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 二日おき午後六時に投稿(予約済み)

 今朝も知らないベッドで目を覚ます。

 ここ最近ずっと見たこともないベッドの上で目覚めているように感じられる。などといっても、昨日どこで目が覚めたかなんてことをわざわざ覚えている訳でもない。

 このパジャマは着たことがある気がするのだが。黒色だが子供っぽいデザイン。着心地は良好。思い出す、わたしはこれが好きだ。

 ここはどこだろう。思いながらベッドを立ち上がる。わたしはこの場所を知っているのだろうか? 整然とした狭い目の部屋、床にはわたしのものらしい衣類が積まれている。どれも着たことがあるものばかりだ。天井を見る。見覚えのある黄ばんだ天井。あの隅っこにある模様に「勝太郎くん」と名前を付けたことだけはかろうじて記憶にある。

 なんで勝太郎だったっけ? 昔の友達の名前だったか?

 ふと枕元に目をやる。そこには見覚えのある本が一冊置かれている。字ばっかりで禄に内容も分からなかったが、しかし主人公が拷問にあって目玉をくりぬかれるシーンだけは覚えている。あれはどれくらい痛いのだろうか。ふと思い付いて自分の右目に手をかける。

 「くぼみちゃんっ。くぼみお姉ちゃんっ! 起きて、起きて朝だよっ!」

 妹の声がする。部屋の扉を執拗にノックしてくる。そうかわたしには妹がいたのか。そう思い出しながらベッドに腰掛けて、目玉の中に指を突っ込んでみる。ぐにゃりと視界の半分が捻じ曲がってゆれる。かたっぽの目は正常なのに、もうかたっぽがぐちゃぐちゃにゆれるのは不思議な感覚だ。なんだか少しおもしろいとも思う。楽しくてしばらくぐちゅぐちゅともてあそぶ。

 「お姉ちゃん。お姉ちゃんおきて、お姉ちゃん」

 この甘えた声を出してくる妹だけは、わたしがどのベッドで目を覚ましても存在しているような気がする。そんなことを考えながらわたしは目の中で目玉らしき球体を発見する。ぎゅっと指先で摘んでみると、これまでとは比べ物にならないような抵抗感が訪れる。痛みはしない、ただなんとなく気持ち悪いといった感覚だ。

 こんな程度の拷問で泣き出したり叫んだりするものだろうか。思いながらわたしは目の中から眼球を抜き取る。自分で思っていたほどそれは黒かったり丸かったりはしなくて、乱暴に扱った所為か形が崩れてぐちゃぐちゃになっている。口の中でしばらくもごもごした後のゼリーの塊とか。そんな感じ。

 「くぼみちゃんっ」

 そこで扉が乱雑に開けられる。中から白い髪をした大人が現れて、信じられないものを見るような目でわたしを見る。

 誰?

 「くぼみちゃん……」

 蒼白な顔で立ち尽くす大人。大人というよりおじいちゃんかな? とにかくそいつはおずおずといった具合で現れてわたしの傍による。何をそんなにおびえているんだろう。わたしはその青い顔に向かって問いかける。

 「あの。わたしの妹はどこですか? さっきまでそこにいたと思うんですけど」


 「今度は自分で目玉を引き摺りだすだなんて……。こんな孤児院なんかじゃなくて、しかるべき施設に入れてあげるべきなんじゃないでしょうか?」

 そう言ったのはやさしい顔をしたお姉さん。この人のことはちょっと知っているかも。後でここがどこなのか聞いてみると良いかもしれない。

 白い服を着た男性の手でアタマに包帯をぐるぐるされながら、おぼろげにそう思う。さっき目玉を抉り出した眼窩が若干痛む。ひりひりというよりずきずきって感覚だ。包帯を巻かれる前はちょっとすーすーしていた。 

 「どうしてあんなことしちゃったの?」

 訴えかけるようなお姉さんの声。ちょっとだけ泣いているようにも見える。はて。この人はどうして泣いているんだろうかと思いながら、わたしはその人に向かって微笑んでみせることにする。

 「二つあるから一個取っても良いじゃん」

 笑顔が一番だと聞いた。確かお母さんに。

 女の人はその場で倒れ付しそうに頭を押さえる。そのままわたしの手を取って歩き始める。病院に連れて行かれるらしい。

 大げさだなぁ。

 わたしは車に乗り込んでどこかに運ばれる。コンビニのチャーハンとかからあげの匂いのする車だ。内部のところどころ油でべたついて散らかっている。わたしは自分がここを知っていることを思い出す。わたしはふと思い付いてお姉さんにおねだりすることにする。

 「マック食べたい」

 「……病院から帰ったらね」

 お姉さんは真剣な様子でそう返事をする。わたしは途端に暇になって窓の外の様子を眺める。

 後ろを振り向くと『太陽の家』と描かれた看板が遠ざかっているのが分かる。この景色は何度か見たなぁとわたしはなんとなく回想する。そうかわたしはあの中にいたのか。わたしはお姉さんに質問を投げかける。

 「わたしの妹はあそこにいますか?」

 お姉さんはほとんど条件反射みたいに答える。

 「いないわ」

 あしらうような言い回しにわたしはなんとなくことを察する。

 「わたし、前も同じ質問しましたよね」

 「そうね。もう何回されたか覚えていないわ」

 と、お姉さんはへたくそなブレーキを踏んで信号機の前に止まる。前の車とぶつかりかけてひぃひぃと息を整えている。

 「わたし何も覚えてないんです」

 わたしはなるべく戸惑っているような様子をかもし出してそう口にする。これも多分何回口にしたのか分からないようなことだからだ。

 「なぁんか。朝おきるたびに違う世界にいるみたいな感じで。記憶そーしつっていうのかな? ていうかわたし誰ですか? お姉さんは?」

 「あなたは信条くぼみさん。太陽の家で預かっているあたしたちの家族よ」

 家族……という言葉に酷く多くの意味を押し付けられたような心地がした。

 「はぁ」

 それきりお姉さんは何も言わない。ただちょっとだけ苛立ったような悲しそうな表情をするばっかりだ。わたしはなんとなく顔を伏せて自分の手元を見る。お姉さんのものと比べても異常なほど真っ白くて小さな手。右手の人差し指がない。千切ったのだろうか。

 「わたしは十二歳です」

 「そうね」

 「わたしはテレビを見るのが好きです。わたしはマクドナルドのチーズバーガーが好きです。わたしは掃除をするのが好きです。わたしはよく自分の爪を噛んでお姉さんにしかられます。でもわたしはお姉さんが好きです」

 「あたしもくぼみちゃんのことが好きよ?」

 お姉さんにそういわれて、わたしはすごく嬉しくなった。綺麗に微笑む。お姉さんはそれに向かって微笑み返す。わたしは幸せな気持ちになる。


 病院に行ってお医者さんに叱られてマクドナルドでハンバーガーを食べて帰ってくる。昼ごはんに間に合わないからお姉さんと一緒に。

 ものすごく広い孤児院の中で子供は今のところわたししかいない。学校に行っていると聞かされる。なんとなくうらやましいなぁと思う。

 行ったことあったっけ? 学校。

 「部屋でお休みする? それともここでテレビ見る?」

 お姉さんに聞かれてわたしは部屋に戻ると伝える。一緒に行こうかと言われてわたしは信頼されていないものを感じて黙る。黙ってうなずこうかどうしようかと思っていると、お姉さんは何かを察したように言う。

 「じゃあお姉さん。お仕事あるから」

 わたしは部屋に一人で戻ってくる。

 戻ってくる途中でいくつか他の部屋を覗いてみる。二段ベッドが二つとか置かれた部屋が、いくつも並んでいる。ここだけベッドが一つだ。しかも大きい。ここは他の部屋とは違う特別な部屋で、しかもそれがわたしの部屋なんだなということを認識する。ちょっと得意になる。

 部屋に戻ってもすることがなくわたしは眠くなってしまう。午後の三時。このまま眠ってしまいたくなるけれど我慢する。また何か忘れてしまいそうだから。

 わたしはいったい誰なんだろう。どうして何も思い出せないのだろう。思いながらわたしは顔に巻かれた包帯に手をかける。お医者さんによってまきなおされた白い包帯。ぎっちりと丁寧に巻かれている。

 カイリセイなんちゃら症とかお医者さんには言われた気がする。意味が分からない。わたしはどこも悪くない、ただちょっと目を怪我しただけなのにみんな大げさだ。目なんかかたっぽあれば良い。どっちにしろ本は読めるし絵は描けるんだ。

 ふと思い付いて包帯を取ってみる。ぎちぎちまかれた包帯はあちこち固定されていてすごくはがしにくい。しばらくがんばっていると両手がべったべたになってくる。道具が必要だと思ってベッドの脇から大振りなナイフを取り出す。

 包帯を切り取ってはがす。ずるりと少しだけ赤っぽい包帯がわたしの足元に落ちる。

 ふと手に持っていたナイフを見る。

 なんだこれ。

 こんなもん持ってたっけ? 親指の先から小指の先くらいまであるそのナイフを、わたしはしばしもてあそぶ。ナイフというより包丁というか。料理よりは大工仕事に使いそうな大きな代物で、先っぽの方が若干錆びている。わたしは少しだけ気味が悪くなる。

 なんとなく手を突っ込んでなんとなく取り出したということは、わたしはこのナイフを存外使い慣れているということになる。わたしはこれを何に使っていたのだろう。思い出せない。

 アタマの中から何かが抜け落ちたみたいな感覚だ。わたしはふと思い付いて空洞になった眼窩に指を突っ込む。くちゅくちゅとアタマの中が引っ掻き回される音がする。目からアタマに続く音がする。

 ナイフにまつわる記憶がきっとどこかにはあるはずだ。そう思って精一杯指を突っ込んでみると、ぬるぬるの中に何か石みたいな硬さのものが引っかかる。なんだこれ。気になって引っ張り出そうとするけれど、指が引っかかって奥へ奥へと食い込んでいくだけでなかなか上手くいかない。

 先ほどのナイフを眼窩に突っ込んで見る。

 びっくりするほどの血液がおびただしく流れてくる。目玉を引き摺りだした時とは比べ物にならないほどの激痛。我慢する。我慢して石を引っ掛けてごりごりと引っかきだす。どばっと血やら肉やら訳分かんないものが飛び出す。中を掻き分けてさっきの石を取り出してみる。

 肉の石。

 そうとしか表現できないものだ。鮮やかなピンク色、本当に石みたいに無機質な形。丸でも四角でも三角でもない。小指のアタマほどの小さな石ころ。

 これがわたしの記憶なのか? いやそんなたいそうな代物であるようには見えない。どちらかというといらないものだからでてきたみたいな感じだ。鼻くそとか耳くそとかの親戚だと思う。

 「女の子が鼻くそなんて言うもんじゃねぇぞ」

 しばし呆然として石ころを見詰めていると、石ころの中からにゅっと何か小人めいたものが出現する。

 「あんた何考えてんだよ。何考えて僕っちを引き摺りだしてくれちゃってんの。脳みそついてんのかよ。え?」

 小人めいたものは六歳とか七歳とかの子供の姿を取って、わたしの手の上でぴょんぴょん跳ねる。背中からぶわっさと羽が生えて飛び上がる。そして抗議するかのように甲高い声でわめく。ほとんど聞き取りにくいような声だ。

 「えー。えー。おかしいって。ふつうねぇよ目の中に記憶とかねぇよ。探したって見付からねぇよ見付かる訳ないって。良い迷惑だよ迷惑迷惑。慰謝料払え」

 「あなた誰」

 騒ぎ出した小人に向けてわたしは尋ねる。小人はさも心外だといった表情でわたしの頭に飛びついておでこを蹴り飛ばす。地味に痛い。

 「えー。えーえーえー。バカじゃねぇのバカじゃねぇのバッカじゃねぇの。脳みそついてんの? 見てわかんないの? 天使だよ天使、見てのとおり天使だよ。おまえの良心」

 「りょーしん?」

 「そーだよそーそー。良心だよ。ほら。漫画とかで良くあるだろ。人の心には天使と悪魔がせめぎあってる奴。その天使の方だよ。おまえの天使」

 そう言って小人はわたしのおでこを執拗に攻撃してくる。両側から交互に繰り出されるジャブとストレートのコンビネーション。ばちっといやな音がしてわたしはその場でアタマをのけぞらせる。天使は満足したといった風に石に腰掛ける。

 「どーしてくれちゃってんの? 僕っち引きずり出すとかマジ正気じゃねーぞ。僕っちいないとおまえヤバいぞ、悪くなるぞ、とんでもなく陰鬱で卑怯で下劣な人間に成り下がるぞ? え?」

 「どうでも良いけど?」

 わたしは頭を振るって石に問いかける。

 「わたしの記憶はどこにあるの?」

 天使はあきれ返ったといった様子で肩をすくめる。

 「しらねーよんなことしらねーしらねー。おまえ今朝目玉えぐったろ。その時色々一緒に出てったろ? その中にあったんじゃねぇの? えぇ?」

 「……そうかも」

 「バカじゃねぇのおまえマジバカ。バカバカヴァーカ。こんなに床を血まみれにして何考えてんだアホだろおまえアホだろ。ここで人がやって来たらマジどう誤魔化すんだってばよ。あぁ?」

 そういうのでわたしは床に折りたたまれた衣類の一つを手にとって、散らかした床を掃除し始める。服を着るのは好きだけれど他に拭くものがないからしょうがない。血肉のしたたった床を吹き終えて上着をゴミ箱に放り投げる。一件落着。

 「おらてめー忘れてんぞてめー。足元だよ足元、おまえの腿とか膝とかくるぶしとかやばいくらい真っ赤だよ。見付かったらマジやべーって。マジ」

 「あ……っ」

 「それから包帯だよ包帯。とりっぱなしじゃやべーって。バカか」

 そういうのでわたしは包帯を手にとって自分の足元を吹く。前より若干赤くなったそれを無造作にアタマにまきつける。

 前が見えなくなる。

 「おめ―バカだろ。巻く方間違えてるから。おまえがえぐったのはな、右目だ、右目。左に包帯巻いてどうする。バーカ」

 そうだった。わたしは包帯を取ってまきなおす。今度は巻く側を間違えて包帯が両側とも真っ赤になってしまう。

 「手際わりーなぁおめー。おめーとろいよ。しっかりしろよ」

 「……ごめん」

 「謝るなよ僕はおまえに何もしねーから。おまえに何かしてくる奴は謝っても同じことしてくるから。気にすんな」

 かろうじて包帯を巻きなおして証拠隠滅を完了させる。その時部屋の向こう側からノックの音がする。

 「お姉ちゃんっ。いるかな? お姉ちゃん」

 小さな女の子の声がする。無邪気でわたしを頼ってくるような愛らしい声。まるで妹みたいだ。いいやお姉ちゃんと呼んでくるからには妹なのだろうか。でもお姉さんはわたしに妹はいないって言ってたしなぁ。思いながらわたしは気付かずに閉めていた部屋の鍵を開放する。全ての子供部屋の中でこの部屋だけは内側からも外側からも鍵がかけられる。

 「くぼみちゃん」

 やって来たのは今朝のお姉さんで、わたしは思わず手に持っていた石を窓に向かって放り投げる。

 「うわっ。何すんだよおめー」

 天使がわめく。石と一体である天使はそのまま窓にはまった鉄格子にぶち当たる。かしゃかしゃ音をたてて外に飛び出すのを見送ってから、わたしはお姉さんに向き直った。

 「なんですか?」

 「くぼみちゃん。今何したの」

 わたしは首をかしげる。お姉さんはそこで目を見開いてわたしの包帯に手をかける。

 「何したのくぼみちゃん」

 何故ばれた。お姉さんはわたしの包帯を取り外して目の中を覗き見る。

 「ちょっとこれ……どういうことなの?」

 どろりと血で汚れた目を見てお姉さんはわたしをしかりつける。わたしは目を伏せて謝る。

 「ごめんなさい」

 「自分の体でしょう? くぼみちゃん。どうしてちょっとは大事にできないの?」

 「はい」

 別に良いじゃないか。わたしは思うけど口には出さない。お姉さんはわたしのことを本気で心配してくれているから。こうやって一生懸命叱られると悪いことしたみたいな気持ちになる。

 いや。してるのだろう。わたしはお姉さんを心配させたから。

 「こっち着て」

 いうのでわたしはお姉さんについていく。台所で椅子に座らされる。救急箱が前に置かれる。

 「……消毒とかした方が良いのかな? これ。……ちょっと養護の先生呼んでくる」

 要領悪くお姉さんは飛び出していく。わたしはふと思い付いて椅子を立ち上がる。ちゃんと座っていないと起こられるから早めに済まさないとなぁと思いつつも。

 多分ここにあるはずだと思いながら台所の三角コーナーを見やる。お姉さんはさっきわたしがずっと握っていた目玉をタオルでくるんで取り上げた。その後タオルを台所ですすいでいたから、あるとしたらここだとは思ったけれど。自分の目玉が三角コーナーに放り込まれているのは変な気分だ。

 取り上げる。そして空っぽになった目の中に詰め込んでみる。そして何か思い出さないだろうかとしばし目を閉じる。閉じた目のスキマから、ゼリーみたいになった目玉があふれ出しそうになって大変だ。

 「…………」

 目を閉じてしばし。うんときばってみたけれど何も思い出さない。それでも何かないかとうんとがんばる。グーにした手を握り締めてじっとしていると、アタマの中に何か引っかかるものを感じる。 

 「……一之宮星羅?」

 お姉さんの名前だ。

 これくらいしか思い出すものがない。ぽろりとゼリー状の物体が目からこぼれて足元に落ちる。どうしようかと思って拾い上げたそれをポケットに突っ込む。目の中に入れておいてもどうせお姉さんにバレたら意味ないし。

 しばらくするとお姉さんが誰も連れずに帰ってくる。

 「そうだった。……養護の先生出張だった。じゃなきゃあたしがあなたを送っていったりもしないか」

 そう言ってお姉さんは軽く笑ってみせる。

 「一之宮先生」 

 とわたしはお姉さんのことを呼ぶ。

 「あら。名前思い出したの?」

 「しょっちゅう忘れるんですか?」

 「そうね。覚えてないことの方がずっと多いわ。一度思い出したら、それから一週間くらいはずっと覚えていてくれるんだけどね。……何が原因なのかしら?」

 「原因って?」

 「あなたの記憶が消えたり、蘇ったりすることよ。……たまに全部覚えていたり、その状態がずっと続いたり……。今日みたいにほとんど何も覚えていない時もある。お医者様は精神的なものだっていっていたけれど……」

 いいながら一之宮先生はわたしの頭に包帯を巻きつける。お医者さんがやるよりそれは少し乱雑で痛い。しかし痛いとか言ったら先生は心配するので我慢する。我慢して目を瞑る。何もない目を瞑る。

 「はい。できあがり。……本当はもう一回お医者さんに見てもらった方が良いんだけど……」

 いって一之宮先生は忙しそうに立ち上がる。

 「それじゃぁ。あたしみんなの晩御飯作らなきゃいけないから」

 「はい」

 「もうあんなことしちゃダメよ。絶対だから」

 いってお姉さんは忙しそうにばたばたと立ち上がる。わたしは手持ち無沙汰になって椅子に腰掛けていて、さっきの天使を迎えに行くために外に出る。


 「ちょっ。おめー。助けてくれよ、おめー。死んじゃうよ僕っち、死ぬよマジで。もぐもぐされる、もぐもぐされる……」

 いいながらわめくのはカラスに食べられそうにもがいている天使だった。肉の石でしかない天使がいくら暴れたところでカラスには叶わない。無表情な真っ黒い顔で肉の石を捉えてくちばしの先でつんつんしている。

 「殺される。やべーよマジで。やべーよ僕っち、食われちまう。いやだ。もぐもぐされるのはいやだ。むしゃむしゃしないで、やめて。やめさせてあげて。お願いだから」

 そう言って天使がわめくのでわたしは助けてあげようと思い至る。カラスを捕まえようとたったかかけるけど、足元の石に躓いてすっころぶ。目がかたっぽしかないから目算ができなかった。

 「この間抜け……うわーっ」

 カラスは天使をつまみあげて空に飛んでってしまう。気の毒だ。わたしは思って同情してカラスを見守る。自分の肉片だったものが食われるのはなんだか妙な気分だ。

 アンパンマンはおなかすいた子供に自分の頭を食わせるけれど、わたしはそれと同じくらいの善行をしたことになるのだろうか。そう思うと少しだけ誇らしい気持ちにもなる。外に出た目的を失ってわたしは自分の部屋へと帰っていく。

 暇すぎる。わたしは部屋の中を探索する。時間のあってない時計、黄ばんだ天井、床に詰まれた衣類、一冊だけある本。画材用具一式。

 「なんだこれ」

 キャンバスをめくる。真っ黒の煤だらけみたいな絵が出現する。

 全体に何羽も黒いカラスが描かれていて、その中央で一人の女の子が横たわってぱくぱくされている。小さな女の子に群がるカラスたちの表情はのっぺらぼうで、女の子の顔は子供が描いた漫画みたいにへたっぴだ。目なんか鉛筆でぐるぐる塗りつぶした上からぞんざいに黒い絵の具を置いただけ。わたしは酷く滑稽なその絵と画材道具一式を手にして外に飛び出していく。

 カラスの姿を探して歩き回る。夕焼け色に染まる空。ゴミ置き場の前でたかっている黒いカラスの集団を発見する。わたしはその前に腰掛ける。パレットの上に真っ黒な絵の具を落とす。絵の具は使い古されていてあちこちいろんな色でべたべたで残量も少なく、しかし鞄の中には予備がいくらでもあるから安心だ。

 わたしは何の抵抗もなくカラスを描くのにもっとも相応しい黒色を作る。それを塗りたくったカラスの肌の上にさらに重ねてみると、見事にその色が合致してわたしは気付く。これはわたしの描きかけている絵だと。

 ひとしきりカラスの体を黒く塗りつぶしている。カラスはほとんど全身真っ黒だけれど、くちばしとか目とかの黒は体の黒とは大分違う。カラスの表情は何も考えていないかのごとくのっぺらぼうで、引き摺るような長いくちばしはどこか不恰好でもある。

 背景色はカラスよりもさらに濃い夜の暗闇のようで、真っ黒に溶けた絵全体から同じく黒いカラスが浮かび上がっているようにも見える。中央にいる少女の肌はよどんだような白濁色で、それが真っ黒な全体に浮かんでいるので、なんだか反転させた目玉のようにも見える。わたしは少女の目の上に絵の具を置き足す。黒いチューブを捻ってそれをそのまま指につけておいてやり、上から筆でぐりぐりと塗る。筆に張り付いた色んな黒が原色の黒と混ざり合う。

 わたしはふと思い付いて少女の目のうちの片方を白く塗りつぶす。乾かしてからやるべきところを面倒がったためぐしゃぐしゃな感じになるが我慢。わたしは白い少女の右目の上に抉り取られた空洞の眼窩を書き足していく。ここで始めて赤い絵の具を使用する。少女はカラスに目玉をついばまれている。

 「うわっ。きめぇ」

 絵の具塗れになりながら絵描きに夢中になっていると、後ろから軽薄な感じの声がかかる。どこか聞き覚えのある感じがしてわたしは声のしたほうに振り返る。同じ年くらいの男の子が屈託なく人をバカにした顔を浮かべていた。

 「なんだよその絵。気持ち悪いし、おかしいよ」

 「どこがおかしいの?」

 わたしが訪ねると男の子は眉を顰め、ごみ置き場のカラスと絵の中のカラスを見比べて言う。

 「カラスは白いだろ」

 わたしは男の子のいうことが分からない。

 「黒いでしょ?」

 「白だ」

 「嘘でしょ?」

 「いやいや白だね。誰に聞いたって白っていうぞ? それともおまえにはアレが黒く見える訳?」

 わたしはうなずく。男の子は信じられないように頭を押さえる。

 「おまえそんなとこまでおかしいのかよ? すっげぇな」

 何がすっげぇのだろう。わたしが首をかしげていると、男の子はそこでふと息を整えて切り出すように口にする。

 「なぁ。おまえ。千円やるからパンティ売ってくんない?」

 そう言って男の子は頼み込むように両手を合わせる。

 「売ってって言ってくれるのおまえだけなんだよ。前に集めてたのは全部没収されたしな。良いだろ?」

 真剣に頼み込むように口にする男の子に、わたしはどこか真剣なものを感じ取る。あえて軽薄な声を出しているけれど、男の子はこれで結構真摯に頼み込んでいる。

 どうしてそんなもの欲しがるんだろう。わたしは思う。

 アタマがおかしいんじゃないだろうか。

 「何に使うの?」

 「そりゃまあ夜のオカズってかそんな感じだけど?」

 「ぱんつ食べるの?」

 「そういう意味じゃない……。とにかく頼むよ、なぁ。もう何もねぇんだよおれ。今までのコレクション品、全部取り上げられたんだよ。兜森の野郎が見つけて院長にチクったんだ。おれ院長に殺されかけたよ、たまんねぇよマジで」

 饒舌に捲し立てる男の子。そう言って両目を閉じて手を合わせてくる。とにかくただならぬものを感じたので了承してあがることにした。

 「良いよ」

 わたしが返事をすると男の子の表情がぱぁっと明るくなる。子供っぽい屈託のない笑みを浮かべて手を叩いて飛び上がって喜び始める。

 「やったっ! ありがとうサンキューな。おれおまえのこと好きだよ、大好きだ。だいぶ変だけどすげぇかわいいし。大事にするからな」

 そう言って男の子は胸のポケットから大事そうに千円札を取り出して渡してくる。わたしがそれをぼんやり受け取ると、男の子は再び手を差し出して期待に満ちた表情を浮かべる。

 「何?」

 「何ってくれよパンティ。おれ金だす、おまえパンティ寄越す。ギブアンドテイクだろ」

 「今すぐ?」

 「だから良いんじゃねぇか。それに万が一、こっそり別の奴を渡してくるとかされたら困るからな。絶対副院長のクソババァの奴なんて絶対いらねぇし」

 男の子はそこでさらに執拗に手を差し出してくる。

 お預けくらった犬みたいだと思う。

 「スカート履いてるんだからいますぐ大丈夫だろう? なぁ。ここでは嫌なら一緒に部屋に戻ってやるからさ。手渡しで頼むよ。もう千円出しても良いから」

 そういうのでわたしはしぶしぶスカートの中に手を突っ込む。まさか自分のぱんつが売り物になるとは思わなかったけれど。ほのかに体温の残るそれを差し出すと男の子は飛び上がる世に喜んでそれを掲げてみせる。変な光景だと思う。

 「いやっほーっ! 信条おまえやっぱホント最高だわ。ババアに捨てられてこんなとこぶちこまれて最悪だけど、おまえに会えたことだけは最高だわ。……ところでおまえ」

 男の子は歓喜に満ちた表情を崩さないままわたしの包帯を指差す。

 「どうしたの? そのケガ」

 アタマの包帯よりも先にわたしのぱんつの方に興味のある男の子。

 わたしにとって、小野寺正志との最初の出会いだった。

 

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