3話
舞踏会当日までの一週間は、驚くほど早く、過ぎていった。
ピエール様からの連絡は、それきり一度もない。
以前なら、それだけで胸が騒ぎ、理由を考え、眠れぬ夜を過ごしていたかもしれない。
だけど、今の私の心は不思議なほど凪いでいた。
人は、心を決めると、こんなにも気持ちが楽になるのね。
舞踏会用のドレスは、母の形見のドレスにした。
淡いクリーム色に、控えめな刺繍のドレス。
若い頃の私なら、もっと目立つ色を選んでいたと思う。
けれど今は、控えめな美しさの方が、好きだった。
「よく似合っているよ、ルシアン」
鏡の前でそう言ったお兄様は、いつもよりも正装が決まって見えた。
自分で言うのも憚られるが、兄妹だというのに、並んで立つと妙に絵になっている。
「ありがとうございます、お兄様。今夜は私、少しだけ、強気で参りますわ」
「それでいい」
そう答えた兄の声は、静かだけれど、とても力強く感じられた。
会場に到着すると、すでに多くの貴族たちが集っていた。
音楽、笑い声、ご夫人たちのひそひそ話。
かつては胸を高鳴らせていたこの空気を、今は一歩引いた場所から眺めている自分がいる。
「いましたわ」
視線の先では、ピエール様が若い令嬢の手を取っていた。
(本当に若い方がお好きね)
彼女は鮮やかな色のドレスに、少し誇らしげな表情。
周囲の視線を気にしている様子もない。
(私の存在は伝えてないようね。相変わらずだわ)
不思議と、胸は痛まなかった。
「行こうか、ルシアン」
兄の腕に手を添え、私は一歩、会場へ踏み出した。
その瞬間、周囲のざわめきが僅かに変わる。
視線が私たちに集まるのを感じ、背筋が自然と伸びた。
「見て、あのお二人、とても素敵だわ」
「本当になんてお似合いなの。美男美女のお出ましね」
そんな囁きに内心照れながら、
(それは言い過ぎです)と苦笑した。
そんな囁きを聞きながら歩いていると、ふと、ピエール様と目が合った。
彼は、一瞬驚き、こちらを見ながら、理解が追いつかないという顔をしている。
その表情を見て、私はようやく確信した。
相変わらずこの人は何も考えてはいないのだと。
そう、いつもこの人は思いつきで行動する。
私に対し、兄にエスコートを頼めと言った貴方が、いざ兄を目の前にした時、どんな言葉を発するのか楽しみだわ。
いくら我が家の方が家格が下だとはいえ、父や兄の尽力によって領地経営は安定している。それに加え、出資している事業も成功を収め、今では多くの貴族が資金援助を求めて訪れるほどだ。
会場に流れる音楽が、次の曲へと移ろうとした時だった。
「おや」
お兄様が足を止め、わざとらしく驚いたふりをして、声をかけた。
「これはこれは、我が妹の婚約者、ピエール殿ではありませんか」
その声に、ピエール様がびくりと肩を揺らした。
隣にいる令嬢が、不思議そうに彼の顔を見上げている。
ピエール様は彼女より、今はお兄様に対してのみ、気を取られていた。
「ロ、ロイド殿」
(あら、流石に焦っているみたいね)
「お久しぶりですな。妹がいつもお世話になっているようで」
兄は微笑みながら、私の手に添えたままの腕を少し引き寄せた。
「聞いていますよ。今夜は、別のご令嬢をエスコートなさるとか」
「そ、それは……」
ピエール様は一瞬、私に視線を向けた。
けれど私は、ただ静かに微笑み返すにとどめた。
「いえいえ、誤解なさらず」
兄はあくまで穏やかに続ける。
「妹が快く了承したと聞き、感謝しているのです。おかげで、私も今夜はこうして、久しぶりに妹をエスコートすることができました」
「い、いや」
言葉に詰まったピエール様の額に、うっすらと汗が滲んだ。
兄はそこで一拍置き、にこやかに付け加えた。
「もっとも……」
その声が、わずかに低くなったのを、私は聞き逃さなかった。
「婚約者のいる身で、正式な舞踏会に別の女性を伴うのは、ずいぶんと勇気の要る決断だ。さぞかし、覚悟がおありなのでしょうな」
周囲の空気が、ぴんと張りつめるのがわかった。
「そ、それは……事情があってだな」
「ええ、事情。そういうものは、誰にでもあります」
兄はそこで話題を切り替えるように、隣の令嬢へと視線を向けた。
「失礼。こちらは?」
「か、彼女は友人の妹で」
「そうですか。友人の妹なら問題ないとお考えなのですね」
兄は丁寧に一礼した。
「ルシアンの兄でございます。今宵は、どうかごゆっくりお楽しみください」
その完璧な社交辞令が、かえって残酷に聞こえた。
兄はそれ以上何も言わず、私を伴って踊りの輪へと歩き出した。
背中に突き刺さる視線を感じながら、私は思った。
(お兄様、完璧だわ! 帰ったら褒めてさしあげましょう)
彼が選んだのは、私ではなかった。けれど不思議なほど悲しみは感じなかった。
どこかで望んでいた結末なのかもしれない。
ふと、幼かった頃、彼から言われた言葉を思い出した。
私が彼にやきもちを妬いた時に、吐き捨てるように言われた。
『これ以上追求するなら、お前の家族もめちゃくちゃにしてやる。貴族としてやっていけなくするぞ』
あの日の言葉がずっと、トラウマとなっていた。でもこれでやっと解放される。
今ならわかる。あのような脅しに、私の父や兄が負けるはずはないと。それなのにあの時の私は幼く、家族に迷惑をかけたくない、心配をかけたくない、そう思い、ずっと言えずにいた。
もう怯えながら付き合っていくなんてごめんだわ。
私はいつの間にか、穏やかで優しい人を求めるようになっていた。ピエール様とは真逆な人を。
『自信を持って、ルシアン! 今度こそ本当に終わりにするのよ』
私は自分に気合いを入れた。




