表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

 二日おき六時に更新

 小野寺正志は孤児院のみんなにそれはたいそういじめられていた。

 その日の夕飯の席で隣の男の子におかずをたかられていたのを皮切りに、その後は消灯時間まで両脇を二人の男の子に固められた状態で、年下の子たちから殴る蹴るの憂き目にあう。上手いこと年下の子に実行犯を負わせているといった具合だった。

 本気で痛がった表情をする小野寺の周囲を、子供たちはどこかしらけたような表情で眺めている。あからさまに愉快そうな表情を浮かべている子もいる。野次が飛ぶ。一ノ宮先生がやめろと叫ぶが効果は薄い。他の職員は揃ってみて見ぬ振りをしている。

 「あんなにいじめられているのに、どうして誰も助けてあげないんですか?」

 わたしが一之宮先生に訪ねると、一之宮先生は一瞬だけ諦めたような、それでいて少し奸悪な表情を浮かべる。

 「仕方ないのよ。あの子は」

 いじめは職員がらみで行われているようで、院長先生も副院長も他の職員も彼が殴られ蹴られるのを黙認しているようだった。見てみぬ振り。誰も彼に優しい言葉をかけることはない。一之宮先生ですらこんな感じなのだから、小野寺の嫌われようは尋常じゃないところに達していた。

 「あの子もついこの間お母さんに捨てられてここに来て……。しょうがないとは思うんだけれどね。盗むのよ、彼。女の子の下着とか歯ブラシとか、そういうの。前からちょっと嫌われてた部屋のベッドの下にたくさん隠し持っているのを、同室の兜森くんが発見してね。それからあんな状態に」

 男の子から強烈なラリアットを食らって小野寺が床に向かって投げ出される。そこを容赦なく蹴り、踏み付け、圧し掛かり、マウントビンタなどの暴力の応酬が繰り出される。やってるのは小さな子供だけれど、内容自体は酷いリンチだ。これが何日も続いているらしい。

 「ここを止めても意味がないのよ。あの子たち、今はじゃれてるみたいにやってるけれど、大人の目のないところだと本当に酷いんだから」

 酷いと思うなら止めてあげて欲しいと思う。思うだけで口には出さない。口に出しても無駄だろうことがなんとなく記憶のどこかに引っかかるからだ。

 こうして見ている分にはちょっとだけ滑稽にも感じるけれど。誰も止めてくれる人のいない状況でこういうことをされ続けるのは、相当つらいことだろうと思う。わたしは小野寺に同情する。どうにかして助けられないかと考える。

 一番小野寺をいじめているのは、彼と同室の男子だという兜森という男に見える。あいつをどうにかしてしまえば良いのだろうか? 躊躇するわたしに背後から何者かの声がかかる。

 「やっちまえよ」

 ふいに体がワイヤーかなにかでつりあげられたかのように立ち上がる。わたしは訳もわからないままにそばにおいてあった椅子を振りかざして、小野寺を後ろから羽交い絞めにする兜森の頭に振り下ろす。鈍い音がする。

 わたしの後ろから男の職員が飛びついてくる。そしてそのまま床に叩きつけられてなぐれられた。はじけるようなパンチで骨に響くような嫌な感じがする。小野寺は信じれらないものを見るような目でわたしを見下ろしていた。

 その後わたしは「すぐに寝ろっ!」と部屋に叩き込まれる。わたしはいわれたとおりに中に入って、膝を抱えて丸くなる。

 そういえばまだお風呂に入っていない。あんまり入らせてもらっている気がしないなと思う。こんな風に何かやらかして部屋に放り込まれることがだいたいだったような。わたしはなんとなくパジャマに着替えて眠くなるのをそっと待つ。

 どうやらここは少しおかしなところらしい。


 夢を見る。

 わたしはそこでは七歳くらいの小さな女の子。毎日絵を描いて一人で過ごしている。

 ある日わたしの下に妹が一人生まれる。妹は玉のようにかわいくてわたしはそれをたいそうかわいがる。一日中妹のいるベッドの前で彼女のことを見守って過ごす。それだけが楽しくてほかのことは全部嫌い。わたしは妹さえいれば何もいらないと思い始める。

 しかしあるときわたしはふと二階で窓を見ている。その手にはかわいい妹が握られていて、わたしはふと思い付いて妹の足を持って二階の窓から吊り下げる。この高さから落としたらどうなるのだろうと、妙な興味を引かれてわたしは地面を見下ろし続ける。

 わたしの背中で二人の人物の声がする。羽の生えた少年がやめろとわめいて、尻尾のついた女性がやってしまえとはやし立てる。伸び切ったわたしの腕には幾重にも痣やら火傷やらが刻まれている。

 伸び切った両手がしびれて赤ちゃんの妹を取り落とす。天使の少年がしまったと頭を抱え、悪魔の女性が嬉しそうに微笑んでみせる。

 わたしはそのままつぶれた赤ちゃんを見詰めながら何かを待つ。待っていた何ものかは怒り狂ってわたしを床に叩きつける。そこからは痛いことしか覚えていない。


 「お姉ちゃん。お姉ちゃん」

 翌朝そんな声がして目が覚める。わたしは眼を引き摺りながら扉に向かい鍵を開ける。中から利発そうなかわいい女の子が現れる。

 「お姉ちゃん。やっと会えたね、昨日はさんざん色んな人が邪魔をしてさ。えへへ。嬉しいな」

 そう言って女の子はわたしの胸に飛び込んで甘えるように頭をこすり付ける。わたしは戸惑ってその子を目の前に引き剥がす。

 「あなたはわたしの妹なの?」

 そういわれて首をかしげる女の子の表情はあどけない。素直そうで賢そうで元気良くて、わたしがこんな妹が欲しいなぁって思うことがそのまま反映されているようにも見える。

 「そうだよ」

 女の子はそう言って屈託なく笑う。

 「お姉ちゃん。また何もわかんなくなっちゃったんだね」

 そう言って女の子はころころ笑う。

 「良かったね、お姉ちゃん。もう何も思い出さなくて良いよ。ね? 気分が楽でしょう?」

 妹はわたしの傍にぴったりと張り付いて頬にキスをする。それから甘えたように微笑むと、屈託のない笑顔でくるくる回りながら部屋を去る。

 「お姉ちゃん。またねっ」

 そんな言葉を残して行った。わたしは取り残されて部屋で立ち尽くす。

 しばしそうしているとわたしはふと夢の内容を思い出す。妹は確かにいた。ずっと昔にいたはずだ。しかしあの子はわたしが窓から放り投げてしまったはずだ。どうしてあんなことをしたのかは分からない

 わたしは自分の右腕を確認する。千切れた人差し指から視線を下げて目を凝らすと、そこには確かに焼けどやキズの跡が刻まれている。そのキズの内容が夢とほとんど一致していることから、あの記憶はほんとにあったことだという確信を得る。

 ならばわたしは妹を殺したのか。そう思っているとがしゃがしゃと鉄格子を叩く音がする。

 びっくりして振り返ると、一羽のカラスが窓の鉄格子に向かって何度も何度もタックルを決めて羽を散らしている。何かを訴えるようにくちばしをばたばたと動かして、羽を撒き散らしながら全身傷だらけでぶつかってくる。わたしは何事かと窓を開ける。カラスが目の前でわめく。

 「おうおめーっ。ひさしぶりだなおめーっ。つっても一日ぶりだなかかかかっ。どうだ元気にしてたか? 僕っちいない間に何か悪いことしてないか? えぇっ?」

 そう言ってカラスは尚も執拗に鉄格子にタックルをかます。

 「あなた誰?」

 わたしが問いかけると、カラスは愉快そうに哄笑してくちばしをばくばく動かして話し出す。

 「誰? 誰って僕のこと忘れるなんて酷いよっ。僕っちは天使だよ、おめーの良心。思い出したか?」

 あの肉の石から出てきた男の子か……。思い出し、わたしは首を傾げてみせる。

 「カラスに食われたろ? あれからコイツを中からのっとったんだっ! かかかかかっ。ほら、さっさと中に入れてくれよ」

 「どうやって?」

 この鉄格子はわたしの手でははずれない。これは全ての子供部屋の窓にはまっているもので、子供が夜中に外出したり脱走したりするのを防いでいるものらしかった。

 「バーカ。おめぇ、これははずれんだろがっ」

 言って、カラスは鉄格子をついばんでばたばたと暴れる。

 「こないだおめー一人でナイフでこすってたろ? つってももう忘れてるのかな?

かかかかかっ」

 哄笑し、天使は鉄格子の端っこの方をくちばしで指してみせる。

 「ここだここだっ。この辺からぐわっ、ってもちあげたら開くよ。やってみ?」

 わたしは天使が言ったとおりに鉄格子をもちあげてみる。鉄格子と言っても薄く錆び塗れの金属が施してあるだけのそれは、やすりをかけるどころか男の子が殴れば壊れてしまいそうだった。

 鉄格子は簡単に開いてしまう。カラスは嬉しそうに哄笑して部屋の中に飛び込んで羽を撒き散らす。

 「かかかかかっ! やっぱ中は良いなぁ、外だと猫いるじゃん猫っ。食われるもん。かかかかっ」

 カラスは上機嫌そうにそこいらを旋回し、それからわたしの方に向かって一直線に向かってきたと思ったら、鼻のあたりをくちばしで攻撃してくる。

 「い。いたいっ」

 「痛いじゃねーよおめー。さっさとそこの鉄格子を元に戻せ。ばれたらどーすんだよ。かかかかっ」

 わたしは天使のいうとおりにそれを実行する。なんだかさっきから言いなりだけれど、コイツがわたしの天使で良心だというのなら、そうするのもあながち間違っていないようにも思える。

 天使はわたしがいうとおりにしたのを見届けると、満足したように時計の上に足を乗せる。時計は十一時を示しているがもともと狂った時計なのであてにならない。どれくらいずれているのかを逆算すればまだ役に立ちそうだけれど、わたしはそれを覚えていなかった。

 その時。部屋にノックの音がこだまする。

 「くぼみちゃん。くぼみちゃん朝だよっ」

 一之宮先生の声。カラスはびっくりした風に飛び上がる。

 「やっべーっ。人が来た。やっべーやっべーばれたらやっべーっ。おいおめー僕っちに布団をかけて隠してくれ! 羽も集めてどっかどけとけ! 早くっ」

 わたしはいうとおり、時計の上に掛け布団をかぶせてから扉を開ける。一之宮先生が優しげな表情でこちらを見下ろしてくる。

 「今朝はもう起きていたの?」

 うなずく。

 「朝ごはんできてるわ。早く着なさい」

 そう言って先生はわたしに向かって背を向ける。若干羽は掃除できずに残っていたし、床に置かれた布団は異様に盛り上がっていたけれど、どうやら異常には気付かれずに済んだらしい。

 「分かった。……ところで先生。あの」

 わたしは散らばったカラスの鮮やかな黒羽をもちあげながら、先生の後姿に向けて質問する。

 「なぁに?」

 「カラスの色ってなんでしたっけ?」

 先生は目を丸くして、それから当たり前みたいに返答する。

 「何いってるの。カラスは白に決まってるじゃない」

 そうですか。わたしは答えて、それから首をかしげながら今日を過ごす衣類に手をかける。


 朝食の席で小野寺は変わらずおかずをたかられている。

 たかっていた方の兜森が何か恐れたようにわたしの方に目をやってくる。昨日わたしが殴りつけた箇所に包帯が巻かれている。こぶでもできて、中に何かで冷やしてでもいるのか。血も出ていなかったのに大げさだなぁと考える。

 食事を終えてわたしはキャンバスを手にして外へと繰り出す。昨日描いていたカラスの絵の続きをやろうと思ったのだ。

 朝焼けに染まった空を進んで昨日のゴミ置き場に向かって歩き出す。何もない。カラスは眠ってでもいるんだろうか。そう思ってわたしは窓の鉄格子を外して天使を呼びつける。ばたばたと羽を撒き散らしながら真っ黒カラスの天使が現れる。

 「そんな簡単に開けるなよ。バレちまうぞ」

 天使が忠告するように言う。わたしは首根っこを掴んでゴミ置き場に天使をつれてくる。

 「いてぇっ。いてぇって。乱暴に掴むなよ。いててててっ」

 ゴミ置き場まで来るとわたしは適当に天使を放り出してキャンバスの前に腰掛ける。それから首を傾げている天使にいう。

 「飛び回ってて」

 「合点承知」

 天使はゴミ置き場の周囲をぐるぐると旋回する。そうしていると昨日の料理のときに出たゴミを発見し、無表情のままでその傍に降り立って美味そうにゴミ袋を漁り始める。ゴミの中には台所の三角コーナーもあって、そこにはわたしの眼窩から出た肉片が混ざっているはずだった。

 この絵をどうやって完成したら良いのかはわたしには分からない。気の向くままに色んな黒を作って色んなところに塗ってみる。手元の絵の具では若干の不足を感じないでもなかったけれど、どうにかするのも面倒なので我慢する。

 グーで筆を握ってべとべと塗りつけているとなんとなく思い出してくる。わたしはこうしているのがとても好きだ。こうして毎日絵を描いていたんだ。

 こんな感じで少しずつ取り戻していけば良いのだろうかと考える。同時にわたしの妹と名乗る女の子が今朝忠告してきたことも思い出す。何もかも忘れた方が楽でしょう? 妹は確かにそう言っていた。どこかたくらむようなせせら笑うような、童女めいた笑みを浮かべながら忠告した妹のことを思い出す。

 どっちでもいっか。

 わたしはそう開き直って絵に向かっていることにする。ここの孤児院は少しおかしいけれど、一之宮先生は優しいしごはん食べれるし絵だって描ける。わたしだけ鍵のある個室に入れられていたり、窓に鉄格子がはまっていたり、部屋にナイフが落っこちてたりいないはずの妹がいたりカラスが喋ったりするけれど、そんなに悪いところではないのだ。きっと。

 そう思ってぐちゃぐちゃと絵の具を塗っているとわたしの背後から声がかかる。

 「よう信条。昨日はおもしろかったなぁ」

 軽薄なその声に振り返ると親しげな表情を浮かべた小野寺が、わたしの絵を覗き込んでいる。

 「うっわきっもちわりぃ……。ぐっちゃぐちゃじゃねーのぐっちゃぐちゃ。でもすげー」

 そう言って小野寺は見入るようにしてわたしの絵に顔を近付けてくる。眉間に皺を寄せてじっくりと吟味する様子はどこかしら学者然として見える。

 専門はなんだろう。ぱんつ学だろうか。

 「おめー。筆の持ち方きたねーのな」

 そう言って小野寺はわたしの右手を指差してくる。

 「赤ちゃん持ちじゃねーか。ぐーで握ってて良くそんなにかけるな。ぶきっちょなのか?」

 言うのでわたしはいったん筆を置いて、人差し指のない右手を小野寺の前に掲げてみせる。小野寺は一瞬面食らったような表情を見せると、目を丸くして黒くなったわたしの手を覗き込む。

 「それどーしたの」

 「わかんない」

 「分かんないっておまえ……」

 小野寺は呆れた風に首を振るってみせる。

 「自分の指が千切れたときのことくらい覚えてろよ」

 「どーでも良い」

 そう言ってわたしは自分の絵に向き直って絵の具を置く作業を再開する。小野寺はやや退屈そうにその場に足を投げ出し、わたしの絵が進行していくのをぼんやり眺めていく。 

 「信条。おまえ絵ぇ習ってたこととかある?」

 「知らないよ」

 「絶対あるだろ。……うめぇもん。つーか描き方がなんか素人と違う。道具もすげーし。むちゃくちゃっぽいけどどっか秩序的っつーの? それ、今は絵の具塗ってるけどさ、その下で相当下書きとかしてるだろ」

 哲学者然とした顔で自分の分析を語る小野寺。変な言い回し。わたしはよくわかんないのでその場で首を傾げてみせる。わたしの返事がないので小野寺は退屈そうにあくびをする。

 「なー信条」

 「なに?」

 「その絵できたらくれよ。もしくは売ってくれ。三千円までなら出すよ」

 そういうのでわたしはすごく意外な気持ちになる。

 「ぱんつよりは高いね」

 「そうだな」

 「お金で取り引きするのすきなの?」

 「ああ。なんか安心じゃん、きっぱり金ですると。学校だと中古の漫画とかタバコとか売ってちまちま稼いでてさ。結構あるんだよ」

 「いくらくらい?」

 「六千円」

 「ふうん」

 わたしは生返事をしてキャンバスに向き直る。

 「一万円」

 「は?」

 「一万円なら良いよ」

 そういうと小野寺は眉を顰めて、しばらくするとしたうちをかましてから不機嫌な声で言う。

 「分かったよ。一万円な。できるまでに用意しとくよ。兜森の財布に確かそれくらいあった気がするし。知ってるか? アイツ院長の財布から金盗んでんだぜ?」

 どうでも良い。わたしはキャンバスに向き直って絵の具を塗りたくる。

 黒は一番作っていて楽しい色だと思う。何をどう混ぜてもだいたい黒にできるし、混ぜ方によって違う黒になったりもする。ぐちゃぐちゃにべちょべちょを混ぜ合わせて浮かび上がる、ぼんやりしたものがわたしは好きだ。

 小野寺は退屈そうに頬杖をついてゴミを荒らすカラスを見詰めている。その表情はやっぱり何か難しくもくだらないことを考えているようにも見える。くだらないことを難しく考えているのかもしれない。それで結局何も生み出さないし思い至らない。小野寺はそういう人間に見える。

 「ねぇ小野寺」

 わたしが声をかけると小野寺はびっくりしたように顔をあげる。

 「なんだ?」

 「この絵やっぱりただで良いよ」

 わたしは小野寺の方を見もせずに小野寺に言う。小野寺は意外そうな表情をしてからはにかんでみせる。

 「マジで? なんで」

 「なんでも」

 「……ふーん。そうか。じゃあ良いや。ただな、ただ。できあがったらただで寄越せよ。約束な。絶対、約束だからな?」

 約束、という言葉を偉く強調する小野寺。そう言ってこちらに向けて腕白そうな手を差し出してくる。

 「ゆびきりげんまんな。絶対破るなよ、なぁ」

 わたしは小野寺の顔を見返す。照れたような様子はなく、むしろそうすることで契約を明確に成立させようとする浅ましさすら感じられる。子供っぽいのやら神経質なのやらよくわからない。わたしは絵の具に塗れた右の小指を差し出してみる。小野寺は躊躇なくそれを自分の指にからめて乱暴に引っ張る。 

 「ゆーびきーりげーんまんっ!」

 小野寺は乱暴に手を振り回して音頭をとる。

 「嘘吐いたら針千本のーます。指切ったっ!」

 そう言って手を離し、後でげらげらと笑って見せる。自分のしたことがおかしかったのかもしれない。

 ふと思い付いてわたしは差し出した自分の手を前にかざす。わたしは自分の千切れた右手をじっと見詰める。紙切りバサミとかそういうものでぶきっちょに乱暴に切り離したみたいな、いびつでがたがたとした切り口だった。

 指切った。


 べちゃべちゃと絵を描くことを続けていると小野寺がどこかに出かけてしまう。今日は金曜日で祝日で小野寺は学校が休みらしい。

 しばらくすると院の駐車場に一台の車が止まる。光沢を放つ下品な赤色の車。何か引っかかるようなものを感じてわたし赤い車に目を釘付けにされる。中から変な濃い化粧とはでな衣装とぼろぼろの髪をしたおばさんが現れて、しゃなりしゃなりと大またで歩き始める。その後ろにくたびれた様子のおじさんがつきしたがっている。

 わたしは様子を見るために絵を描くのを放り出して孤児院の門前に向かう。院の中からは一之宮先生がどこかぶすっとした面持ちで現れておばさんに向き直る。

 「イズミちゃんはどこにいるの?」

 おばさんがどことなく上機嫌な声で一之宮先生に言う。一之宮先生は眉を顰めておばさんをにらみ返し、憎悪すらこもったとがった声で口にする。

 「何をしに来たんですか?」

 「決まってるじゃない。イズミちゃんを引き取りに来たのよ」

 そう言っておばさんはころころ笑う。背後ではくたびれた感じのおじさんが、腰を折り曲げるみたいにして立ち尽くしている。そこにいるだけみたいな感じで、表情もどこか浮かない感じがする。おばさんに何か言いたいことがありそうでもあった。

 「ですが信条さん……。あなたそう言って前もあの子を引き取りに来たじゃないですか。それで一週間もたたずにまた捨てたんでしょ? ありえませんよ、そんなこと。あなたにはもう親権なんてないんです。通るわけないんです、こんなこと」

 一之宮先生の声はつんけんしていて、おばさんのことを強く攻め立てるみたいな響きがあった。おばさんはそれを平気な顔をして受け流す。んなことあたしの知ったことじゃないみたいな、そんな表情。

 「あなたのそういう身勝手が……あの子の心にどれだけの負担をかけているか分かりますか? あなた、あの子が自分の体をどうしているのか知らないんじゃないでしょう? いくつかの解離性障害の疑いまであるんですよ? どの面下げて引き取りになんて……」

 「うるさい」

 おばさんは苛立った風にそう怒鳴る。一之宮先生がその剣幕に若干怯む。軽薄につりあげられたその目にわたしは何か背筋が凍るような感覚を覚える。

 「生意気言わないでちょうだい。……ようはイズミちゃんがどう考えるかでしょう?」

 そういうとおばさんは施設の中に向かって大声で叫ぶ。

 「イズミちゃーん? イズミちゃん。お母さんですよ。イズミちゃんを迎えに来ましたよ? イズミちゃん?」 

 「わぁっ。お母さんだ。わーい」

 白々しいほどに無垢なる声がわたしの耳に飛来する。わたしはびっくりして表情を引きつらせようとするけれどそれもできない。何故ならその幼い声はわたしの口から吐き出されたもので、その時にはわたしの意志とは関係なく体が勝手に走り出していたからだ。

 「おかーさん。おかあさんおかあさんおかあさん」

 のどが痛くなりそうな声で何度もわたしはそう叫ぶ。何が起こっているのか分からなくなる。わたしはそのままどたばた走って香水臭いおばさんの体に飛び込んでいく。おばさんは笑顔でわたしを受け止めてからあまったるい声でわたしの頭を撫で付ける。

 「イズミちゃん。イズミちゃんひさしぶりね。元気にしてた?」

 「うんっ。あたし元気だよっ!」

 「絵を描いていたの? イズミちゃん偉いわねぇ、手が真っ黒よ」

 違うと思った。わたしはイズミちゃんなんかじゃない。それなのにこの人はわたしをイズミちゃんだと呼んでは母親みたいに振舞ってわたしの頭を撫で付ける。そしてぞっとするようなキスをわたしの頬に向かってしてきたかと思ったら、捕らえるみたいにわたしの体を掴んでどこかに連れ去ろうとする。

 「ちょっと……どこに連れて行く気?」

 一之宮先生が怒鳴る。おばさんがどこか勝ち誇ったように宣言する。

 「どこって……この子のお家に決まってるでしょう? ねぇ、イズミちゃん」

 少しだけ怖い顔をしておばさんはわたしのほうを向き直る。わたしは混乱していた。確かにこの人はわたしのことをイズミちゃんだと思っているらしい。だがわたしはイズミちゃんではない。信条くぼみという名前がある。

 いやしかしそれにしたって。わたしは考える。信条くぼみなんて名前は一之宮先生から教わったもので、それがわたしの本名である根拠はどこにもない。むしろこの人がいうようにわたしはイズミちゃんという人間なのかもしれない。そうであったとしてもわたしは困らないだろうか。どうなのだろう。

 「ねぇ。どうなのイズミちゃん。帰りたいの? 帰りたくないの?」

 そう言っておばさんはにたりとした笑顔で同意を求めてくる。わたしは喉から心臓を吐き出しそうな感覚に襲われる。自分が何かとんでもないものを目に前にしているようなそんな感覚。

 目の前の女の人は暖かい。暖かくて大きくて引っ付いていると奇妙な気持ちになってくる。それと同じくらいに何かどうしようもなく恐ろしいものも感じてしまう。アタマの中が上手く整理できない。どうすれば良いのか分からない。

 誰でも良いから助けて欲しい。そう思った途端わたしの口から別の何かが声を発する。

 「おかあさんと一緒にいたい」

 その時わたしはわたしがものすごく遠くにいるように感じられた。わたしという存在がもう一つあって、それはいつもいつもわたしの後ろで立ち尽くしてわたしのことを観察していて、そしてそれこそがここでこうしているわたし自身であるという、奇妙な想像が頭を張り付いてはなれなくなる。

 胸騒ぎがする。

 わたしはどうしてしまったのだろう。

 「じゃあ。一緒に帰りましょう」

 そう言っておばさんはわたしを連れて行こうとする。後ろでそれを見ているわたしは何もすることができない。ただしわたしの体はるんるんと嬉しそうにスキップを踏むようにそのおばさんについて歩いていってしまう。漠然とそれを見送っていると、なんだか意識がぼやけるような心地がする。このまま目を閉じてしまったら何もかも感じなくなるんじゃないかとそんな気がする。

 「ところでイズミちゃん。そのアタマの傷はどうしたの?」

 おばさんが言う。

 「えっとね……これはね……。……で、……が…………」

 わたしが答える。もうほとんど何も聞き取ることができない。わたしはわたしの中に静かに沈みこんでいく。酷く心地が良い。そのうち自分がなんなのかも分からなくなって、このまま消えてしまうんだろうか。そしたらわたしはどうなるのだろう? このイズミちゃんと呼ばれている誰かが代わりにわたしをやってくれるんだろうか。

 そんな風に考えたときだった。

 ばたばたと羽ばたくような音がして、何か黒い物体がわたしとおばさんの間を駆け抜ける。おばさんはそれにおびえるようにしてわたしのことを放り出すと、わたしは地面に投げ出されてがつんと頭をぶつける。その衝撃でわたしの意識がわたしの体に戻る。わたしは自分の意思で立ち上がると、目の前で起こっていることを見やる。

 「このカラス……いったいなんなのよ、もうっ!」

 一匹のカラスがオバサンの上を旋回し、そのアタマに向かって何度も何度もくちばしを突きつけている。その執拗な攻撃におばさんは両手を振り回して抵抗するけれど、カラスは器用にそれをかわしてつかまらない。おばさんは痺れを切らしたようにこう叫ぶ。

 「ちょっとあなた……何をしてるの? 助けなさいよっ」

 そういわれて背後に構えていたおじさんがびっくりしたように跳ね上がる。するとおじさんはまずからすの方を見上げて、次に床に転がったわたしの方を一瞥して申し訳なさそうないとおしそうな変な顔をすると、ぶきっちょに手を差し出してカラスを捕まえようとする。

 「うわっ」

 眉間のあたりをくちばしで一突き。それだけでおじさんは怯んで動けなくなる。おばさんは期待はずれという様子で眉をつりあげる。

 カラスはそのままおばさんの頭上に飛び上がり、空からぽとりと白いものを落としてくる。それは見事におばさんの鼻の頭に着地して、おばさんはヒステリーを起こしたように絶叫する。

 「きゃぁああっ! 糞、糞よふんフンっ! もういやっ!」

 そう言っておばさんは歯軋りをしながら両足を地面と打ち鳴らし、おじさんを蹴り飛ばしてからその手を引いて歩き始める。

 「もう服もぼろぼろっ。あなた、すぐにこれを綺麗にしにいくわよ。こんなのいやよ、あたし」

 「……この子を引き取らなくて良いのかい?」

 「そんなの後よ、後っ! ……まったくもう」

 そう言っておばさんとおじさんの二人組は車に乗って帰っていく。わたしは漠然としてそれを見守っている。しばらくすると、一連の動きを全て観察していたらしい小野寺がやってきて、カラスを指差してこう口にする。

 「こいつがなんかばたばた飛んでったから来て見たんだが……あいつら、おまえの親なのか?」

 分からない。わたしはその場で首を振るってみせる。小野寺はふうんと退屈そうに言う。

 「じゃあ誰なんだろうな。そのイズミちゃんっていうのは」

 わたしもそれを考える。知っているような気がする名前だ。わたしが首をかしげると、カラスは何か満足したようにわたしに向かって羽を広げて見せる。その無表情な瞳のままばたばたとその場を飛び去っていく。

 カラスの黒い羽がわたしの足元に落ちる。飛び去っていくカラスを眺め、アタマに手を伸ばしてその場を立ち去ろうとした時、ふと引っかかるものを感じる。

 「……あっ」

 そして思い出す。

 イズミちゃんというのはわたしの妹の名前だった。


 信条イズミ。死んだのは確かわたしが小学校にあがる少し前のこと。

 家の庭に向かってべちゃりとつぶれているイズミのことを思い出す。わたしは壊れた卵みたいになったイズミを窓の内から眺めている。自分がどうしてそんなことをしたのか、それを考えながら漠然とイズミを見下ろし、お母さんの帰りを待っている。

 イズミはあの後小さな棺に入れられていた。あちこち裂けて骨が折れてめきょめきょでぐちゃぐちゃだったイズミ。あちこち縫い合わせて張り合わせてずたぼろの人形みたいになって、それでもすごく綺麗でかわいらしかったイズミ。そのまま持って帰って部屋に飾っておきたいと、そんな風に強く感じたことを覚えている。

 「つまりですね。あなたは妹を窓から放り投げて殺してしまったことを後悔している。そのことがあなたの中にイズミという人格を作り出し、それは時折現出し、あなたの元に現れたり、時にあなたに成り代わったりする。そういうことではありませんか?」

 その夜。食事と入浴を終えて部屋に戻ってくると、猫みたいにふっくらとして黒い尻尾の生えた綺麗な女の人が、わたしのベッドにしどけなく寝そべっていた。

 「あなたの母君があなたをイズミちゃんと呼んでいたのは、つまりあなたたちは親子でイズミが生きている世界を共有していたのですよ。親子揃ってイズミの生存を肯定し、その中であなたはあるときは長女のくぼみとして、あるときは次女のイズミとして母親に振舞っていました。そう考えれば今回のことにも説明がつくのではありませんか?」

 そう言って流麗に片方のまぶたを閉じてみせる女性に、わたしは声をかける。

 「あなた誰?」

 「私ですか? 悪魔です。あなたの悪い心」

 ふふふっ。と女性はその場で微笑んで見せて

 「天使がいるのですから当然悪魔もいるというものです。ほら、きちんと尻尾も生えていますよ。先っぽが尖っていますね、実に悪魔的ではありませんか」

 そう言ってお尻を向けてひょろりと生えた悪魔の尻尾を見せ付けてくる。露悪的な黒い衣装を纏ったふっくらとした女性。男の人の読む雑誌にでてきそうだと思った。

 「そうです。私はあなたの父君の呼んでいた雑誌より姿を借りています。本当なら天使がやって見せたように、カラスや他の動物の姿を使ってみせるのが一番分かりやすいのですけどね」

 「なんででてきたの?」 

 「正邪のバランスを保つためです」

 と、悪魔は言った。

 「天使の奴がカラスに擬態してしまったので、常にあなたの傍にいることができなくなったのです。そうなると悪い方の私ばかりがあなたの心に巣食っていることになりますね? これではあなたが何をやらかすか分からないということで。自重して外に出てきてあげたというところです」

 良く分からない。わたしが目を丸くしていると、悪魔は上品な動作でその場を起き上がる。ベッドを立ち上がると、長い手でわたしのベッドを指し示してみせる。

 「あなたの眠るところです。……どうぞ」

 そういうので、わたしはすぐにパジャマに着替えて布団に寝転がる。最初に起きた朝の色違いの灰色のパジャマだ。すごく肌触りが良い。

 「ねぇ悪魔さん」

 と、わたしは悪魔に問いかける。

 「あなたはわたしの前の記憶について。何か知っていることはありますか?」

 「さぁ。どうでしょうか」

 悪魔はころころと、あざけるような形に唇を歪めて、しかし上品に笑う。

 「わたしはあなたの悪魔です。『記録者』や『歴史学者』ならともかくとして、それをわたしに訊くのはナンセンスというものですよ。知っている、知っていないの問題ではありません。そもそもが管轄外なのです」

 意地悪な口調でそう口にする。そして愉快そうに微笑んで見せると

 「こうして話をしていることすら、本来は考えられないことなのです。そもそもあなたに知恵を授けるのも、ふつうなら『学者』や『教師』がやるべきことですし」

 わたしはうなずきもせずに顔を背けてしまう。このまま明かりをしまおうかと思っていると、ノックの音が部屋にこだまする。

 「お姉ちゃん」

 妹の声だ。わたしは思った。悪魔はほんの少し不愉快な表情を浮かべて扉に目をやり、それからあけてやったらどうだとばかりに顎をしゃくってみせる。そのとおりにする。

 「お姉ちゃん。……おねぇちゃあんっ」

 言って、妹はわたしの胸の中に飛び込んでくる。柔かい体を精一杯押し付けて行われる愛情表現。わたしはその小さな体を抱きとめ、おなかから引き剥がして目を合わせる。

 「あなた……誰?」

 わたしは尋ねる。

 妹は真ん丸な目をくりくりと輝かせて首をかしげる。イズミちゃんは確か一歳の赤ん坊だったはずなのだ。悪魔の言うことが本当だったとしても、こんなに大きくなっているのはおかしいと思う。

 「簡単なことですよ」

 悪魔はつまらなさそうに答える。

 「あなたが成長するのにしたがって、妹の方もあなたの中で育っていった……。ちょっぴりペースがつりあわないのが難点ですが」

 妹はにこにことしてわたしの顔を見上げると、背後の悪魔に向かって声をかける。

 「悪魔。いるんだ」

 声をかけられた悪魔はどこか不機嫌そうに長い髪をはらって見せて

 「ええ。あなたとは話をする機会を持ちたいと思っていたところです……。天使の奴はただの人の良いガキですし、まだ遭遇確率の高い他の連中も、偏屈か高慢かのいずれかですしね。私の知る限り、まともなものはおそらくあなたくらいのものでしょう」

 「相変わらず悪魔は何いってんのかわかんないね」

 妹は不思議そうに唇を尖らせて見せる。

 「認識の違いです。私は自身がただの儚い悪魔でしかないことを知っていますが、あなたはそうではないのでしょう? 私の話が理解できないのはそのためです」

 妹は何も分からないというばかりに、無垢な表情で首を傾げてみせる。悪魔はたわいもないものを見るように微笑んで見せた。

 退屈したわたしは一人でベッドに向かう。妹がそこについてきて、悪魔がそれに続く。妹はわたしの傍で寝転んで甘えるように身を寄り添わせる。

 わたしはなんとなく二人の存在を理解し始める。天使も悪魔も、おそらくは妹も、わたしの為に存在すると区別な人たちだと分かってくる。眠たくなったわたしのまぶたの向こう側に現れ、時にわたしの声を借りて話し始める、カラスや女性の姿を取った不思議な人たち。

 「それでは。わたしはそろそろ失礼することにいたします」

 そう言って、悪魔はぴらぴらと手を振ってわたしの前から去っていく。

 「天使がいないのに私一人だけがいる訳にはいきませんから……。またあのカラス野郎をひん掴んで戻ってきますから、それまでどうかお楽しみに。さようなら」

 そう言って悪魔の姿は霧散して、わたしの前から消える。わたしはそれをまぶたを薄く空けて見守ってから、再び目を閉じる。おなかのあたりに妹の体温を感じる。妹が言う。

 「お姉ちゃん。……今日は一緒に寝てもいぃ?」

 わたしは良いよと短く答えてから、妹の柔らかい体を抱いて眠りに落ちていく。妹はえへへと無垢に笑って、甘えるようにわたしの抱擁を受け止める。

 酷く安らかな心地だった。


 夢を見る。そして思い出す。

 わたしは自分の部屋で絵を描いている。その時の自分の部屋というのはこの孤児院の部屋ではなくして、昔住んでいた黒塗りの大きな家のほうの部屋。大きな窓と真っ白な天井と壁に貼られたお父さんの絵があって、わたしはそこで毎日絵を描いて過ごしている。

 わたしは三歳くらいの女の子を描いている。その女の子というのは、ちゃんと成長していればそれくらいの年になっているはずのイズミちゃんの絵で、わたしは端正込めて明るい色を塗り重ねていく。

 毎日のようにキャンバスに向かって絵の具塗れになって、わたしはようやくその絵を完成させる。わたしはお父さんの絵を隅っこにどけてその絵を部屋に飾りつける。膝を抱えて一日中自分の絵を見ていると、突然部屋にお母さんが入ってきてわたしの絵を見やる。 

 「イズミちゃん?」

 お母さんはわたしの絵に向かって目を丸くして信じられないようにそう口にする。わたしは嬉しくなってはにかんでみせる。お母さんは我に帰ったようにわたしの方を振り向いて、そしてものすごく複雑な表情を浮かべる。

 それからお母さんは毎日その絵を見るために部屋を訪れた。

 わたしはそれが嬉しくて、毎日膝をかかえてそれを見るようになる。お母さんは絶対にわたしとは口を利いてくれない。絵を見て見続けてしばらくすると一人で帰っていくだけ。それでもわたしはお母さんが部屋に来てくれるだけですごく嬉しい。

 それが楽しみで、わたしはもう少し成長したイズミちゃんの絵を描く。

 五歳になったイズミちゃんにお母さんはうつろな表情で話しかける。わたしはその様子をとても不思議に思いながら見守る。お母さんはそれから毎日毎日そこに現れて、イズミちゃんに向かって話しかける。恍惚の表情を浮かべて、まるで本当にそこにイズミちゃんがいると信じ込んでいるように。

 ある日。わたしはまったく返事をしないイズミちゃんの代わりにお母さんに返事をしてしまう。

 お母さんは最初絶句して、それから僅かにこちらを振り向いたかと思うと、すぐにイズミちゃんの絵に向き直って再び話しかけ始める。わたしはそれに返事をする。お母さんは返事があったことを泣いて喜んで、絵に向かって両手を伸ばして涙声で何度も話しかける。

 そんなことが毎日のように続く。お母さんはわたしのことを無視してイズミちゃんに話しかける。わたしはイズミちゃんの振りをしてお母さんに返事をする。お母さんはにこにこ笑ってイズミちゃんと話をし、満足したように部屋を去っていく。

 わたしはお母さんと話ができたことが嬉しくなる。

 ある日。ごはんを食べていると、絵の前でもないのにお母さんがイズミちゃんに向かって話しかけてくる。

 わたしはイズミちゃんになって返事をする。

 お母さんが笑う。わたしも嬉しくなる。


 目を覚ます。

 ぐわんぐわんと視界が揺れている。なんだか三十時間くらい眠ってしまっていたような、奇妙な気持ち悪さが全身を支配している。それでいてどこか気だるくもあり、眠ったような眠っていなかったような不思議な心地だ。

 だらだらとその場を起きだして気付く。わたしの体をまとっているパジャマが昨日とは柄を変えている。肌に絡みつく感覚が全然違う。どこかしらしっとりと湿ったようなそれは重たくもあり、わたしはそれに妙な不安感を覚えながら体を起こす。

 鉄格子のはまった窓を見る。外はざらざらと雨が降っていて、霧が深くて外の景色が何も確認できない。ただおぼろげに、涙を流すような陰鬱なカラスの鳴き声が木霊するだけだ。わたしは肉の石を食べたカラスがどうしているのか少しだけ心配になる。悪魔はどうしているだろうか? 

 そして思い出す。そうだ、妹はどうしたのだろう。確か一緒に眠ったはずなのだけれど……。そんなことを考えていると、部屋にノックの音が木霊する。

 「はい」

 わたしが返事をすると、外側から強引に扉を開こうとノブが回される。ぎしぎしと音をたてて扉は何の反応も見せることがない。そう言えば鍵をかけていたんだった。思い出し、わたしは扉の前まで歩いていく。

 扉を開く。

 小野寺正志が心配げな表情でその場で立っていた。

 「小野寺……?」

 意外な人物の訪問に、思わず目を丸くする。小野寺はわたしの顔をまじまじと見詰めると、目を丸くするわたしに向かっていう。 

 「大丈夫か?」

 「え?」

 「いや……。昨日おまえ様子おかしかったから」

 小野寺はそう言ってわたしの部屋に踏み込んでくる。枕もとにおかれた本に視線を向けて、それを手にとって溜息を吐く。

 「おかしかったって……? 昨日でしょ。何も変わったことなんか……」

 「そんなことないぞ。話しかけても返事しなかったし、普段からおとなしいけど昨日はなんか特別びくびくしてて。なんか不気味だったし。……そんなにショックだったのかなとか思ったんだが」

 「ショック?」

 わたしは鸚鵡返しに小野寺を見やる。すると小野寺はいぶかしそうにこちらを振り向いて

 「昨日のこと、忘れてる訳じゃないだろう」

 と言った。

 「いや……。昨日は一日中絵を描いてただけだけど……。どうかしたの?」

 そこで。小野寺は何かを察したように息を吐いてみせる。それからこちらに労わるような表情を向けて。

 「……春崎が寝込んでいるからおれが起こしに来てみれば。全部忘れてるな。良いか、よく見ろ。そしてよく聞け」

 言って。小野寺は鉄格子のはまった窓を大きく開放する。若干の雨粒が部屋の中に振り込んでくるのにかまわず、小野寺はわたしを窓の前まで連れてくる。そのままアタマを掴んだと思ったら、鉄格子の僅かなスキマのほうに押し込んでくる。

 「や……何するのっ」

 鉄格子のスキマは大きく、腕くらいなら簡単に通るけど、頭は流石につっかえる。霧雨は見た目よりずっと勢いが強くて、降り注ぐ雨を大量に浴びてしまう。変に甘い味だ。

 突っ込んだ張本人の小野寺はどこか神妙な顔をして、そして苦々しい声で伝える。

 「庭のほうを見ろ」

 いうので。わたしは滑り台やブランコの遊具が置かれた外庭のほうに目を向ける。

 妙なラインが引かれている。

 「へ?」

 まるで刑事ドラマみたいな、ロープをかたどった不思議なラインだ。それが庭のところどころに転々と配置されている。わたしはそれをまじまじと見詰めた。なんだあれ。わたしあんなの知らないぞ。

 「人が死んだんだ」

 目を丸くするわたしに小野寺は言う。

 「おまえの担当の一之宮だよ。……一昨日の夜殺されて、昨日の朝、発見されたんだってよ。おれも知ったのは昨日の昼だけど」

 そう言って小野寺はわたしの頭を鉄格子から引っこ抜く。

 がしゃりと窓が閉められて、小野寺はわたしの方を向き直る。

 「大丈夫か?」

 小野寺がそういう表情を、顔をずぶぬれにしたわたしはまじまじと見詰めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ