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暴言と浮気を繰り返す婚約者  作者: ヴァンドール


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3/22

3話

 舞踏会当日までの一週間は、驚くほど早く、過ぎていった。


 ピエール様からの連絡は、それきり一度もない。

 以前なら、それだけで胸が騒ぎ、理由を考え、眠れぬ夜を過ごしていたかもしれない。

 だけど、今の私の心は不思議なほど凪いでいた。


 人は、心を決めると、こんなにも気持ちが楽になるのね。


 舞踏会用のドレスは、母の形見のドレスにした。

 淡いクリーム色に、控えめな刺繍のドレス。

 若い頃の私なら、もっと目立つ色を選んでいたと思う。

 けれど今は、控えめな美しさの方が、好きだった。


「よく似合っているよ、ルシアン」


 鏡の前でそう言ったお兄様は、いつもよりも正装が決まって見えた。

 自分で言うのも憚られるが、兄妹だというのに、並んで立つと妙に絵になっている。


「ありがとうございます、お兄様。今夜は私、少しだけ、強気で参りますわ」


「それでいい」


 そう答えた兄の声は、静かだけれど、とても力強く感じられた。


 会場に到着すると、すでに多くの貴族たちが集っていた。

 音楽、笑い声、ご夫人たちのひそひそ話。

 かつては胸を高鳴らせていたこの空気を、今は一歩引いた場所から眺めている自分がいる。


「いましたわ」


 視線の先では、ピエール様が若い令嬢の手を取っていた。


(本当に若い方がお好きね)


 彼女は鮮やかな色のドレスに、少し誇らしげな表情。

 周囲の視線を気にしている様子もない。


(私の存在は伝えてないようね。相変わらずだわ)


 不思議と、胸は痛まなかった。


「行こうか、ルシアン」


 兄の腕に手を添え、私は一歩、会場へ踏み出した。


 その瞬間、周囲のざわめきが僅かに変わる。

 視線が私たちに集まるのを感じ、背筋が自然と伸びた。


「見て、あのお二人、とても素敵だわ」


「本当になんてお似合いなの。美男美女のお出ましね」


 そんな囁きに内心照れながら、

(それは言い過ぎです)と苦笑した。


 そんな囁きを聞きながら歩いていると、ふと、ピエール様と目が合った。

 彼は、一瞬驚き、こちらを見ながら、理解が追いつかないという顔をしている。


 その表情を見て、私はようやく確信した。

 相変わらずこの人は何も考えてはいないのだと。

 そう、いつもこの人は思いつきで行動する。


 私に対し、兄にエスコートを頼めと言った貴方が、いざ兄を目の前にした時、どんな言葉を発するのか楽しみだわ。

 いくら我が家の方が家格が下だとはいえ、父や兄の尽力によって領地経営は安定している。それに加え、出資している事業も成功を収め、今では多くの貴族が資金援助を求めて訪れるほどだ。


 会場に流れる音楽が、次の曲へと移ろうとした時だった。


「おや」


 お兄様が足を止め、わざとらしく驚いたふりをして、声をかけた。


「これはこれは、我が妹の婚約者、ピエール殿ではありませんか」


 その声に、ピエール様がびくりと肩を揺らした。

 隣にいる令嬢が、不思議そうに彼の顔を見上げている。

 ピエール様は彼女より、今はお兄様に対してのみ、気を取られていた。


「ロ、ロイド殿」


(あら、流石に焦っているみたいね)


「お久しぶりですな。妹がいつもお世話になっているようで」


 兄は微笑みながら、私の手に添えたままの腕を少し引き寄せた。

 

「聞いていますよ。今夜は、別のご令嬢をエスコートなさるとか」


「そ、それは……」


 ピエール様は一瞬、私に視線を向けた。

 けれど私は、ただ静かに微笑み返すにとどめた。


「いえいえ、誤解なさらず」


 兄はあくまで穏やかに続ける。


「妹が快く了承したと聞き、感謝しているのです。おかげで、私も今夜はこうして、久しぶりに妹をエスコートすることができました」


「い、いや」


 言葉に詰まったピエール様の額に、うっすらと汗が滲んだ。


 兄はそこで一拍置き、にこやかに付け加えた。


「もっとも……」


 その声が、わずかに低くなったのを、私は聞き逃さなかった。


「婚約者のいる身で、正式な舞踏会に別の女性を伴うのは、ずいぶんと勇気の要る決断だ。さぞかし、覚悟がおありなのでしょうな」


 周囲の空気が、ぴんと張りつめるのがわかった。


「そ、それは……事情があってだな」


「ええ、事情。そういうものは、誰にでもあります」


 兄はそこで話題を切り替えるように、隣の令嬢へと視線を向けた。


「失礼。こちらは?」


「か、彼女は友人の妹で」


「そうですか。友人の妹なら問題ないとお考えなのですね」


 兄は丁寧に一礼した。


「ルシアンの兄でございます。今宵は、どうかごゆっくりお楽しみください」


 その完璧な社交辞令が、かえって残酷に聞こえた。


 兄はそれ以上何も言わず、私を伴って踊りの輪へと歩き出した。


 背中に突き刺さる視線を感じながら、私は思った。


(お兄様、完璧だわ! 帰ったら褒めてさしあげましょう)


 彼が選んだのは、私ではなかった。けれど不思議なほど悲しみは感じなかった。

 どこかで望んでいた結末なのかもしれない。


 ふと、幼かった頃、彼から言われた言葉を思い出した。

 私が彼にやきもちを妬いた時に、吐き捨てるように言われた。


『これ以上追求するなら、お前の家族もめちゃくちゃにしてやる。貴族としてやっていけなくするぞ』


 あの日の言葉がずっと、トラウマとなっていた。でもこれでやっと解放される。

 

 今ならわかる。あのような脅しに、私の父や兄が負けるはずはないと。それなのにあの時の私は幼く、家族に迷惑をかけたくない、心配をかけたくない、そう思い、ずっと言えずにいた。

 

 もう怯えながら付き合っていくなんてごめんだわ。


 私はいつの間にか、穏やかで優しい人を求めるようになっていた。ピエール様とは真逆な人を。


『自信を持って、ルシアン! 今度こそ本当に終わりにするのよ』


 私は自分に気合いを入れた。




 


 

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