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二日おき六時に更新
小野寺は食事が終わった後もわたしを台所の机の前に残す。椅子に座って両足をぶらぶらとさせていると、熱い湯気を伴った二杯のコーヒーを手にして小野寺が登場し、そのうちの片方とミルクと砂糖をわたしの目の前に置く。
「ジュースが良い」
わたしはわがままをいう。小野寺はそっけない声で「我慢しろ」といってから、自分のマグカップに苦そうな顔で手を付ける。
「学校行かなくて良いの?」
そう言ってわたしは部屋に備えられた時計を見やる。八時三十分。いつもならもうとっくに出かけている時間だった。
「今日は日曜日だろ」
「そうだっけ?」
「ああ。一之宮の死体が発見されたのが昨日の土曜日の朝。春崎は寝込むし西倉は泣き出すし、警察は来るしで大変だったぞ。まだ学校にでも行っていた方がマシだってもんだ」
ようやく落ち着いたのが今朝だ、と小野寺は両足をくんでカップに口をつける。さも自分こそが事態を収拾し一仕事こなした後だ、といわんばかりの尊大な態度だ。
「そんなことがあったの?」
「あったのさ。……おまえは覚えていないみたいだがな。ま、あの時のおまえは様子がおかしかったし。仕方がないことなのかもしれない」
「どういうこと?」
カップになみなみと角砂糖を放り込みながらわたしは言う。小野寺は一度複雑な表情を浮かべて見せて
「いや。様子がおかしいってか態度がおかしいってか。一番違ったのは性格なんだろうけど。とにかく変だったんだよ。ただでさえ変だけどな」
失敬な。わたしは角砂糖の便の底を指で拭って、付着した砂糖をぺろりとなめる。
「よくあることだって施設の奴らは言ってたけど。春崎の奴が何かおもしろいこと言ってたぞ?」
「誰それ?」
わたしが首をかしげると、小野寺は目を丸くして見せて
「マジで? おまえの隣の隣の部屋の女だよ、酒々井と山川の同室の」
「……知らない」
「そいつの言っていた曰く。おまえは自分の担当職員の一之宮の死にショックを受けた。多重人格をわずらったおまえは、その時のショックを一手に引き受けてくれる別の人格を作り出した。それが昨日あらわれたあの無口で、不気味な含み笑いを浮かべる妙な人格なんだってな。……何も本気で言ってるんじゃないぜ?」
おもしろがるように言ってから、小野寺は保障するようにそう口にする。わたしは程好く甘くなったカップに口をつけた。
びっくりするほど熱い。すぐにカップを机に戻す。
「ふぅん」
「どう思う?」
「どう思うって」
「想像力豊かだろ? おれはビリー・ミリガン思い出したね。あれは最高のノンフィクションだった」
「何それ知らない」
「今度貸してやるよ……。最高おもしろいからよ」
そう言って小野寺は頬を緩ませ、屈託のない少年の笑みを浮かべて問いかける。
「アレ。どうだった?」
「アレって?」
「こないだ貸した本だよ。もう読んだろ? 枕元においてあったし」
そういうのでわたしは思い出す。そう言えばここしばらく枕元にはあの本が置かれてあったなと考える。いくつかの人格障害と大きなナイフと残酷な心を持つ一人の男が、色んな場所で女性をいじめ殺して回るような内容だったように思う。
「ああ」
あれは小野寺から貸されたものだったのか? 思い出せない。結構前から目の前のぱんつ学者とはやり取りがあったらしいことが分かる。思えば、わたしはあの本で拷問される小さな女の子を読んで、自分の目をえぐり取ったんだった。わたしは小野寺にうなずいてみせる。
「どうだった?」
「ふつうだった。良く分からなかった」
「なんだその感想」
小野寺はつまらなさそうに眉を顰める。
「おまえならあのよさを理解できると思ったのにな」
唇を尖らせる。なんだかすごく不満そうだ。
「漫画の方が良いよ。……わたし字ぃ読むの苦手だし」
「その割には一冊も持ってねぇじゃねぇか。……まぁでも、一之宮から小遣いもらってねぇんだろうなぁ。おれもそうだし。だったら何か貸してやるよ」
さて。と熱いコーヒーを無理矢理飲み干したみたいに机に置いて、小野寺は少し真剣な目になってそう言った。
「一之宮が死んだ件についてだ」
本題を切り出すようにそう言われ、わたしは首を傾げてみせる。目を丸くするわたしに小野寺は隠しきれない興奮を浮かべ、少年みたいな目をしてこちらに問いかけてくる。
「あいつが死んだことについて。おまえは何も覚えてないんだよな?」
「うん」
「だったら説明してやる。……良く聞けよ」
そう言って小野寺はさも楽しそうに目を輝かせる。
「おまえはやたら落ち着いているから、大丈夫だと思ってちょっとグロい話もする。重要な証言を持っている振りをして色んな警察から聞き出した、スペシャルレアな情報だ。心して聞け。そしてマックス真剣に考えろ」
どうしてわたしがそんなスペシャルレアな情報を聞かされ、マックス真剣に考えなければならないのか分からなかったが、小野寺がやけに楽しそうなので喋らせてあげることにする。小野寺は探偵小説のキャラクターのように気障な顔で人差し指を立てて見せ
「一之宮の死亡推定時刻は昨日の午前零時から三時頃。死体は首が切り取られた状態で発見された。猟奇殺人といえそうだな」
「りょーき殺人」
「被害者の体は執拗にナイフで切り裂かれていて、犯人は被害者に恨みを持つ人物である可能性が高いんだそうだ。凶器となった刃物は大降りなナイフ、凶器はまだ発見されていないということだぞ」
「ふうん」
わたしは頬杖をついてあくびをする。それからさめ始めたカップを持ち上げて口に含む。甘い泥水みたいな味がする。やっぱりジュースが良い。そう思っていると小野寺が不満そうな顔をして
「真剣に聞けよ」
「……ごめん。えぇと。チンパンジーは誰だ、みたいな話なんだよね?」
「チンパンジー?」
「ごめん。間違えた。真犯人」
そういうと小野寺は薄く笑って見せて
「そうだな。ちなみにこれは重要な情報なんだけど……。部屋で寝ていたおれたちの内の一人が、窓から庭を歩く、背の低い子供みたいな影を目撃しているらしい」
なにそれ? 背の低い子供?
背の低いといっても色々だ。わたしは目の前の小野寺の姿を見やる。成長期を迎えた男の子である彼の背はわたしよりもずっと高い。百六十センチくらいはあるだろう。小さな子供と聞いて連想するのは難しい。対してわたしはそれより頭ひとつ分は小さい。年下の子ならもっと小さいだろう。
「おれたちの内の誰かってことだ。ついでに言うと。おれと同室の兜森の奴の様子も最近おかしいし。夜中にどっか部屋の外出掛けているみたいなんだよな……。まぁそれはともかく。あの一之宮の奴のこと、殺したいほど恨んでる奴は少なくないだろうよ」
「どういうこと?」
わたしは首を傾げてみせる。あの人はすごく優しい人に思われた。確かにちょっと変わってはいたと思うけれど……。目を丸くするわたしに小野寺は険しい顔をしてみせる。
「……そういやおまえは結構気に入られてたよなぁ。いやまぁ。おれもそこまで憎んじゃねぇよ、あいつのこと。でもちょっとばかし危ない奴だとは思ってる」
「……?」
「体罰っていうのかなぁ」
小野寺は溜息でも尽きたそうに口にする。
「あいつ。普段優しい感じだし? おれらの為にやたら働くし? だけれどちょっとヒステリックなとこあるじゃん? 初めて来た時おれ驚いたよ、机に座って勉強してる女の子をさ、辞書の角っこで執拗に殴りつけてるの。……女の子泣いててさ、一之宮は殴りつけながら勉強をしろしろって……。後はメシん時おかず残す奴とかさ、絶対ゆるさねぇよアイツ」
「そんなことで?」
「やることおかしいんだよ。アタマから血ぃでてもすっげぇ殴るもん。おれだって何回殺されかけたことか……。それも殴る奴と殴らない奴の線引きが妙に明確でよ。おまえはしばかれなかったのか? 目ぇ抉ってからは流石に危ないって自重したのかもしれないけど……ていうか」
と、小野寺は眉を顰めて見せて
「そもそもおかしいんだよ、この孤児院? 思わないか?」
「それは、ちょっと」
小野寺に対する酷いいじめが黙認されていたり。いじめている子供たちも、少しばかり荒んでいるようにも見えた。
「だよな。院長がおれたちの養育費から金を抜いてるって噂もある。つーかおまえの目のことにしたってよ。おかしいと思わない? ふつうそんなもん抉り取ったらさ、包帯だけじゃすまさねぇだろ。病院連れて行くのは良いとして……ふつう入院とか通院とかあるはずじゃん? まともな医者がそうさせない訳ないんだよ、それを施設側が拒んでる。おかしいじゃん」
そういうものなんだろうか? わたしは考える。わたしは空洞と貸した眼窩の上に指を押し当ててみる。まだ少し傷が痛い、何かとろとろしたものが包帯の中を覆って痒く疼く。ぽっかりとした穴の感覚を指でもてあそんでいると、小野寺が心配した風に
「やめろよ」
眉を顰めて手を伸ばす。わたしは自分の目から手を下ろす。
「膿んでるんじゃねぇの、それ? 警察の連中もさ、おれたちに聞いてきたよ。職員の先生たちに何か酷いことされていませんかぁってさ」
小野寺はぼそぼそと小声でそう耳打ちし、それから息を吐いて背もたれに体を預ける。わたしはこれまでのことを思い出して少し考える。
確かにおかしいとは思っていた。
「みんなカラス白いっていうしね」
わたしは言った。
「それは当たり前だろ。おまえがおかしいんだよ」
小野寺は取り付く島もなく否定する。わたしはむっと眉を顰める。
「今度図鑑で確認しとけ……。本気で言ってるのだとしたら、おもしろいよな。さておき、動機が怨恨ならおれは施設内の人間が犯人じゃないかと考えた」
小野寺は流暢にそう語ってみせる。ドーキ? エンコン? 分からない言葉が出たけれど問いかけたりはしない。
「ぶっちゃけここだとたまぁにあるんだよ。施設の子供が職員を殴ったりするのは……。一之宮が死んだって聞いた時、おれはとうとうやっちまったんだなって思ったもんさ」
「そうじゃないの?」
わたしは首を傾ける。小野寺はそこで神妙な顔で
「違うんだよ」
と言った。
「そもそもが不可能なんだ。……知ってるだろ? 一之宮が死んだのは夜中の零時とかその辺だ。院長と一緒に宿直してたあいつは出入り口にちゃんと鍵をかけてから出かけてる。あれは鍵がかかったら内側からも外側からも開かない。おれたちは全員中で寝ていたんだ、犯行は不可能って訳さ」
「院長先生はどうしてたの?」
「部屋で寝てたって……。それから鍵はちゃんと一之宮から発見されてる。内部での犯行は不可能ってさ」
「窓から出たら良いじゃん」
「アホ。知ってるだろ、おれたちの部屋の窓は全部、おれたちが外に出て行けないように鉄格子がはまってる。犯行が夜中である以上、中にいたおれたちに一之宮を殺すことはできないんだよ」
内側から開かない扉に、窓の鉄格子。まるでわたしたちを中に閉じ込めているみたいだとわたしは思った。わたしに至っては学校にすら通わせてもらっていないから、完全に中で飼われているみたいな状態だ。個室で、そこにも鍵あるし。
「じゃー誰かわかんないじゃん」
「いや……。実はおれたちが知らされていないってだけで、院長が合鍵持ってたっていうのもあるだろ? つーかおれはそれが一番濃厚だと思ってる」
何それつまんない。わたしは思った。そしてそんな風に思ってはじめて気付く。わたしはなんだかんだ小野寺の話をおもしろく、楽しみに聞いていたらしい。
彼がものすごく活き活きと話してくれるというのもあるのだろう。ぱんつ学者の癖に探偵みたいだ。わたしは彼に触発されてマックス真剣に事件について考えてみる。
わたしたちのうちの誰もが犯人でないとする根拠は一つ。外で一之宮の体から発見された鍵の存在だ。つまりわたしたち生徒は全員が施設という密室に閉じ込められていたということになる。
なんだかミステリ小説みたいになってきた。わたしは考える。思えば一之宮先生が殺されていた施設の庭と、わたしたちが閉じ込められた施設内とどっちが密室かなんて分かりやしない。内と外なんて主観でしか決められないのだ、わたしたちからしてみればこの施設の中こそが外側で、一之宮先生はその内部の密室である施設の庭で殺されたという風にも言える。
コナンくん風に考えるならば、ここはどうやって密室を崩すかというのがポイントだろう。わたしはアタマの中にコナンくんの予告編の後に流れるネクスト・コナンズ・ヒントの画面を展開する。その画面では施設の鍵がちかちかと点滅して表示されている。わたしは小野寺に尋ねる。
「鍵はどこで見付かったの? 一之宮先生のポケット?」
尋ねるわたしに小野寺は一瞬、神妙な顔で目を伏せる。それから首をかしげるわたしに向けて、どこか躊躇するようによどんだ声でこう口にする。
「ちょっとグロいから言うの迷ったんだけど……。おまえなら大丈夫だよな?」
それから小野寺はわたしの頭に巻かれた包帯を指差してみせて、次に自分の右目を強く指差す。
「鍵は一之宮の切り取られた頭部に刺さっていたんだ。……えぐいだろ? これがこの事件の猟奇性を指し示す一番の象徴さ」
それからピストルを作るように人差し指と中指を合わせて見せて、ぐさり、それを差し込むように自分の目に突きつけてみせる。わたしは鍵のつきたった一之宮先生の頭を想像し、それが地面に無造作に転がっているのを想像し、その滑稽さに少しだけ笑う。
雨が振っている。
べしゃべしゃでぐしょぐしょな地面の上をざくざく歩く。霧雨はすごく濃くてわたしは前を見ることすらままならない。アタマを下げて足元を確認しながら歩く。
頬を雨粒が滴って口元を通過して足に落ちる。頬に付着した雨粒の一つを舌で舐めとってみる。かすかに甘い。小野寺が入れてくれた泥水コーヒーよりはいくらか質が良いだろう。思いながらわたしは一之宮先生が殺されていた地点まで足を進める。
警察のネットが張られているのでそこを踏み越える。もういったんの調査は済んでいるらしく刑事らしき人間は一人もいない。けれど一之宮先生の死体はしっかり回収されていて、代わりに刑事ドラマで良く見るような人型のやつが鎮座していた。
一之宮先生が死んでいたのは庭の滑り台の近くの場所で、位置と条件からして滑り台には大量の血がついていたことが考えられる。青い滑り台にべったり張り付いた赤色の血。遊具と死体。わたしはその情景を思い浮かべておもしろがる。
次にわたしは一之宮先生の頭部が落ちていた場所を探し始める。靴の中まで雨粒でびっしょりで、歩くたびにたぷんたぷんと水のなる音が聞こえてくるよう。わたしは空を見上げる。降り注ぐ雨はやりのごとくわたしの左の眼窩に降り注いでくる。片目しかないと、雨が降っている距離が認識できないため、雨粒はほとんど不意打ちみたいにわたしの顔に降りそ沿いだ。
頭上で真っ黒な点が出現する。
なんだろうと思っていると、それは途端に大きくなってわたしの視界を覆い尽くした
「かかかかかっ。ヒサシブリっ、また会ったなっ」
冷たく濡れそぼったそれはわたしの顔に飛び込んでくると、甲高い声でそう叫んだ。わたしはその冷たさに腕を振り回して払いのける。ばたばたと羽ばたくような音がして、わたしの顔に飛び込んできたカラスはわたしの足元に飛び移る。
「よぅっ」
やけに陽気にそういうので、わたしは首をかしげてそいつに尋ねる。
「あんた誰?」
「あぁんん? つれねぇなぁおめー。僕様だよ僕様。覚えてねーのか?」
そう言ってカラスはばたばたと羽を広げて自己主張を始める。わたしはカラスの視線まで座り込んでそいつの外見をまじまじと見詰める。
なんか違う。
「天使さん?」
そういうとカラスは肯定したようにかぁかぁと鳴く。
「なんか違わない? あなたもうちょっと大きかったし、くちばしもそんな捻じ曲がってなかったと思うよ。羽の形だって」
「かかかかかっ。そりゃそうだ」
と、カラスはバカにしたように哄笑する。
「同じカラスが何度もおまえの前に現れるかっつの。おめーがカラス見て僕だと認識すりゃいーんだよ。かかかかっ」
そう言って飛びあがったカラスはわたしの眉間に向けて何度もくちばしを突き立てる。「いたいっ。痛いよっ」言ってわたしはカラスの羽を捕まえて遠ざける。
カラスは全身を使ってばたばたと抵抗を始める。わたしはそいつを解放せずに尋ねた。
「どこ行ってたの?」
「どこ行ってたかって? おめーのかーちゃん撃退してからはずぅっと塵漁りだよ。おめーが窓も開けてくれねーからよ。外はさみーぜ。かかかかっ」
そういいながらカラスはわたしの手の中で大暴れし、捻じ曲がったくちばしをわたしに向けて引っ掛けてくる。わたしはカラスの黒い体をぎゅっと両側から圧迫してそれを黙らせる。ぐえっ、とガラスは苦しそうにうめいて動かなくなる。
「あががががっ。……そうそう。悪魔の奴に会ったぜ。元気にしてたよ」
と、カラスは自分は元気じゃなさそうな声で口にする。
「早くおめーのところに戻ってやれってよ……。かかかかっ。こんなカラスの体でどうしろていうんだよな。なぁっ」
「知らないよ」
言ってわたしはカラスを解放してやる。
ばたりと、カラスは力なく濡れそぼった地面に落下し、そのまま絡まった羽を動かしながら足だけで器用に立ち上がる。
「一之宮先生の頭が落ちてたとこ、案内して」
「合点承知っ!」
カラスは元気良くうなずいて、まったく元気じゃない足取りで歩き始める。わたしはその案内について後ろを歩く。
「ここだよここっ。ここがアイツのちょんぎられたアタマが転がってた場所っ」
カラスがくちばしで指し示して見せたのは、円形に張られた警察のネット。わたしは身を乗り出して中を確認する。円形のテープが引かれて、そこに一之宮先生の頭が転がっていたのを指し示している。
警察のネットを越えたその先には施設の外壁があって、そこから鉄格子のはまった窓が覗いている。その向こうでは明かりのついた部屋があって、中から少年の腕白そうで乱暴な笑い声がとどろいてきた。雨音で掻き消されて中で何が起こっているのかまでは聞き取れない。
「小野寺の部屋……?」
一之宮先生の頭が放り投げられていた地点は、小野寺と兜森と他数名が寝起きしている場所と隣接している。一之宮先生の頭はその窓から一メートルほど離れたところに放り投げられていたらしい。
朝起きて天気を確認する為に窓を開けた小野寺はおそらく、ここで転がっている一之宮先生の頭を見たかもしれない。いいや本人がそう言っていなかったので違うかもしれないが、しかしこの部屋にいる何者かがそれを確認したことは間違いないだろう。彼が一之宮先生の目に突き立った鍵の存在を知っているのにもうなずける。おそらく直接見た気の毒な子供がいたのだろう。
トラウマにならなければ良いが。
「おめーっ。おめーいつまでそこにいるつもりだよ?」
カラスがわたしの足元で言う。
「雨降ってんぞ? 風邪引くぞ? せめて傘くらいもってこいよ傘っ。かかかかっ」
何がかかかかなのかは分からないが、確かに若干肌寒い心地になってきたのも確かだ。でも傘なんてどこにあるのか分からないし、捜すのも面倒くさい。せめて一之宮先生がいれば出してもらえたかもしれない。
どうだろう。
わたしはずぶぬれになった砂の上に一之宮先生を想像する。あの人はわたしに優しかった。たくさん面倒を見てくれたように思う。けれど彼女が死んだと聞いてわたしはちっとも悲しくならない。溜息を吐きたくならなければ泣きたくも無い。ただそうやって泣いたりわめいたりして悲しむ行為を、わたしの知らない別の誰かに奪い取られているような、そんな奇妙な感覚だけが残る。
「かかかっ」
カラスが笑う。
何の光もこもらない目で、奸悪な声で哄笑するずぶぬれのカラスを掴みあげる。ばたばたと抵抗するそいつを羽交い絞めにして、わつぃは自分の部屋の前まで戻り、鉄格子をはずし、中に入った。
部屋の中からタオルを見つけ出す。大量の衣類の端っこに束となって積まれている。わたしはそれを拾い上げてずぶぬれのカラスの体から水滴を払ってやる。カラスは弱ったようにじっとしていた。
「そのように哀れなカラスよりも先に、まず自分の体を清めてはいかがですか?」
そういったのはベッドにしどけなく寝転んだ悪魔だった。流麗な笑みでわたしに流し目を送り、豊満な体を主張するようにベッドでごろりと転がってみせる。わたしはそれを無視してカラスの体を吹き清めると、タオルでまいてやってからその辺に転がす。
「そんなのはいくらでも代えが利きますからね……。そいつがくたばったらまた別のカラスが天使になるだけですよ」
「かかかかっ」
タオルにがんじがらめにされたカラスは転がされたまま哄笑する。
「そこの悪魔ちゃんの言うとおりだ。かまうこたない。早く体を拭いて着替えてあった隠して寝るんだな。なんなら風呂に入って来いよ、風呂だ風呂っ。あったけぇぞ。なぁ?」
わたしはべちょべちょになった服を脱ぎ捨て、いったん裸になってから次に着る服を探す。
背中に刻まれたやけどの痕を確認する。タバコの火を押し付けられたみたいな、真っ黒のぽっつんがいくつかちりばめられている。肩甲骨の両側に広がるようにいくつも配置されていて、なんだか天使の羽の痕みたいだなと感じる。
ここから羽が生えてきて飛び立てないものだろうかと妄想する。わたしは天使。だけれどわたしの天使は無様なカラスの姿で足元に転がって、今にも死にそうに衰弱している。わたしはすぐに厚めのパジャマを拾い上げて着る。
「どうぞ」
悪魔がわたしにベッドのスペースを空けてくれる。わたしは布団に潜り込む。
「捜査お疲れ様でした。何か分かることはありましたか?」
どこか嘲弄するような愉快そうな声で悪魔が言うので、わたしは布団の中から返事をする。
「何も」
「でしょね」
悪魔はころころと笑って口元を覆う。
「小野寺様に伝えられるような発見はありませんでしたか? しかし大丈夫ですよ」
言って、悪魔はベッドの端の方に腰掛けて流麗に笑う。わたしのちょうど枕元にあたる位置。悪魔は気だるげに髪の毛を書き上げてたくらむように笑う。そしてベッドの脇を指差して愉快そうに言う。
「この下にあるものを取り出しなさい」
そういうのでわたしはほとんど目を閉じた状態でベッドの脇に手を差し込む。そこには確か工具のような大き目のナイフがおっこちていたはずだ。記憶にないわたしが手にして鉄格子を破壊するのに使ったと言うナイフ。しばし中を探る。見付ける。
ぬるり、といやな感覚がある。わたしは目を開けて体を起こす。ナイフを引っ張りあげる。
手に持ったナイフには、油のような手触りのべとべととした赤い液体に濡れていた。切っ先から根本まで、まるで突き刺したみたいに組まなく赤く濡れている。わたしはその赤を手で撫で付けて匂いをかぐ。この独自のきめ細かな感触と鉄の匂いは、絵の具では絶対にありえない。
「……血?」
悪魔はくすくすと笑う。まるで言外に何かをあざけっているような笑い方だった。
わたしは冷やした鉄を飲み下したような悪寒に襲われる。わたしはまじまじとナイフを向き合って、しばらくしてこびりついた血を拭い取ってから、再びベッドの脇に差し込んだ。
何だろう。今の。
暗い部屋がある。中央に大きな照明が設置されていて、わたしはその光の真ん中でぼやりと実体なく浮かび上がっている。そんなわたしを囲い込むようにいくつかの椅子と机が配置されていて、姿かたち様々な人たちがそこに腰掛けて話をしている。
「つまり。妹の出現以来から、彼女には交代人格が備わっていたと?」
そういったのは眼鏡をかけた白衣の青年だ。その向かいに腰掛けているのは豊満な体をしどけなく椅子に寄せ付ける女性。悪魔だ。
「えぇ。でなければ彼女が妹君を殺害したことに説明がつきません」
「あれは君がさせたのだと思っていた」
「無礼な推測です。学者様らしくありませんね」
そう言って悪魔はくすくすと笑う。
「君は良く物事を引っ掻き回すようなことばかりするから」
「わたしは救済人格ではありません。ですがしかし、あなたたちほど無力だったり怠惰だったりする訳でもないのですよ。物事を少しでもおもしろくする工夫くらいします」
「君のやっていることは意味不明だ。迷惑だともいえる」
「自分でも論理的に動いているとは思っていませんよ? せめてトリックスターであろうと思うだけです」
「消されるぞ」
「誰に?」
「掃除人の奴にだ」
「彼女が消し去るべきはもっと他にいるでしょう。無能な天使とか、我々のいまだ知らぬ、強い悪意と殺意を秘めた人格とかね。わたしは彼女にとって必要な人材です。あなたのような頭でっかちよりずっとね」
「代わりがいないのが問題なのだ」
「まるで蛙の王様ですね?」
悪魔が上品にくすくす笑うと、別の場所から静かな老人の声が木霊する。
「あなたが我々の王になれるというなら、棒切れでも蛇でもなんでもかまわん。だがどうしてくれるつもりだ? 王ならせめて恐怖で民を縛ったらどうだ?」
「哲人様。わたしは彼女を傷付けるものを除外するだけですよ」
「だったら尚更対処が必要だ。泣き虫の負担が大きすぎる」
「あの子の役割は嘆きを管理することでは?」
「尚更だ。それに、もうそろそろ彼女が今の状態に強い不安を感じはじめるかもしれん。そう仕向けたのは貴様だぞ?」
「彼女からは物事を疑うことの一部が剥奪されています」
「では何か考えでも?」
「一人すさまじく影響力の高い者がいます」
と、悪魔は言った。
「その者は品性下劣ですが、しかし一之宮氏が死亡した今、頼ることができるのはソイツくらいのものでしょう。現にソイツとあってから彼女は安定してきつつあります。彼女にはソレが必要です。わたしは彼女の心の安寧を一番に考えて行動します」
「なるほど。それが君の狙いというわけだ」
学者が退屈そうにそう言った。
わたしを包み込んでいた柔らかな光が掻き消える。空虚な会話をしていた数人の人物は、薄くぼやける光の中のわたしを無表情で見送っている。
朝が来る。
目を覚ますと、わたしを取り囲むあの不思議な人たちは姿を消していた。代わりに、ベッドの傍で床の真っ黒いものを弄ぶ女の子の姿があった。
誰だろう。わたしは目を凝らしてその子の方を見やる。小さな桃色の髪留めを頭につけた女の子。その子はわたしが目を覚ましたのに気付くとこちらを振り向いてこう口にする。
「お姉ちゃん。起きたの?」
わたしはうんとうなずいて、それからベッドを起き上がる。
「お姉ちゃん」
言って妹はわたしのベッドに飛び込んで体をすりよわせる。わたしはその抱擁を体いっぱいで受け止めた。そして部屋の出入り口のほうを漠然と見やる。
妹が来るときはまず部屋をノックする音がある。そして扉を開けるとそこには妹がいたり、いなかったりする。ひょっとするとわたしは部屋をノックする音があると、それが仮に風の悪戯でも空耳であっても妹にノックされたと感じてしまうのかもしれない。だがしかしこんな風にパターンを崩して現れたのは初めてだ。ルールが変わったのかもしれない。
「おねぇちゃあん」
妹は頭を潜り込ませてくる。部屋の鍵は閉めていたはずだから、妹はどこからともなく現れたことになる。神出鬼没な悪魔や目の内側から登場した天使と同じだ。彼らはどんな場所にいてもわたしの前に現れる。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん。一之宮先生が死んだね。死んじゃったねっ」
妹はどこか興奮したようにそう口にする。
「そうだね」
「大変だね。お姉ちゃん、悲しまなかった? 優しかった一之宮先生が死んで、悲しく思わなかったの?」
妹にそう問いかけられ、わたしは思わず首をかしげる。悲しいはずだ。悲しくないほうがおかしいのだ。しかしわたしは何も感じない。そう感じることを誰かに取り上げられたような感覚。体に悪い食べ物を、目の前にいる大人にひょいと箸でつまみ上げられて、捨てられてしまったようなそんな感じがする。わたしの心には何も残らない。
「わかんない」
わたしは答える。妹はおかしそうにくすくす笑う。
「自分のことなのに分からないなんて。お姉ちゃん、へんだなぁ」
楽しそうに言うのでわたしは照れ笑いを浮かべる。妹と二人、しばしはにかみあった後、妹はどこかたくらむような顔をしてこう切り出してくる。
「じゃあさお姉ちゃん。一之宮先生を殺した奴に復讐したいとか、そんなことは考えないの?」
「ふくしゅう?」
わたしは目を丸くする。妹は屈託なく笑って口にする。
「うんそう。お姉ちゃんの大切な人が殺されたんだよね? だったらお姉ちゃんは犯人に憎悪を抱くはずなんだよ。一之宮先生にしたのと同じことを、犯人にも味合わせてやりたいと感じるはずなんだよ。だからお姉ちゃんは復讐に乗り出すべきなんだ」
「そうなの」
付いていけずにわたしは言う。妹は綺麗な笑顔で答える。
「きっとそうだよっ。お姉ちゃん。だからあの小野寺なんかの話を聞いて、雨の中歩き回って外を調べてって、お姉ちゃんはそんなことをしていたんだよ。全ては復讐のためなんだ。……でもね」
と、妹はそこで少しだけ目を細める。
唇ははにかんだように歪められたまま、目だけがほんの少し真剣だった。
「良く考えて、お姉ちゃん。お姉ちゃんはアタマが良いから分かるはずだよっ。今回の事件で、一番大切なポイントは何?」
問いかけられ、わたしは自分のアタマの中を探る。
わたしが小野寺の話を聞いて思ったこと。雨の中を歩き回っていたその理由。
どうしてここまでわたしはこの事件に興味を持っているんだったか。わたしにはまずそれが疑問に覚える。それはこの子の言うように、復讐というただそれだけの理由に落とし込んでしまえるものなのだろうか。どうなんだろう。復讐なんか志す人間の心はもっと冷たく、それでいて乱暴に燃え上がっているようなそんな気がする。わたしの心はこれまでと変わらずあやふやだった。
「お姉ちゃん?」
妹の問い詰めるようなそんな視線。わたしは一瞬、この子のことが恐ろしく感じられる。わたしは必死でアタマを探る。
事件のポイント……、事件のカギ、カギ、かぎ、鍵……。
「鍵?」
わたしはふと思い付いてそう口にする。すると妹は歓喜を叫ぶように両手を叩き合わせる。
「そうだよお姉ちゃん。鍵、鍵が重要なんだ。一之宮先生を殺した奴は、絶対に鍵を使ってこの施設から出たはずだよね? それでその鍵はどこから見付かった?」
「……一之宮先生の右目の中から」
「そうそうぐさって突っ込まれてたんだよね? まるでお姉ちゃんがされたみたいに……。それで鍵の刺さった先生の頭部はどこに転がされていた?」
「…………庭の……えぇと」
「そこまで分かれば十分だよ、お姉ちゃん」
そう言って妹は弾むような足取りでベッドを立ち上がる。そして嬉しそうにくるくる回って見せてからはにかむ。
「お姉ちゃんならきっと犯人を見つけられるよ。がんばってねお姉ちゃん。あたしは応援しているからねっ」




