6話
ルシアンの背中が人波に紛れて見えなくなった。その後ろ姿を見つめたまま俺は、傍らにいた彼女に話しかけられても、上の空だった。頭の中からルシアンの姿が離れない。
(どうしてしまったんだ、俺は。最近はルシアンのことなんて忘れて、今の彼女を大事に思っていたはずなのに)
胸の奥が、騒いでいる。
(それなのにこの俺を見切っただと? 自分を守る本能が働いた?)
ふざけるな! 何度も頭の中で反芻されるその言葉。
ルシアンに嫉妬され、責められたわけでもない。それなのに、これほどまでに腹の底が煮えくり返るのは、初めてだった。
今まで、こんな態度を取られたことはなかった。常に自分を立て、黙ってついてきた婚約者。
多少ぞんざいに扱っても、最後には折れる女。
それが、突然、手のひらを返したように距離を置き、まるで『最初から期待していなかった』と言わんばかりの目で見る。
(冗談じゃないぞ!)
彼女は、俺のものだ。
少なくとも、そうであるはずだった。
俺は、無意識のうちに周囲を見回した。
視線を感じる。直接向けられてはいない。
だが、ひそひそと交わされる言葉、微妙に距離を取る立ち位置。
今までとは空気が違う。
(まさか、奴がなにか仕掛けたのか?)
思い浮かんだのは、ロイドの顔だった。
穏やかな笑みの裏に、何を隠しているのかわからない男。
(あの男、今までは一切関わろうとしなかったのに、ここにきて何故?)
いや、違う。
何も言わなくても、あの態度だけで十分だ。
今まではただ、我慢していただけだったのだ。
妹を大切そうにエスコートし、余裕のある振る舞いで、こちらを見透かしている男。
不快だった。
そのとき、背後から声がかかる。
「ピエール様、先ほどはご挨拶もそこそこで失礼しました」
振り返ると、数人の貴族たちが立っていた。
どれも、資金繰りや領地経営で、一度はロイドの世話になっている連中ばかりだった。
「あ、ああ」
「婚約者の方と、少し揉めておられたように見えましたが」
にこやかな口調。
だが、その目は、探っていた。
「若い頃は、色々ありますからな」
年配の貴族が言う。
「ええ、まあ」
適当に相槌を打ちながら、俺は焦りを隠せなかった。
まずい。
ルシアンが冷静で、俺の方が焦っていたこと。
それを公の場で示してしまったこと。
これでは俺の立場が悪くなる。
(まだだ、まだ婚約は続いている)
そう、自分に言い聞かせる。
彼女がいくら冷たくなろうと、正式な破棄の話が出ていない以上、主導権はこちらにある。
一方その頃。
壁際の目立たない場所で、ルシアンとロイドは並んでいた。
「予想以上に、効いているな」
飲み物を口にしながら、ロイドが小さく呟く。
「ええ。けれど、あの方は意地になりますわ」
「だろうな」
ロイドは微笑んだ。
「だからこそ、焦らせる。こちらから何もしないことが、一番効く相手だ」
その視線の先には、場に馴染めず、落ち着きを失っているピエールの姿があった。
「安心しろ、ルシアン」
ロイドは、低く、しかし確かな声で言った。
「彼は、必ず自分から動く。そして、その一手が、決定打になる」
ルシアンは、静かに息を吐いた。
もう、怖くはなかった。
迎え撃つ心の準備は出来ていた。




