。あんなに酷い目にあって、それでもへらへら笑っていた小野寺がタフネフで強いというだけ。
その小野寺はあてつけみたいに兜森の隣に腰掛けて、今度は自分からハムエッグを食べるように薦めている。いつもなら断ってもぶん取られるところを自分から。気を使っているような声色に兜森は緩慢にハムエッグを手にする。そしてぼそぼそと食べ始めたかと思ったら、顔を顰めて口の中から白いものを吐き出す。
それか折りたたまれたボール紙で、小野寺はしたり顔をする。兜森は緩慢にそのボール紙を開く。わたしは気になって席を立ち兜森の後ろに回る。背後から誰かが席を立ったわたしをとがめて大声を出す。
わたしは兜森の手に握られた紙を覗き見る。
『ホモ野郎』と書かれていた。辛らつだ。小野寺はへらへらと溜飲が下がったみたいに愉快そうに笑う。
「どうしたどうした。ほら信条、兜森しおれちゃってるぜ。あははっ。良い気味だ」
あんまり小物っぽい仕返しにわたしは冷ややかな視線を小野寺に向ける。兜森は少し恨めしそうな視線を小野寺に向け、それからほんの少しだけ微笑んで見せた。
わたしは自分の席に戻される。
その隣で。桜色の髪留めをつけた少女が、一連のやりとりをじっと見詰めていた。
孤児院などと言っても両親がいなくなったりもとからいなかったり木に生っていたりする子供ばかりが集まる訳ではない。両親がきちんと健在でも経済的な理由とか親の愛情がどうのこうので、捨てられてくる子供も多くいる。
むしろ最近はそういうのが多いらしくって。兜森もそうだし小野寺もそうらしいし、他もだいたいそんな感じだ。子供を育てられない状態の親が一時的に預かってもらうのに都合よく利用される場合もよくあって、失踪していた親が見付かったとかで施設を離れていく子供もいる。そういう場合はお見送り会みたいなのが開かれて夕飯のおかずが一つ増える。
得意げにそこまで語った小野寺に周囲の子供たちの表情が少しだけ曇る。孤児院のことも何も覚えていないわたしは関心してふんふんと聞いていたしもっと興味があったけれど、ちょうど良いところで学校に遅刻するとか言って小野寺が鞄を持って出かけてしまう。
暇になったわたしは近くの子供たちの遊びに付き合う。三歳とか四歳とかの面倒を見ながらブロック遊びに興じていると、妙に楽しくなって巨大な塔を作ってしまう。「すげーっ。すげーっ」と賞賛を受けてほんの少しだけ照れ笑いする。あまりに照れたので真ん中をひんづかんでそれをへし折ってしまう。
ブロックが強引に外れるべきべきとした快感が腕に伝わって、わたしは恍惚を浮かべて崩れた塔を見る。子供たちが目にがっかりと涙を浮かべてこちらを見る。わたしは途端に
なんで折っちゃうんだろうわたし。
することがなくなってわたしはキャンバスを持ってベランダに出る。ぼんやりと晴れた空の太陽が、カラスの黒く光沢した体を覆っている。あの中に天使はいるだろうかとふと考える。
色を塗り終えていたわたしは最後に全体を整え始める。この程度の仕上げなら正直題材の前に座らなくても大丈夫なんだけど、なんとなく絵を描くところといったらここのような気がしていた。
ここで待っていたらそのうち小野寺が来るかもしれないというのもある。あの陰湿な変態には出来上がったこの絵をくれてやる約束をしていた。指きりまでやったのだ。
もくもくと作業を進めてわたしはようやく絵を完成させる。完成した絵を頭上にかかげ、頭を地面に擦り付けてじっと見詰める。
複数のカラスにたかられて全身をついばまれる少女の絵だ。真っ黒なカラスはうつろな目で表情がなく、中央の少女は悲しそうでも嬉しそうでもいたそうでもない。ただ垂れ下がった腕とかだらりとした頭とかからは、ある種の安らぎのようなものも感じとれるような気がした。彼女はされるがままになっているのだ。されるがままに全身をついばまれ、自分自身というものをカラスに差し出すことで安息を感じている。カラスの肉の一部としていくつもに分裂することで安らぎを得ている。
良く良く凝視しないとその絵の少女は、無数のカラスたちと一緒に真っ黒な闇の中に溶けてしまう。黒々としてぐちゃぐちゃとした中に顔の白色だけが浮かんだ、何か気持ちの悪いようなものにしか見えないだろう。
わたしは自分の絵のできに満足したようなどうでも良いようなそんな気持ちになる。わたしは出来上がったその絵をとりあえずどこかに投げ出そうとしてやめる。キャンバスにしっかり立て掛けて、右下の方にわたしは小さくサインを施した。
「……くぼみちゃん……」
と、わたしの背後から消え入るような声がかかった。
振り替える。こちらに怯えたような、それでいてどこか奸悪さをうかがわせる院長先生の顔がある。わたしは彼に向かって首をかしげる。院長先生は引きつった顔で笑ってから、こちらに手を差し出しておずおずとこう口にする。
「こちらです」
すると、背後から化粧臭い顔と豪奢な服を来た年老いた女が現れ、こちらに飛びつく。
「イズミちゃんっ」
おばさんはわたしの体に飛びついたかと思ったら人形みたいに持ち上げて頭を撫でる。わたしはそれにされるがままになりながらおばさんの顔を確認する。こないだのおばさんだ、こないだわたしの中のヒズミちゃんを呼んだ人だと思っていると、わたしは自分の体の中からはじき出されるような錯覚に陥る。
「お母さんっ」
わたしの唇が勝手にそう言葉を吐き出す。
酷い困惑と恐怖と奇妙な無力感が訪れる。わたしはお母さんお母さんと言いながらおばさんの香水臭いからだに顔をうずめる。やがて背後からどこかぼろぼろに使い古されたみたいな雰囲気を放つおじさんが現れる。
「……こちらの絵は?」
おじさんはわたしの絵をまじまじと見ながらいう。
「さっき娘さんが描かれていたもので」
「いらないわよ。そんな汚いの」
おばさんが言う。わたしはその頃にはもうほとんど何も考えられないでいる。されるがままにされる中でほとんど目を閉じたみたいに漠然とする。そんな中でも、わたしの体はバカみたいな声でお母さんお母さんと叫び続けている。
「……いいや。……これは、すごい」
おじさんは言う。
「これをもって帰ろう、まゆみ。……前の倍くらいの値段で売れるぞ」
「本当にっ」
おばさんの顔がぱぁっと輝く。
「嘘言ってるんじゃないでしょうね?」
「……ああ。……君だって昔は光明なライターだったけれど、わたしは今でも芸術家なんだ。信頼してくれ」
「はぁ? 一銭も金を稼げなくなったあんたが芸術家?」
おばさんはおじさんをぎろりと睨む。おじさんは怯んだようにその場にうなだれる。
「でも……ふぅん。これがねぇ……まぁ良いわ。ねぇイズミちゃん」
笑顔を浮かべ、おばさんはわたしの方に向き直る。
「なぁに? お母さん」
「この絵は誰の為に描いたのかな?」
わたしは屈託のない笑顔を浮かべ、からからの声でこういった。
「おかあさんっ」
「正解よ」
おばさんは満足したようにそういう。
「それじゃあ行きましょう。……イズミちゃん、付いてきなさい。お母さんとお家に帰りましょう」
「うんっ。嬉しいな」
わたしがそういうと、おばさんの表情がほんの少しだけ濁る。
「ごめんね……こんなところに押し込めたりして。だけれど仕方がなかった……仕方がなかったのよ。ねぇ」
言うと、おばさんはおじさんの方を見やる。
おじさんはうなずくこともせず、ただその場でうつむいているだけだった。おばさんは眉を顰め、それからいとおしそうにわたしのほうを見る。
「帰りましょう」
言うと三人は連れ立って歩き始める。
わたしは見ていることしかできない。
イズミと呼ばれたわたしは部屋で絵を描いている。真っ白なキャンバスの上につたない手つきで鉛筆を走らせて、子供みたいな絵の下書きをおぼろげに始めている。それは刷り込まれた条件反射みたいな動作で、背後ではにこにこ顔のおばさんがわたしの絵を覗き込んでいた。
「絵は描けるのか?」
背後からおじさんがしわがれたような声で言う。おばさんは上機嫌な顔のままおじさんの方を向き直って、どこかたくらむような声で口にした。
「えぇ。指がないから大丈夫かなとは思ったけれど。イズミちゃんはやっぱり天才だわ」
どうだろうか。わたしは思う。こんな子供の落書きみたいな絵がすごいとはとても思えない。わたしは勝手にさらさらと刻まれ続ける幾重もの線を見てそう思う。手馴れた手つきでともすれば達者な絵描きの動きに見えるが、しかし刻まれる線は丁寧なばかりで退屈だった。
後ろのおじさんもそれを感じ取っているようで。どこかしら不満そうな顔で眉を顰めるだけだった。おばさんが上機嫌そうにわたしの後ろに回った。そしてにんまりと微笑む。
「あの絵。いくらで売るつもり?」
「まだ分からん」
おじさんは言う。
「十万や二十万じゃ利かないのは確かだよ。しかるべきところで発表できれば、この子もまた有名になれるかもしれん」
「どっかのでくの棒と違って役にたつのね。偉いわイズミちゃん」
そういうと、おばさんは嬉しそうな足取りで部屋を去って言った。
おじさんとわたし。二人で部屋に残される。おじさんはどこかぎこちなくこちらに目を向けて、すまなさそうな声で言った。
「……許してやれよ」
何をだろう。わたしは首をかしげることもできずに思った。
「あいつだってな。イズミの振りをするのがおまえじゃなかったら、ああいう風にはならないさ……。ちょっとずつ元に戻っていけば良い。ちょっとずつ、ちょっとずつ……」
おじさんの言っていることの意味は良く分からない。ただしかし、どこかしら戯言めいて薄っぺらな印象があった。この人がでくの棒とののしられる理由だろう。
「くぼみ……。おまえの絵はまぁ、多分また例の雑貨屋あたりに売りつけることになると思う。まだネットのオークションには出さない方が良い。……おまえは芸術家になれるよ、だって俺の娘なんだ。……なぁくぼみ」
そう言っておじさんは薄くほほえむ。ヒズミと呼ばれるわたしはおじさんの言葉に首をかしげた。どうして自分がくぼみなんて名前で呼ばれるのか、分かっていない振りをしている。
やがておじさんも部屋の外に飛び出していく。わたしはそれでもキャンバスに筆をこすり付ける。丁寧で如何にも繊細に見えそうな筆致。わたしは自分が酷くつまらないものを描いていることに嫌気が差した。このまま目の前のキャンバスを手にとって、引き裂いてやりたいような衝動にかられた。
「がんばらなきゃ」
わたしの口からそんな言葉が漏れる。
「がんばんなきゃ。がんばんなきゃ。おとうさんとおかあさんのために。がんばんなきゃ。褒めてもらわなきゃ」
一生懸命そう言って、イズミと呼ばれるわたしは賢明に筆をこすり付けていく。わたしはそれを背後で見詰めた。消え入りそうになりながら、懸命なヒズミをじっと見詰めていた。
彼女の絵を引き裂く権利なんてわたしにはない。彼女は自分以外の誰かのために、一生懸命に自分を表現しようとしている。それを引き裂くのは本当に酷い、最低な行為だ。
わたしはイズミの傍に腰掛けて、彼女と隣り合うようにして膝を丸める。そして絵を描くイズミのことをじっと見守る。
イズミは唐突にこちらを向いた。
「誰?」
目を丸くしたイズミが怯えたようにわたしに言った。わたしは顔を上げる。それからできるだけ優しい声でこう言った。
「くぼみ。あなたのお姉さん」
「お姉さん……?」
イズミは漠然とした表情を浮かべる。
「知らない……誰?」
「……どういうこと?」
わたしは首をかしげた。
「あなたのはもう何度もあったでしょ? 今朝だって。わたしの布団に潜り込んできて……」
「違う」
と、イズミは言った。
「違う……あれはあたしじゃない。あなたの言っていることは間違っている。あれはあたしじゃなくて……」
「イズミちゃん」
と、扉の開く音がして、そこからおばさんが姿を現した。
「何を一人でぶつぶつ言っているの? そういうの、やめなさいってお母さん、言ったよね」
おばさんは険しい顔でそういった。妹は途端に涙を浮かべそうになり
「……ごめんお母さん。ごめんなさい。ぶたないで」
消え入りそうな声でそう口にする。おばさんは一瞬、癪に障ったような表情を浮かべるが、次に笑顔を取り戻して
「良いのよ。次から気をつければ……。ねぇイズミちゃん」
おばさんはわたしの傍に近付いて、イズミの小さな手を取った。
「あなたの描いた絵を売ってこようと思うの。良くかけていたからね」
「本当っ」
イズミの表情がぱっと明るくなる。
「本当にっ? お母さん、あたしは役に立ったの? あたしはお母さんの役に立ったの?」
「えぇイズミちゃん。本当に役にたったわ。良い子ね」
言っておばさんはイズミの頭を撫でる。イズミはえへへと嬉しそうに笑む。
「だからねイズミちゃん。ちゃんと自分が描いた絵ですって言うのよ。……小さな女の子が描いたってなったら、珍しがって値が上がるから。わかったぁ」
「うんっ。お母さん」
「良い子ね。……ねぇイズミちゃんって今いくつだっけ?」
おばさんが尋ねると、イズミは屈託なく微笑んでから
「九歳っ」
と言った。おばさんは笑顔でうなずいて頭を撫でる。自分のものとあまり変わらなくなりつつあるその頭を。
それからおばさんはわたしの絵を持って、イズミを背後に従えながら玄関の扉を開く。夕闇の浮かんだ外の景色が浮かび、イズミとおばさんは仲の良い母子のように足取りを弾ませながら外へ出る。
並んで歩く二人はどこか幸せそうでもあった。優しげな声で言葉を交わし、抱擁する二人の姿は温かかった。わたしはそれを見ていてどこかせつない気持ちにもなる。この二人のこの光景を、額縁に入れてずっとしまっておきたいような、そんな狂おしい願望に。
だがしかしそれでもわたしは、それを許すわけにはいかないのだ。
「ねぇ。おばさん」
わたしは言った。
「その絵……売っちゃうってどういうこと?」
唐突に表情の変わったわたしを、おばさんが信じられないものを見るような目でまじまじと見詰める。わたしはおばさんを強く睨みつけて言った。
「それ……わたしのなの。あげたい人がいるんだけれど」
「何いってるの?」
おばさんはうろたえた声で言う。
「この絵はイズミちゃんの絵でしょう……? イズミちゃんが、お母さんのために書いた絵……そうでしょう?」
わたしは目を閉じて首を振った。
「違う」
おばさんは今にも倒れ付しそうに頭を振る。
「何を言って」
「わたしはイズミじゃない」
「やめて」
「わたしは信条くぼみなの。その絵にちゃんとサインしてあるでしょう? それはわたしの描いた絵なの」
わたしは顔を上げ、眉を顰めておばさんに向かい合った。
「だからそれはあげられない」
「この……アバズレがぁっ!」
おばさんはヒステリックにそう叫んだかと思ったら、わたしの顔を強くはたいた。ぐにゃりとわたしの視界が揺れる。わたしの中でイズミが泣き叫ぶ声が聞こえる。やめてやめてと、懇願するようにわめくイズミの声がする。わたしは床に転がって頬をすりむいた。
「イズミちゃんを返せっ」
おばさんは叫ぶ。
「イズミちゃんはどこにいるのっ。イズミちゃんを出してっ! あんたなんかいらないのよ、あんたなんかあんたなんかあんたなんかっ」
言って、おばさんはわたしの体を執拗に踏みつける。
「あんたが全部悪いんだっ。あんたがイズミちゃんを隠すから……殺すから……。だから、だからだからだから」
強い恐怖と衝撃に、わたしはおばさんのほうを睨むこともできないでいた。ただうつむいて、執拗に振り落とされる靴の裏には歯を食いしばっていることしかできない。
頭の中を木霊する様々な悲鳴。いくつも重なって聞こえるその声は、わたしがこれまで忘れてきたすべてのわたしが発しているもののように思われた。わたしはそれらの声に耳を塞ぎ、目を閉じてただただ耐え続ける。
「はぁ……はぁ」
やがて。おばさんは息があがったようにわたしを見下ろした。肩を上下させ、疲れたように、泣き出しそうにその場でうずくまる。そしてわたしの方に優しげな笑みをくれると、促すような声でこういった。
「イズミちゃん」
わたしは答えない。
「イズミちゃん。どうしたのイズミちゃん? でてきなさい?」
おばさんは戸惑ったような、心の弱い少女のような声で言った。これがこの人の本当の姿なんだなぁと感じた。
「お母さん、イズミちゃんのことぶっちゃってごめんね? ごめんねごめんね? だけど大丈夫だから。そこにいるのがイズミちゃんって分かったら、もうぶたないから。だから……」
おばさんはわたしに手を差し伸べる。
優しげに見える、しかし捻じ曲がった笑みをたたえながら
「お母さんと一緒に絵を売りに行きましょう」
「いやだ」
わたしは答える。
「これはわたしの絵だ」
おばさんの表情が完全にゆがみ、眉をつりあげて手を振りかぶった。
わたしは覚悟して目を瞑る。
ばちんと、肉を叩くような子気味良い音が響く。次にうめくような少年の声が聞こえた。
「あなた……」
おばさんが漠然とした声を出す。
目を開けると、そこには小野寺正志が両腕を広げてわたしとおばさんの間で、ひょろりとした背中を向けて頼もしくそこに立っていた。
「やめてくれよおばさん……いやなこと思い出しちまう……」
言って、小野寺はおばさんに殴られた頬を痛そうにさする。
「ちょっとあなた……誰よ?」
小野寺は肩を竦めると、わたしのほうを親指でさしてつまらなさそうな声で答える。
「こいつの……友達っつかそんなんだ」
「トモダチィ? イズミちゃんの?」
「信条の。信条くぼみの」
言って、小野寺は睨むようにしておばさんを見詰める。
「その絵。おれのなんで返してもらえない? うっぱら割れちゃうと困るんだけど?」
「何言ってるの?」
おばさんはうろたえた声で言う。
「これはイズミちゃんがあたしのために描いたで……」
「約束したんだよ。指切ったってしてな。同じことして内のばばぁ守ってくれなかったけど、ここのこいつは守ってくれる気があるみたいだし。おれにはそれを受け取る権利があるぜ。あんたよりはな」
「ふざけないでっ」
おばさんは叫ぶ。
「だったらあたしの生活はどうなるのよ? あんなゴミ亭主で、仕事もなくてっ。この絵がないとあたしは……」
「だったらおれがその絵を買ってやる」
言って、小野寺はつまらなさそうな顔でポケットに手を突っ込む。
すると。きらりと鋭く、今にも指を切ってしまいそうなお札の塊を取り出して、おばさんに向かって突きつけた。
「……それ?」
「これくらいでよいか?」
言って、小野寺はそれをおばさんに投げつける。おばさんは無様にしゃがみこんでそれを拾い上げると、本物であることを確認するようにぱらぱらとめくり始めた。
小野寺は不快そうに舌打ちする。
「手切れ金で良いか? それ」
怒気を孕んだ声で言う。
「二度と孤児院に現れんなよ……次は出るとこでるぜ? 子供だと思ってなめんなよ? ああ?」
小野寺は威嚇するようにそう口にすると、おばさんからわたしの描いた絵を取り上げる。険しい表情を解いてわたしの方を振り向き、手を差し伸べてきた。
「ほら立てよ。信条」
乱暴で軽やかでどこか頼りなく、それでいて限りなく優しい手だった。わたしは何も分からずその手を握る。
「行くぞ」
小野寺は右手に絵を持ち、左手でわたしの手を掴んで走り出す。背後でおばさんは呆然と、しかし軽薄にそこに立ち尽くすばかり。ただ不思議そうな顔をして、しっかりとその手に札束を握り締めるだけだった。
「ちょちょちょっと小野寺っ」
わたしは訳も分からず小野寺に尋ねた。
「なんだ?」
「なんでこんなとこ来たの? なんでいるの?」
「なんでいるのとは辛らつだな……。院に帰ったらおまえがいないから、院長を問い詰めてここを聞き出した。事情は全て聞いた。おまえの親の軽薄さも」
「さっきのお金は?」
「院長に言って貸してもらった。土下座して足に泣き付いて『お願いします昨日のことばらされたくなかったら』って言ったら結構くれた」
「……でもなんでっ」
「おまえのこと連れて行くために決まってんだろ? おれはおまえのことが好きだからな。あんなばばぁのとこに行かせるのはムカつくだろ? それに」
小野寺はにやにやと笑ってみせる。
「この絵もまだもらってなかった……。ったくおまえしっかりしろよ。危なくとられるところだったじゃねぇか。約束破るきかよ、約束」
「んな訳ないじゃんっ」
わたしはほとんど泣き出しそうにそう言った。
「んな訳ないじゃんっ。そんな訳……絶対やだもんそんなの……」
小野寺はそこで立ち止まる。わたしの手が震えているのを感じ取ったのか。小野寺は振り向いて優しげな目をこちらに向ける。そして震えてうつむくわたしの肩を抱く。
「ありがとうな」
屈託なく笑う。
「おまえ強いよ。……あんなに蹴られてて。それでもおれとの約束、守ってくれたもん。おれ、一瞬怖かったよ。足が竦んだよ。でもいくしかないよな、おまえはおれのためにあんなにしていくれたんだもんな。……ありがとうな」
わたしは小野寺の胸に飛び込んで泣き出す。小野寺はそれを受け止める。
自分でもどうしてこんな無様な失態をこいつの前に晒さなくちゃいけないのか分からない。ただどうしようもなく、わたしがそう望んだときに現れてくれたこいつの傍に飛びつきたくて。
アタマの中がおかしくなる。わたしはたまらず小野寺の足を踏み抜く。いてぇっ、小野寺は驚いたようにそう叫ぶ。反射的に飛びのこうとする小野寺をわたしは離さない。それからわたしは小野寺の足を何度も何度も踏んでいく。小野寺は戸惑った様子を見せながらも、泣き出すわたしをあやし続ける。
薄く頼りない胸板と砂っぽい匂いそのはしかし、確かにわたしが求め続けたものだった。




