17話
その後、仕事の話を終えて、隣室の執務室に入ると、机の上に書類の束を見つけた。ランガーは一瞬、あれ? 確か、先ほどまではなかったはずだ。
よく見ると見覚えのある筆跡だった。
(あ、ロイド殿、か。商談中だったから置いて帰ったのか)
すぐに納得がいった。
その日の夕刻。
ルシアンは、真剣な表情で兄の執務室を訪れた。
「お兄様」
「どうした? 浮かない顔をして」
扉を開けて入ってきた、妹の様子を見て、すぐに気づいた。
(大事な話があるのだな)
「一つ、お願いがあります」
ルシアンは、まるで何か、覚悟でも決めたように話し出した。
「釣書を頂いている侯爵家の嫡男様。その方とのお見合い、お受けしようと思います」
一瞬、ロイドは瞬きをした。そして妹の目を見る。
「そうか」
様子をうかがうように、頷いた。
「理由を聞かせてくれ」
「それは……今度ゆっくりお話しします」
そう言って、ルシアンは、微笑んだ。
ロイドは、しばらく黙っていたが、やがて椅子にもたれた。
「分かった。お前が自分の意志で決めたのだから、正式に話を進めよう」
その声は、兄として、というよりも当主としての言葉だった。
しかし、
(……本当に、それでいいのか?)
胸の奥で、そう問いかけながら、当主ではなく兄としての心配がそこにはあった。
ルシアンは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
執務室を出た後。
廊下を歩きながら、彼女はそっと胸に手を当てた。
まだ、痛みはある。
簡単に消えはしない。
だけど。
(この想いは、終わらせなければならない)
誰かを想い続けながら、別の人を選ぶことは出来ない。
それは、相手にも、自分にも、不誠実なことだと自分に言い聞かせた。
その後。
ランガーは、ロイドに呼ばれ、エクセラル子爵家の執務室を訪れていた。
商談でも相談でもない、妙に改まった呼び出しだった。
「座ってくれ」
ロイドの声はいつもより、僅かに沈んだ声だった。
ランガーは、それを気にかけながら、向かいの椅子に腰を下ろした。
「用件とは?」
単刀直入に尋ねると、ロイドは一度、視線を落とした。
「ルシアンがな」
その名を聞いた瞬間、ランガーの胸が、わずかに脈打つ。
「侯爵家の嫡男との、お見合いを受けると決めた」
一瞬、言葉が理解できなかった。
「……そう、ですか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
ロイドは、その反応を見逃さなかった。
「君は、それでいいのか?」
まるで責められているようだった。
「本当に、それでいいと思っているのか」
ランガーは、平静を取り繕った。
「彼女が選んだ道です。私は、口を挟む立場ではありません」
「そうか」
ロイドは、すぐには否定しなかった。
だが、その目は、兄のものだった。
「では聞くが」
机に掌をつき、身を乗り出す。
「君は、何も感じないのか?」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
だが、ランガーは視線を逸らさなかった。
「感じないわけがありません」
低く、しかしはっきりと答える。
「……ですが」
言葉を選ぶ。
「彼女には、彼女にふさわしい男がいます。その相手を自身で決めたのなら、私が出る幕などありません」
自分に言い聞かせるような口調だった。
「彼女が笑っていられるのなら、それでいい。それが、彼女の選んだ相手とならなおさらです」
ロイドは、ゆっくりと息を吐いた。
「相変わらずだな、君は」
「何がでしょう」
「自分の価値を、まるで分かっていない」
そう言って、立ち上がる。
「ルシアンは、自分で選ぶと言った。だから私は、その決断を尊重する」
ロイドは、ランガーの目を見た。
「だが、君が本心を隠したままでいいのかどうかまでは、分からない」
「本心を明かして、彼女を困らせたくはありません。既に決断したなら尚更です」
それは、痛みを伴う覚悟だった。
「私の願いはただ一つ。彼女がいつも穏やかな笑顔でいられる未来です」
それを聞いたロイドは、それ以上、何も言えなかった。
ただ一言。
「そうか。それが君の出した答えということか」
執務室を出た後。
ランガーは、長い廊下を歩きながら、胸の奥に広がる痛みを、静かに受け止めていた。
(これは、彼女のためなんだ)
何度も、何度も、自分に言い聞かせる。
それが、彼女の幸せなんだ。と。
たとえ、この想いを伝えることができなくても、そばで彼女の笑顔を見ることが出来るならそれでいい……。それが自分には相応しい。
しかし、後悔をしない自信まではなかったランガーだった。




