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二日おき六時に更新
そうしていると孤児院の朝が始まる時刻になる。
朝ごはんに遅れてしまうのはいやなのでわたしは着替えを始める。着心地の良いパジャマから適当な部屋着に。ここにおいてある衣類はいったい誰が購入していたんだろう。わたしは少々安っぽく子供っぽいそれらの衣類をつまみ上げて首をかしげる。
一之宮先生だろうか。首を捻りつつアタマから上着に突っ込む。化膿して膨らんだ包帯が引っかかり、ぴりりと引きつるような痛みが響く。わたしは顔を顰めてべとべとになった包帯に手をやる。
変えてもらおう。
そう決意してわたしは部屋を飛び出す。
顔を洗おうと洗面台に向かって歩く。小学生に達しない小さな子供たちが良くわからない悲鳴をあげながら過ぎ去っていく。誰一人としてふさぎこんだ顔はない。一宮先生の死なんてなかったことのように感じられる。
「こらこら。静かにしなさい」
言いながら洗面台から院長先生が現れる。白髪を纏ってしわくちゃの顔をした優しそうなおじさんだかおじいさんだかというような人物。院長先生はその場で漠然と立つわたしに気付いて閉口する。
「おはようございます」
わたしは挨拶をする。院長先生は引きつった表情でその場を一歩下がる。どうにかこうにか挨拶を返そうという具合に口をぱくぱくと開閉させる。
変なの。
「あの……お願いがあるんですけど」
言いながらわたしは院長先生に近付いていく。院長先生は体を後退らせて洗面台の方に引っ込んでいく。その真っ白い頭が洗面台にぶちあたる。がこんといやな音がして院長先生がその場に倒れ付す。
その真ん丸に開かれた二つの目は、まるで妖怪でも見るようにわたしの方に向けられていて、わたしは少しだけ眉を顰める。怖がられているのか。そう思ってわたしは院長先生に包帯を変えてもらうのを諦める。院長先生の体を乗り越えて洗面台に向かい、包帯を引き剥がして真っ黒な自分の眼窩を確認する。
べったりと化膿した眼窩の色合いはどこか魅力的でもある。この黄ばんだ黒とでも形容すべき色彩をどうやって絵の具で表現しようかと、わたしは一瞬だけそんなことを考える。
わたしは両手で水を掬って自分の顔にぶちまける。ぬるりという冷たい感覚が顔を覆う。再び顔をあげると、そこには右目のどろどろが垂れ下がって顔中を覆いつくす、気持ちの悪い顔が鏡に浮かんでいる。
「うっわなんだよそれ。きっしょくわりぃ」
言いながら現れた小野寺が鏡の中に小さく写りこむ。
「そこにいるの誰? 院長? なんで倒れてんのバッカみてぇ……。まぁ良いや。信条さっさと顔拭けよ。なんかすげぇぞ、ゾンビみてぇだ」
「分かってるよ」
小野寺にそういわれたことでわたしは若干の気恥ずかしさを覚える。気色悪いといわれて傷ついた訳ではない。なんとなくコイツにはこんな顔を見られたくないような気がしたのだ。どうしてこんな奴の目を気にするのかわたしにも分からないけれど。
わたしは蛇口を目一杯捻って顔中に水を注ぎ続ける。べったりと膿の張り付いた眼窩に朝の冷たい水が染みる。
しばらくそうしていると、足元でどたばたと大きなものが這うような物音がする。水をとめてそちらに視線を注ぐと、四つんばいになった院長先生がすばやい虫みたいな格好になって、どたばたと洗面台から離れていく。
何とか途中でなんとか二本足になって戻っていく院長先生に、後ろで台所を覗き込んでいた小さな子たちがおかしそうな目で見詰めている。小野寺は怪訝な顔をする。
「大丈夫かあの院長……? まぁいいか、大人だし。ほらほら信条おまえ今度は水が垂れてるぞ」
言いながら小野寺はタオルを手にとって、乱暴な手つきでわたしの顔に押し付けてくる。わたしはぼけっとしたまま小野寺に顔を拭かれる。やたら力のこもった手つきではあったが、不思議と痛くは感じない。
「よし綺麗になった。目ぇつぶれてるけど、やっぱかわいいのな」
小野寺は言う。そしてまじまじとわたしの顔を見詰める。
目を丸くした小野寺の表情の意図が分からない。なんとなくされるがままに困惑する。小野寺はわたしに顔を近付いて何か関心を持ったようにじっと見詰める。わたしは首をかしげる。ほんの少しだけどぎまぎとしたものも感じる。
なんだコイツ。
小野寺はわたしのつぶれた右目に指を近付けて、そしてまぶたのあたりに手をかける。
「……これ。中開けて見ても良い?」
素っ頓狂な声で小野寺が言う。わたしは少しだけ眉を顰める。
「だめ」
「えー」
小野寺はがっかりしたような表情。わたしはそれを少しだけせせら笑って洗面台を離れる。すると後ろから順番待ちの子供たちが現れて、生意気を叫んでは小野寺の尻を蹴り飛ばす。小野寺がオーバーなリアクションで痛がって見せる。子供たちが笑う。
洗面台から離れる途中、子供たちに混ざってこちらをじっと見詰めている人物に気付く。
桜の花をあしらった髪留めをした、同じ年かちょっと年上くらいの女の子。
わたしは一瞬だけその女の子と目を合わせてその場を去る。どこか納得のいかないような顔をしたその子のことを、わたしは記憶の中で散々弄ぶ。
誰だろう。あの子。
朝食を食べる前にわたしは小野寺を呼びつけて包帯を巻き変えてもらう。それくらい自分でやれとぶつくさ言いながら小野寺は丁寧にそれをやってくれる。コイツは結構小器用な男だとわたしは知った。
男の子の強い力でわたしの頭がぎゅうぎゅう巻きにされる頃には、食卓に朝食の料理が並べられている。一之宮先生がいなくなったことで若干料理の質が落ちたような気がする。わたしたちが席に着く頃には小野寺のおかずは半分以上が既にパクられている。小野寺はがっかりしたような陰鬱な顔で兜森のほうを見る。この二人は時々殴り合いをやって、途中から一対十一くらいになって小野寺がボコボコにされる結果で終わる。
兜森は体の大きな男子で小野寺より一つ二つは年上だ。子供たちの面倒見も良く施設の男の子たちのだいたいを掌握している。職員の先生たちからは良く信頼されていて子供たちの面倒を見ることもあるが、そういう時はだいたいついでに彼らからお金やら何やら巻き上げていく。職員たちはもちろんそれを見てみぬ振りをする。
兜森の特徴の一つとして額のあたりに刻まれた切り傷のような痕がある。いつもふてくされたような顔の彼だが、小野寺を羽交い絞めにする時だけは恍惚の笑顔を浮かべるようになる。捻じ曲げられた瞼の上で形を買える傷跡を、子供たちは少し気味悪がっているようでもある。
「あいつをどうにかとっちめてやりたい」
学校から帰ってゴミ置き場の前に現れた小野寺は、鬱積に満ちた声色でそう口にする。カラスの絵を完成させつつあったわたしはそれに生返事を返す。
「すれば良いじゃん」
「方法を考えろ」
小野寺は命令口調で言う。わたしはしばし絵を描く手をとめてからこう口にする。
「一人の時に喧嘩すれば良いじゃん」
「それはもうやった」
「勝ったの?」
「負けた」
小野寺は悔しがる様子もなくそういう。
「あいつ体でけぇもん。一発目からして金的だしよ。マジでいてぇよ……勝てない勝てない」
言って小野寺は股間を押さえて悶絶する演技をして見せる。情けない男だ。もっともそれも無理からんとわたしは考える。小野寺は百七十以上ありそうな兜森より十センチくらい背が低いし、体だって細い方だ。
「じゃあ武器使う。ナイフとかバットとか」
「バカ野郎。そんなもん使ったらあぶねーじゃねーか」
小野寺は眉を顰めてそう言う。かわいそうなくらい人が良い。所詮ぱんつ学者だ。わたしはこのへたれた小野寺でも可能な先方をいくつか考えてみる。
「じゃあ一服盛る」
「どうやって?」
「兜森が手を付けそうなおかずに入れておく。できるでしょ?」
「なるほど妙案かなぁ……。で、何を入れるんだ?」
「そりゃもちろん毒だよ。青酸カリとか」
「死なすのはダメだろ。つーかそんなのどこで手に入れるんだよ」
小野寺は呆れたような声で言う。わたしはじゃぁと考え直し
「カッターの刃とか」
「下手しなくても死ぬわ。やめろ、もっとマイルドに」
「じゃあ裁縫針」
「酷くかわらんっ」
「ガラス砕いて混ぜようよ」
「刑事事件になるっ。やめて、やめたげてっ。あんまケガはさせない方向で検討してっ」
「えぇ? なにそれつまんないじゃん」
「つまんなくて良いんだよ。おめー物騒なんだよ。下手すりゃ死ぬような案ばっかり出すんじゃねーって」
そう言って小野寺は溜息を吐いてみせる。それからやれやれと首を振って、次に少しだけ愉快そうに屈託なく笑い出す。少年染みたその表情。こいつは多分、あれだけのことをされていて、兜森のことをそこまで恨んだりしていない。どちらかというと好きなんじゃないかとすら思えてくる。
「で。どうするの?」
わたしは漠然と小野寺にそう尋ねる。小野寺は少しだけ考え込むように思案顔になり、それからたくらむようにせせら笑い、答える。
「まぁ一服盛るってのとはちょっと違うけど。そういう方向で言ってみるわ……。ところで信条、その絵、後どれくらいで完成しそうだ?」
そういうのでわたしはカラスの絵の方に向き直る。何度も何度も上から絵の具を置いて書き直しているので、全体としては少々ぐちゃぐちゃな感じになりつつもある。けれど全体として描きたいものはだいたい描いたような気がするし、色もほとんど濡れている。
「二日くらい?」
わたしは空を飛び回っているカラスの一匹の口先に、少女の目玉の下書きを施す。それから同じく暗い背景の中で、ぼうっと浮かび上がりそうな一番濃い黒をパレットの上で作り始める。
「そうか」
小野寺は小さくはにかんでそう言った。
「楽しみだ」
ゴミ置き場では大柄だったり小柄だったり濃かったり薄かったりするカラスたちが、ゴミを漁りながら飛びまわっている。
これが小野寺には白色に見えているんだよなぁ。そう考えるとわたしはなんだか不思議なような、納得のいかないような感慨に浸される。
わたしがおかしいのか、他のみんながおかしいのか。
別にどっちでも良い。どっちでも困らない。わたしは思った。それは小野寺もそうだろう。コイツはわたしがカラスを白く見えてようが黒く見えてようが別にかまわない人間だ。そういう奴もいるんだろうで受け入れてしまう人間だ。だからコイツはこんな風にへらへらとした表情でわたしの後ろで立っている。当たり前のようにわたしに声を掛けてくる。わたしはそういうコイツのことが嫌いじゃない
孤児院には図書室がある。
それは近所の学校とか図書館とかふつうの家庭とかから寄付されたもので、ほとんどが子供用の絵本とか図鑑とかそういう本だ。はらぺこ青虫とかぐりとぐらとかの棚を通過して、わたしは子供カラー図鑑と呼ばれる古い図鑑のシリーズの前で足を止める。
十二冊の本が歯抜け状態に横向きに並んでいるのを、わたしは一冊ずつ手にとって吟味していく。目的の項目が見付かったのは一番最後にチェックした第一巻で、『どうぶつ・とり』を扱ったそれをぱらぱらとめくる。
あった。
画面の左端に大きく書かれたカラスの絵。独自のなめらかさを持つ白色で描かれたそのカラスは、わたしの知っている黒ずんだ鳥よりも、随分とすっきりとしているようだった。
『まっしろな からだをもつ。 おおきなはねをひろげて とぶすがたは うつくしく とても にんきがある。 むれで こうどうし にくしょくで ことりや にんげんのだした ごみをたべる』
ひらがなで書かれた読みにくい説明文を読む。美しい鳥かぁ。わたしはうつろな目をしたのっぺらぼうのカラスの姿を思い浮かべる。飛び上がるときに撒き散らされる黒い羽や、丸々として不恰好な姿を漠然と思い描いた後、わたしは図鑑を本棚に戻した。
変なのはわたしのほうだった。
しかしそんなことは気にならない。ただなんとなく確かめてみたかっただけだ。カラスの色が白かろうが黒かろうが関係なく日々は過ぎるし、孤児院での日常は続いていく。
そもそもどっちがおかしいのかなんてまだ分かった訳ではないのかもしれない。とわたしは考える。今回分かったのは孤児院のみんなの認識が、さっきの世の中の認識と位置していることが分かっただけだ。世の中の認識そのものが間違っていて、わたしの見えるカラスが正しいという可能性も依然として存在し続けている。というかわたしがわたしの目でしか物事を認識できない以上、わたしにとって正しいカラスの色は黒であり続ける。それはわたしがもう片方の目をつぶしてしまうまで、それはそうであり続けることなのだ。
ふとそんなこと考えていると、図書室の中につまらなさそうな顔で入ってくる兜森を発見する。
兜森はわたしのほうを一瞥すると、ほんの少しだけ眉を顰めてから目を逸らす。そしてマンガ本を置かれた棚に近付いてブラック・ジャックの単行本をそこに差し込み始める。わたしが読みたくておいてなかった十一巻はコイツが持っていたのかと思いながら、わたしは背後に回って声をかける。
「カブトムシくん」
兜森は驚愕に満ちた表情でこちらに振り返る。
「信条……?」
「あ。違ったカブトガニくん。……じゃなくてなんだっけ? あれ?」
「兜森だ」
不愉快そうに言って、ブラック・ジャックの続きをつまみ出そうともせずにその場を立ち去ろうとする。わたしはその大きな体に追いすがる。小野寺のものよりも十五センチくらいは大きく、熱を纏ったように暖かい。兜森は眉を顰めてわたしを振り向く。
「なんだよ?」
「あなたの部屋。一之宮先生の頭が窓の傍に落ちていたんだよね?」
兜森は質問の意図が分からないとばかりに大柄な首をかしげる。
「そうだけど?」
「それ、見た?」
「見たけど」
兜森は唇を軽薄に歪めて口にする。
「あのクソ女がくたばってせいせいしたよ」
「クソ女?」
「ああそうさ。クソ女だ」
兜森はふんと鼻を鳴らして見せて
「酷い野郎だ。俺の同質の一番ちっこいのなんて、便器に顔を突っ込まれたっていうからな。普段は好かれるように猫かぶってるけど、気に入らないことがあるととたんにむちゃくちゃになるんだ。俺の同室のやつみんな嫌ってたよ。死んで良かった、てな」
「小野寺も?」
「あいつは知らん」
兜森は眉を顰めて
「あいつを同室だと認めたことはない。今朝も袋叩きにしてやったところだ」
「いつかとんでもない目にあうよ?」
わたしは忠告してやることにした。
「あいつが何もできない奴じゃないのは分かるでしょう? みんなのおもちゃにされているのは優しいから。ちっちゃな子を殴ったり弾いたりできないから。いつかあなたは小野寺に殺される」
「うるせぇな。あんな変態野郎の肩を持つなよ」
兜森は心底不愉快そうにそう口にする。それからわたしの方を鋭く睨みつけて、舌打ちをする。
「女は黙ってろ。……あん時のお礼をしてやっても良いんだぜ?」
言われたのでわたしは黙ってやることにする。黙って兜森の軽薄な瞳をまじまじと見詰める。それだけで兜森は怯んだみたいに後退って、もう一回舌打ちをしてからぶつぶつ言ってその場を去っていく。
「ねぇカブトマイマイ」
わたしは兜森の背後に声をかける。兜森は一瞬その場で躓きそうになりながら、不愉快な顔でこちらに振り向く。
「なんだよ?」
「一之宮先生を殺したのって、あなた?」
兜森は心底意味が分からないというような顔でまじまじとこちらを見詰める。
「……どうしてそうなるんだ?」
違うのかな? わたしは首をかしげて兜森に背を向ける。こいつは最近良く夜中に部屋の外に出かけていると小野寺から聞いていた。様子も少々おかしいのだと。わたしは首を捻りながらブラック・ジャックのついでに十一巻を手にしてから図書室を出る。
どうやって密室を崩して孤児院の内側から一之宮先生を殺すのかは、もう分かっていた。
兜森は一之宮先生を殺していないっていう。
あいつは人をいじめることはできても、人を殺せる人間だろうか? 分からない。相手が絶対に反撃できない弱者で絶対にバレないこと約束されていて、ついでに安全を保障してくれる協力者が何人かいたら片棒くらい担ぐだろうけど。たった一人で何の保障もなく人を殺してしまえるような人間ではないような気がする。
じゃあ他のルームメイトならどうだろうか。わたしは兜森の子分たちの顔を一つずつ思い浮かべる。そのだいたいが、特に兜森と同室の人間は全員小学生とかで人を殺せるような人間には思えない。
しかしどうなのだろう? わたしは考える。世の中では十二歳の小学生が背の高い大人を殺害しておちんちん切り離してビンにつめて部屋においていたなんて事件もある。それよりもっと小さな子でもおない年の子とか自分の親くらいは殺している。全て小野寺がへらへらしながら喋ったことだ。あいつは本を良く読むので色んなことを知っている。
小野寺は確か十四歳だ。兜森は十五歳だったか。人を殺害せしめるには十分な年齢といえるかもしれない。どちらも被害者である一之宮先生より背が高かったし、状況的にも不自然はない。殺せるとしたらこの二人のどちらかじゃないだろうかとわたしは思う。
「人を殺して首を刎ねるのに、年齢なんてものが重要だとは思えません」
そう言ったのは悪魔だ。
「人間の首を刈り取るのに対した力はいりません。同じ太さの丸太を落とす方が何倍も難しいでしょう。少々血と油で刃物の切れ味は落ちるでしょうが、それでも時間をかけてやってできないことはありません。そもそも真夜中とは言え、窓を除けば分かるような場所に死体をおきに来るのは愚行をしているところからして、犯人は頭の悪い子供なんじゃないかとわたしは思いますがね?」
悪魔の登場は毎回のこと唐突だ。ベッドに腰掛けた悪魔は妖艶な笑みで帰ってきたわたしを迎え入れる。そしてわたしの為にベッドにスペースを作ってみせる。わたしはそこに潜り込む。
「頭の悪い子供ならこんなこと思い付かないよ」
「頭の悪い子供だから、たまたま思いついたことを実行してしまうのではないですか?」
嘲弄するような声で悪魔は言う。たしかにそれも道理だと思った。
「ちっちゃな子供が人を殺そうなんて思うかな?」
「思いますよ。現にあなたがそうしています。正確には、あなたの中の何者か、ですが」
そう言って悪魔が笑うので、わたしはぼんやりした声で返答する。
「妹のこと?」
「それもあります」
悪魔は少しだけ真剣な表情になる。そして今度は優しい姉のような笑みを見せると、わたしの頭に手をおいて
「あなたにも、昔はちゃんとルームメイトがいたのですよ」
と言った。
何それ知らない。
「ええ。知らないのも無理はありません。何故ならわたしが教えていないからです。あなたは数日前以降の記憶がありませんが、それも必要に応じてと言うことでしょう」
「……?」
「そのルームメイトの方の名前は春崎日向と言いました」
どこかで聞いたことのある名前だと思った。それはもちろん、失われた記憶のどこかにひっかかって残っているということでもあるのだろうけれど、
「その方は非常に面倒見の良い好人物でしてね。当時情緒不安定だったあなたのことを、気にかけて色々と親切に振舞ってくれたものですよ。あなたはその人のことを良く慕っていました。非常に影響力の高い方でした」
覚えていない。わたしは妙な心地の悪さを感じる。そりゃそうだ。今では顔も知らない人のことを好きだったとか慕っていたとか、なんとなく収まりの悪いような心地がした。
「ある日あなたと春崎日向はあるごっこ遊びをしていました。それは二人の間で何度も繰り返し行われてきたことで、日にちをまたいで続けられることも頻繁にありました。しかしその遊びは周囲の方たちから見ればどこかおかしな遊びでもあり、気味の悪い行為と取られることもありました。そしてその遊びの最中に、あなたは春崎日向の胸をナイフで貫きました」
悪魔は流暢な言葉遣いでわたしに言う。その表情は何かを図るようでもあり、自分のたくらみを進行させようとするような不適な笑みは、まさしく悪魔の名に相応しいもののようにも見えた。
「おいおい悪魔ちゃんよ、おめー。何がいいたいんだよ」
部屋の隅っこでタオルにくるまれた天使が叫ぶ。
「いまさらその子にそんな話してどうすんの?」
「この子が聞きたがるんじゃないかと思ったのです。それだけですとも」
悪魔は肩をすくめるように言った。
「それで。その春崎さんとはどうなったの?」
わたしは尋ねる。悪魔は愉快そうに唇に手を当てて笑う。カラスは力なく床に倒れ付して、最後の一鳴きをすることもなくじっと動かない。
「春崎さんのケガは深刻で、すぐに病院に搬送されました。……そしてあなたたちは別室となり、あなたはこの牢屋のような個室に放り込まれました。そうした後のあなたは自傷や奇声など問題が多く、中で何をしでかすか分からないということで、一之宮が担当として付けられたということです。彼女の熱心なケアのお陰で、最近は随分と安定しているようですけどね」
悪魔はベッドを立ち上がり、優しい姉のような目つきでこちらを見下ろすと、小さく微笑んでから口にした。
「あなたは確かに春崎日向の胸を指しました。思い出せませんか?」
わたしは首を振る。悪魔はさもありなんと唇を歪め
「思い出さなくてもかまいません。ですが知っておいてください。あなたは戦わなければなりません……あなたの心のどこかに眠る、強く残酷な悪意を持った何者かの存在と」
忠告するようにそう言ってから、悪魔の姿は途切れるように霧散して消える。
明かりを消した部屋でおぼろげに目が覚める。
ふと時計を確かめようとしてやめる。そういえばあの時計はまだ合わせてもいない。窓から覗く闇の程度からして夜中の二時くらいだろうとあたりをつける。天気の具合にも寄るけれど、一目見た色はだいたい忘れないわたしにとっては、時計というのはあまり必要のないものだった。
ふとむずむずしたものを感じて布団を飛び上がる。眠い目を擦りながら立ち上がり、鍵のかかった出入り口の辺りに向かうと、少し遠慮がちな足音がたかたかと扉の前を通過していく。
なんだろう。
とりあえず足音をやり過ごしてからわたしは扉を開ける。すると今度はべこんと間抜けな手ごたえがあって、頭を押さえて疼くまる小野寺の姿がそこにはあった。
「おので……」
「静かにしろっ」
あまり静かでないあせった声で小野寺は言って、わたしに飛びついて強い力で口を覆う。それからわたしの体ごとわたしの部屋に引っ込んだかと思うと、体を丸くしてその場でうずくまった。
「……気付かれなかったか?」
「……っ。~~っ」
「気付かれてない……よな? よしよし、兜森の野郎流石にニブチンだ。……いったいなんだってこんな夜中に……っておいやめろ。何してやがる、人の手を舐めるな。いててててっ。噛むなっ。噛むなってっ」
小野寺はわたしの口元から手を離す。そして痛がるように自分の手をじっと見詰めると、それから寝巻きのズボンのあたりに濡れた手を押し付ける。
「突然何しやがんだ。歯型ついてんぞ、歯型。ちいせぇ前歯」
「何すんのはこっちだよ。いきなり現れて……」
「いきなり現れたのはそっちだっつの……。まぁ良いや」
言って、小野寺は扉から出て廊下の闇に紛れる。わたしはその後ろをとてとて付いて問いかけた。
「どうしたの?」
「兜森の奴」
小野寺は廊下の闇の向こう側を覗きながら、抑えた声でこう言った。
「……夜中に起き上がったと思ったら、おれたち一人一人が眠ってることを確認して出て行きやがった。最近そんなのばっかでよ……。ためしに付けてみたら便所とは別の方向に歩き出してな……」
わたしは暗闇の中で目を凝らす。片方しかない目でじっと遠くを見詰めるようにしていると、暗い中に掻き消えそうにぼんやりと兜森の背中が浮かび上がる。兜森はそのまま廊下を左に曲がると、控えめに足音を響かせながら歩いていく。
「……どうしたんだろうあいつ。まさか外に抜け出すつもりか? どうやってだ? ここの窓は全部開けられないか鉄格子がはまってんぞ?」
「抜け出すつもりはないんじゃない?」
「じゃあ何のために」
「人を殺すとか」
わたしが言うと、小野寺は信じられないものを見るようにまじまじとこちらを見詰める。
「まさか」
「何も根拠なく言ってるんじゃないよ? こないだ一之宮先生を殺したのも、もしかしたらあいつかもしれないし」
「どういうことだ?」
「後で説明するよ……。っていうかほら。早く追わなくちゃ。見失っちゃう」
わたしが言うと、小野寺はあわてたように兜森の後を追って廊下の角を曲がる。兜森は宿直室の扉の前に立ち、何かを口にしたと思ったら中へと体を滑り込ませた。
「あそこって今日は誰が泊まってるんだっけ?」
「院長だよ。……あのはげ散らかした白髪のおっさんな」
「……院長先生」
あの洗面所でわたしと会って腰を抜かすほど怖がっていた、ちょっとなさけない感じのおじいさんか。わたしは思う。そう言えば目玉をえぐった時わたしの手を引いていったのもあの人だったか?
「兜森の奴……。どうしてあんなところに入るんだ? っていうかどうして入れるんだ? 院長の奴はそりゃぁ寝てるのかもしれないが。それにしたってあんなに堂々と……」
「殺されたのかもしれないね」
わたしは言った。小野寺は目を見開く。
「やめろよ縁起でもないこと……。どうして院長が死ななきゃならないんだ」
「そりゃ兜森が殺したんじゃない? それか。今から殺すか?」
「おい。待てよ」
「それか院長先生と小野寺は共犯なのかもしれないね。うん。これが一番しっくり来るよ。院長先生は大人だし、アタマの良い人だから。もしかしたら孤児院のみんなを順番に殺す作戦を練っているのかもしれないよ。一之宮先生はそれに気付いて、だから殺されちゃったのかもしれないね」
「おまえは何を言っているんだ」
「考えたんだよ」
わたしは口にする。
「あれから色々調べたり考えたりして。……一之宮先生を殺した犯人がもし孤児院の中にいるのなら、それは多分……小野寺か兜森のどっちかなんじゃないかなぁって」
「……どういうことだ?」
自分の名前を出された小野寺は、面食らったようにわたしに聞き返す。
「いやだってさ」
と、わたしは困惑する小野寺の顔を見ながら口火を切った。
「あのね。一之宮先生の頭部が発見されたのが。小野寺たちの部屋の前なんだよね?」
「そうだけど……でもそれとどう関係があるんだ?」
「だからさ。鍵、あるじゃん。一ノ宮先生の右目の中から発見された。あれ、別に院の外で先生の目に付き指す必要はないと思うんだよ。自分の部屋の鉄格子に手を突っ込んで、一ノ宮先生の目の中に突っ込めば済む話だと思うんだよね」
「バカ言え」
小野寺は肩をすくめてみせて
「いくら窓から近いったって……一之宮の頭は手の届くところにはなかったよ。ざっと一メートル以上、二メートル近くはあったんじゃねーの? ゴムゴム人間じゃないんだからさ」
「別に。一之宮先生の頭が発見された位置にある必要はないじゃん」
わたしは言う。小野寺は興味深そうにこちらを覗き込む。
「どういうことだ?」
「だってさ。人間の頭って、男の子の力で引っ張り上げられないほど重たいもの? 髪の毛に釣り糸でも巻いて鉄格子に引っ掛けて、周りが寝てるの確認してから引っ張りあげれば良いじゃない。鍵はちゃんと密室になるように閉めておいてから、一之宮先生の右目にぐにょって突っ込んでさ、後は紐をはずして投げられるところまで投げるとか、棒か何かで押しやるとかすれば良い話だし」
わたしが言うと、小野寺はしばし検討するように顎に手をやる。それから苦渋を浮かべたような、認めたくないといわんばかりの口調になって
「そんなことしたらあちこち血まみれになっちまうだろ」
といった。わたしはすぐに反論する。
「ビニール袋にでもいれとけば良いじゃない。袋のほうは後から紐で回収できるし、中の顔はぐちゃぐちゃになっちゃうけど、切り取られた人の頭がどろどろなのは不自然なことでもなんでもないよ」
「バレたらどうすんだんなことして」
「ちっちゃい子たちは夜中はきっとぐっすりでしょ? 君だってそうだっただろうし。不安なら睡眠薬か何か飲ませたら良いじゃない。だいたい何のリスクも犯さずに殺人しようっていうのがおかしな話だと思わない?」
小野寺はそこで眉を顰めて黙り込む。それから唇を歪めて見せて
「確かにそうだ。まったくそのとおり、違いない」
どこか引きつった笑みを浮かべてそう言った。
「で。その兜森は今、中で院長を絞め殺していると?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしかしたら他に理由があるのかもしれないし、それは開けてみなくちゃ分からないよ」
言ってわたしは宿直室の部屋の扉に手をかける。小野寺は目を見開いてわたしの手を取った。
「やめろよ……じゃなくてちょっとまて。危ないって、本当に兜森が殺人鬼だったらどうするつもりだよ?」
「小野寺がわたしを守る」
「保障できるかっ」
「身を挺しかばってくれたら良いだけの話だよ。振りかざされた凶刃に身を差し出して、わたしには傷一つ着けずに守り抜いてくれたら、小野寺は刺されても別に良いから」
「おまえが刺し殺されちまえっ」
「冗談だよ」
わたしは小野寺に向けてくすくすと笑う。
「大丈夫。なんとかなるなんとかなる。兜森なんて怖くない怖くない。おばけがでるよりずっとマシだよ」
「おばけっておまえ……。まぁでも確かに。おまえがいたらなんだかんだ、何とかなりそうな気がしないでもないな。……貸してみろ」
言って小野寺はわたしから扉の取っ手を奪い取る。それから後ろに隠れることを促すみたいに手を振った。それを受けてわたしは小野寺の背後に回る。小野寺は深呼吸をして、覚悟を決めたみたいに扉を開ける。
小野寺は不気味そうに顔を顰めて、それから躊躇するように一歩、踏み込んだ。
宿直室は畳を六枚ほど並べた粗末な空間で、棚の上には急須とテレビ意外にはほとんど何もおかれていない。中央には大きな白い布団が置かれていて、その中から真っ黒い毛がいくつも生えた男の足が四本ほど飛び出して生えていた。
「……へ?」
暗闇の中、小野寺が呆けたような顔で言う。間抜けみたいにしらけた小野寺がまじまじと見詰めるのは布団の中で体を絡ませる二人の男。裸の肩をすり酔わせる院長と兜森で、目が点になった小野寺はうろたえたようにこう言った。
「おまえら……何やってるんだよ?」
顔で、わたしと小野寺の顔を交互に見詰めると、それから何か言い訳をしたそうに正しくない日本語を発し始める。
「小野寺」
わたしは言った。
「お楽しみを邪魔しちゃ悪いよ。帰ろう」
「いやいやいやいやいや」
小野寺は目を回しながら両手をぶんぶんと振り回す。それから兜森と院長を同時に指差すと、顔を赤くしたり青くしたりしながらうろたえた声でわめく。
「コイツら何してんの? どういうこと? 何が起こってるの? 訳わかんねぇ。つまりなんだ、この院長ってのはつまり……」
「違うぞ。正志くん」
院長は混乱した声で騒ぐ。
「これはだなその……。兜森くんが夜不安で眠れないというので、わたしが一緒に眠ってあげていただけだ。君たちの誤解しているようなことは決してない」
「じゃあちょっと見せて」
わたしは兜森と院長を覆っている大きな布団に手をかけて、咄嗟に何の反応もできない二人を無視してそれをひっぺかす。一糸纏わぬ二人の素肌がわたしの目の前に出現する。決定だ。
「ねぇ小野寺……。あれってあんなになるの? かたっぽは縮み上がってるけど、かたっぽはなんか……」
「見るなっ。見んで良いっ。おいてめぇらすぐに隠せっ」
言って小野寺はわたしの両目を塞いで遠ざける。わたしの目はかたっぽしか見られないのに無駄なことだと思う。
「おまえらな……。っていうか兜森何この期に及んでハードビート下半身なんだよっ? 最後に残ってた誤解の望みが絶たれたわっ。どうしてくれる」
「しょうがないだろ若いんだからっ」
兜森は顔を真っ赤にして股間に手をやる。それから気にするようにわたしの方に視線をやったと思うと、恥ずかしがるように布団の中に引っ込んだ。
わたしは小野寺の手から逃れて院長と兜森の二人を見やる。
「……つまりこういうこと?」
問い詰めるようにわたしが言うと、院長は顔を青くして後ろにのけぞった。
「院長は施設の子供、それも男の子に手をつけるような変態で。自分が宿直の当番になるたびに兜森と行為におよんでたんだけど、それを一之宮先生に見付かっちゃったんで、兜森と共謀して殺しちゃったっていう……」
「何を言っているんだ」
院長は蒼白な顔でそう言った。本当に何がなんだか分からないといった表情。わたしは自分の推測が外れていたんじゃないかと思ってがっかりする。さっきのトリックも本当は院長が考えたものなんじゃないかと思ったんだけれど。
「違う。違うんだっ」
布団の中から顔を出し、兜森が言う。
「俺は別にカワハラさんに無理矢理こういうことをされたんじゃないっ。これはむしろ俺の方が望んでいるんだ。俺はカワハラさんにこうしてもらわないともうダメで……」
「いいから黙れ」
小野寺はそう言って、わたしの頭をぽかりと殴る。
なんでわたし?
「おまえや院長の様子が最近変だってのは分かってたよ……。だけどこんな事情があったなんてな。別にどうこうしようって訳じゃない。院長が無理矢理おまえにそういうことをしてるんじゃなければ、別におれはそれでかまわないよ」
溜息でも尽きたそうに小野寺が言う。兜森は両手を膝の辺りにおいて、目を閉じて思い切り頭を下げた。
「すまんっ。小野寺」
歯を食いしばって兜森は言う。
「今までおまえにつらく当たってすまなかった。全部謝るし、おまえの言うことは難でも聞いてやってよい。……だから。だからカワハラさんのことは全部黙っていてくれないか?」
「かまわねぇよ……。ただしこれは貸しだかんな。院長も」
小野寺が言うと院長はぱくぱくと口を開閉してからうなずいた。わたしは布団の上を乗り越えて、院長の前で座り込み、視線を合わせて彼に対して詰問する。
「ねぇ院長先生」
わたしが目の前に来たことで、院長先生は再び顔を青くした。泡でも吹きそうな態度で背中を倒してわたしから逃れると、何も言うことができないでわたしの顔をじっと見詰める。
「本当に一之宮先生を殺してないの? 一之宮先生が殺されたって言うあの日、あなたも一緒に宿直として残っていたんですよね? 一之宮先生と一緒に外に出て、外で殺して鍵は兜森に処分させたんじゃないの? 先生にはそれをするだけの理由があると思うし、先生ならそれができると思うんですが……」
「やめろ……やめてくれ……」
院長先生は情けない声をあげてぶるぶると震える。顔に皺を刻んだ大きな大人が、小動物みたいに怯えて震える様子はなんだかおかしかった。
「おいやめろ。カワハラさんはおまえが怖いんだ」
兜森が眉を顰めて強い語気で言った。
どういうこと? わたしが首をかしげると、院長先生は喉から絞り出すように口にする。
「……離れないんだ」
「何が?」
「あの日……君は部屋で自分の目玉をえぐっていた……。その時の光景が、目玉のえぐれた君の顔が。……表情が。まぶたに浮かんで仕方がない……。怖いんだ。お願いだから離れてくれ……頼む」
院長先生が懇願するようにそう言ってくるので、わたしはなんだかしらけたような気持ちになった。
「おいやめろ」
と、小野寺はわたしの首根っこを引き寄せる。わたしは転げそうになりながら引っ張られた。
「おまえがこの二人が怪しくて仕方がないってんなら、警察にでも何でも訴えろ。今はそこまで追い詰めるなよ」
「だって」
わたしは唇を尖らせる。
「きっとそうだもん。きっとこの二人のどっちかが一之宮先生を……。だからわたし」
だから……?
だったらどうするというのだ。わたしは自分の行為に疑問を覚えた。この二人のどちらか、あるいは両方が本当に一之宮先生を殺害したのだとして、わたしはこの二人をどうしてくれるつもりなのか。
「そんなのは簡単だよ」
と、不意にわたしの背後から声がかかる。
わたしは振り返る。そこには突如何の脈絡もなく振り返ったわたしをいぶかしむ小野寺以外、何の人影もない。声は何もないところから直接わたしのアタマの中に響いている。
「この二人を殺して首を切り落として、お互いのチンポコ切り離して別々の目ん玉の中に放り込んでやれば良いんだ。……そうすれば一之宮先生の復讐ができる。そうだろう?」
わたしはアタマの中の声に引っ張られるようにして足元の二人に視線を向ける。秘密が発覚して哀れにも身を寄せ合っている小さな二人。片手を伸ばせば絞め殺すのは本当に本当に簡単そうな二人。
……本当にこの二人が一之宮先生を殺した犯人だというのなら、わたしはこの二人を殺さなければならないのだろうか?
分からない。
「どうしたんだ信条。しっかりしろよ」
と、小野寺が背後から手を肩に置いて引き寄せてくる。
「大丈夫か? いつもの三倍は変だぞおまえ……。いやまぁ確かにおれだってそんな冷静な訳じゃないけどな。またおかしくなるつもりか?」
「……また?」
「一之宮が死んだ次の日みたいにさ。そんな顔してたぞ、おまえ」
言って、小野寺は足元の二人に労わるような目を向ける。
「……おまえらのこと、どうしたら良いのかおれには分からん。だけれど安易に言いふらしたりはしねぇから」
「すまない正志くん……恩に着る……」
院長は震えた体で、しかししっかりと頭を下げる。
「へへへっ」
そこで小野寺は奸悪な顔で微笑んでみせる。
「まあ悪戯に触れ回ったりしないってだけだからな……。まぁ、そういうこった」
言って、小野寺はわたしの首を品づかんで宿直室から出て行った。
「いたいっ。いたいって」
強い力でわたしを引っ張り、乱暴に外につまみ出した小野寺に抗議する。
「離してよ」
「おっと悪かった」
小野寺はそこでしおらしくわたしを解放する。わたしは眉を顰めて小野寺の方を睨みつける。
「そんな顔するなって……。あの二人が犯人かどうかなんて分からないだろ?」
「そんなことないよ。だって……」
「良く考えてみろよ」
小野寺はそこで落ち着いた様子で口にする。
「そもそもだな。さっきおまえが話したトリック……あれっておれや兜森のような、一之宮の頭が落ちていた傍の部屋にいる奴しかできないことだと思うか?」
わたしは小野寺の言い分が分からない。
「殺人にはリスクが付きまとうって言ったな? だったらちょっとばかし危険を冒せば、別におれや兜森でなくても同じことはできるんだよ。眠っているおれたちの部屋に忍び込んで、窓の傍に落ちている一之宮の頭を引き寄せればな。おれたちに疑いの目を向けて一石二鳥って訳だ」
「できる訳ないじゃんそんなの……だって。……?」
当然のことのようにそういう小野寺に、わたしはふとした引っ掛かりを覚える。
「……あ」
そこでわたしは大切なことを思い出した。そうだ。小野寺や兜森の部屋には鍵は閉まらないんだ。両側から鍵がかかるのはわたしの寝起きしている狭い個室だけ。他は簡単に忍び込んでしまえるんだ。うっかりしてとんだ勘違いだ。
わたしが納得したのを見て取って、小野寺は鼻を鳴らしてみせる。
「もっとも。だからって兜森の目がなくなった訳じゃない。あいつらがあんなふうに何も分からないって顔をしていたのも、ただの演技じゃないとは言いがたいしな。……あいつらじゃなくてもできるってだけ」
わたしは酷く残念に思った。せっかく犯人らしき二人を特定することができたと思ったのに……。まったく退屈だ。わたしはがっかりとして眉を顰める。
「まぁそう言うな」
小野寺はそこで小さく微笑んだ。
「孤児院の中からでも犯行が可能だって分かっただけでもすごいだろ? 問題はそれを誰が実行したのかってだけだ。たいしたもんだよ、おまえ」
そう言ってあやすかのように頭に手を置いてくる。わたしはむずがゆい感じがしてそれを払いのける。小野寺はきひひと屈託なく笑ってみせる。わたしは頬を膨らませて小野寺から視線を逸らし、そしてふと違和感を覚えた。
「あれ?」
「どうした?」
「わたし……何しにおきてきたんだっけ……。……しまった」
言って、わたしは院のトイレに向かって走りこんでいく。
小野寺は愉快そうに笑う。トイレに入ると扉の前で気配を感じたので、体全体で力を込めて扉を強く開いてみせる。
耳を済ませていた変態が、鼻を抑えて目の前で倒れているのをみる。わたしはそれを指差して笑ってから扉を閉じた。
「かかかかかっ。随分と愉快なことがあったんだなっ。かかかかかっ」
あれから小野寺と別れ、自分の部屋に戻ってきたところで天使が笑った。
「僕っちも流石に予想外だったよ。かかかかかっ。とんでもないものをみたもんだっ、まさかあの兜森が院長先生とラヴだなんてな」
「黙ってよ」
わたしは足元の天使を蹴り飛ばした。
ぐったりとしてタオルにくるまれた天使はそのまま壁にぶつかり、べちゃりと音を立てて床に転がる。
「えぇえ? どうしたのどうしたのご機嫌斜めヂャンっ。小野寺に言い含められたのがそんなに悔しかったの?」
「悔しくないもん」
わたしは言った。
「トイレの扉でぶったたいたから、もう気が済んだし」
「そうかそうかそうか。かかかかかっ。だったらなんだ、自分が犯人だと睨んでたのが違うと分かって不満なわけか?」
カラスがそう言って笑うので、わたしは眉を顰めて考える。
どうなのだろう?
確かにわたしは院の中に犯人がいるなら兜森だと思った。だけれど彼一人でそれを達成するとはどうしても思えなかった。まだしも小野寺の方がありそうだとも感じていたし、そういうところに院長先生が絡んで来た時は喜びもした。きっとこの二人が犯人に違いないと、強い核心を覚えたものだけれども。
あの二人じゃないとすると。
「ねぇ天使、お願いがあるんだけれど」
意を決してわたしは天使に尋ねる。天使はぐったりと床に伏し、哄笑しながら答える。
「おめーのお願いなら聞かない訳にゃーいかねーよ。それが仕事だからなっ。かかかかっ。いったいなんだなんだ? 僕っちはおめーの為に何をすれば良い訳よ?」
「あいつを呼んで」
わたしは言った。
「春崎日向をナイフで刺したっていう奴を、ここに呼んできて。悪魔にはできなくとも、きっとあなたにはできるんでしょう?」
「もちろんできるに決まってるっ」
天使はからからという。
「悪魔の奴は僕っちのことバカにしてるみたいだが、僕っちはこれでもおめーの救済人格だからなっ。かかかかっ。それくらいのことは朝飯前よ。合点承知、少し待ってろ」
そういうのでわたしは明かりの消えた部屋の中、天使がそいつを連れてくるのをベッドに腰掛けて待ち続ける。
しばらくすると、薄い闇の中にぼんやりと人の形をしたシルエットが浮かび上がってくる。
それは道化師のような格好をした小さな男の子で、真っ白く塗られた顔にはいくつも殴られたような傷跡が迸っていて、右目は抉り出したように潰れてどろどろの血液を吐き出していた。全身はぼろぼろであちこち引き攣れた布のように垂れ下がっていて、両足は地面から浮いて力なく揺れている。両腕を鎖で引っ張られ、天井から吊り下げられているのだ。わたしはその哀れな人物に問いかけた。
「あなたは誰?」
そいつはだらりと折れ曲がった首をこちらに向けて、生気のない目でこう言った。
「ボクはコドクだ」
「コドクさん?」
「そうさ。一人ぼっちの孤独だよ。いつも君の中にいて、君と同じ景色を見ている。こうして吊り下げられた状態でね。もう二度と解き放たれることはないだろう」
「どうして?」
「君がボクを封じ込めたんじゃないか。春崎日向を突き刺してやった時にね」
孤独は引きつったような笑みを浮かべると、そのまま陰鬱な顔で話し続ける。
「今では君に声をかけてやることしかできない。とは言えボクはそこの天使の次に強く、誰より一番君に近い。その気になれば少しの間だけ君を操ることはできるよ……。そして、誰もそれを止められやしない」
孤独を繋いでいる二本の鎖が揺れる。孤独はこうしている間にも、どうにか鎖から解き放たれようと、縛られた腕を落ち着かなく動かしている。硬い鎖に引き立てられた爪の何枚かは剥がれ落ちていて、右手の人差し指は千切りとられたように欠落していた。
「あなたが妹を殺したの?」
「そうだよ。あいつを窓から放り投げたのは、ボクだ」
「じゃあ春崎日向も?」
「それはさっき言った。ちなみに君のベッドの傍にあるナイフを拾ってきたのもボクさ」
「どうしてそんなことをしたの?」
わたしが訪ねると、孤独はどんよりとした目で答えた。
「大好きだったからさ」
かすかな笑い声をあげる。孤独は今にも消え入りそうな声で
「君は……ボクはあの二人のことが好きで、好きで、必要で必要で仕方がなかったんだ。それがいなくなったら、君とボクはこの世界で生きていく支えを失うってくらいにね」
そこで、孤独は薄く閉じられかけた左目を見開く。
あらわになったどす黒いその目は、ぞっとするほどおぞましい狂気に満ちていた。
「だから。殺すんだ」
「そう」
わたしは退屈そうにそういった。孤独は血走った目をこちらに向けて
「あの子たちは本当に愛らしくて、優しくて、いとおしかったんだ。イズミは本当に本当に小さな人形みたいで、イカれた両親に絵を描かされながらなぶられる君の日常に、素晴らしい生きがいをくれた。君があやすとイズミは天使のような表情で笑った。君は自分はこの子の為に生き、この子を守り抜いていこうと心から誓った。だから殺した」
黒々とした眼が真っ赤な左目の中でこぼれ落ちそうにうごめく。とめどなく溢れる邪悪が真っ黒な光となって、孤独の目の中からどろどろと現れる。
「なんで」
わたしは尋ねる。
「なんで好きだから殺すの? 好きなのに殺すの?」
すると、孤独は途端にどんよりと、今にも泣きそうな元気のない顔になる。
「だって。気持ち悪いじゃないかよぅ」
孤独は絞り出すような声で言う。
「誰かを好きになるのって……。まるで自分の大切なものが吸われていくみたいで……怖いんだ。ボクは。だから殺すんだ」
「そう」
わたしは答える。
「……一之宮先生を殺したのはあなた?」
孤独はそこで目を閉じて、今にもぽろりと落ちてしまいそうな首を否定するように左右に振った。
「あれはボクじゃない」
孤独はいう。
「あいつはそこまで好きじゃない。あいつは親切な奴だった。あいつは好ましい奴だった。あいつがいなくなったら君は悲しむし、だから泣き虫の奴が君の代わりに嘆き悲しみ、塞ぎこんでくれた。それだけだ。その程度の奴だ。だから、ボクはあいつを殺さなくて済んだ」
「あらそう」
わたしは部屋の隅っこまで歩き、冷たくなった天使の首根っこを掴んで孤独の前に行く。
「あなたは、一之宮先生を殺していないんだね?」
孤独はどんよりとした目でうなずいた。
「ありがとう。それじゃあ。さようなら」
言って、わたしは首根っこを掴んだカラスの黒いくちばしを、孤独の頭に向かって思い切り突き立てる。
ぐしゃりと小気味良い音がして、カラスのくちばしが孤独の頭に深々と突き刺さる。ぐちゃぐちゃとした感触。さらに力を込めて突き立てると、食い込んだカラスのくちばしが孤独の眉間の辺りからずぶずぶ生えて来た。
「かかかかかかっ。かかかかかかっ」
孤独の頭を貫いて、カラスは心底愉快そうに笑う。
「おめーっ。おめー良くやったよおめーっ。かかかかかかっ。一番厄介なのが消えたっ。これで僕っちももうちょっとは楽になるなっ。かかかかかっ」
わたしは天使のくちばしを孤独から抜き去る。冷たいカラスの首根っこを持って窓際に向かうと、鉄格子をはずしてからすの頭を外に放り投げる。
それからベッドに潜り込み、わたしは暗闇の中で目を閉じた。




