16話
次の日。
やはり、無理だ。
執務室の椅子に腰掛け、ランガーは深く息を吐いた。
ロイドの言葉が、まだ耳に残っている。
名乗りを上げてもいいのではないか。
彼は、簡単に言う。
だが、それがどれほど自分にとって、重い言葉か、彼には分かっていない。
(釣り合わない)
それは謙遜ではなかった。
事実だと、ランガー自身が誰よりも思っていることだった。
確かに、仕事には自信があった。
金融の才覚も交渉力も、自分なりに努力を重ねて、それなりの結果を出している自負はある。
それに王家の財政難の際にはそれなりの寄付や献金もしてきた。そういった点では胸を張れる。
しかし、社交界で人を惹きつける魅力はない。
冗談のひとつも言えない。
見目も、決して良いとは言えない。
そして何より。
ルシアンの顔が、脳裏に浮かんだ。
彼女は怯えながらも立ち向かい、遂には自由を勝ち取った。その姿は強く、美しい。
そんな彼女には、もっと相応しい男がいるはずだ。
未来を明るく、照らしてくれる存在が。
それが、自分でないことだけは、はっきりしている。
(自分には、守る資格はあっても、名乗りを上げる資格はない)
それでも。
想いが、消えるわけではなかった。
なら、せめてロイドと共に彼女の近くで、その笑顔を、そして、幸せを見届けようと、心に決めたランガーだった。
数日後。
ランガーは、王都の一角にある侯爵邸の応接室にいた。
向かいに座るのは、一人の女性。
侯爵家の未亡人。
亡き夫の後を継ぎ、まだ幼い嫡男と共に領地経営を支えている人物だった。
「本日は、お時間を頂き、感謝します」
柔らかな物腰の、その方の瞳の奥には、疲労と覚悟が滲んで見えた。
「夫が亡くなってから、資金繰りが厳しく、何とか領地を守りたいのですが、息子はまだ幼く、どうしたら良いのか分かりません」
ランガーは、静かに頷いた。
「状況は理解しました。拝見した帳簿からすると、無理な投資は一切されていませんね。堅実な経営です」
未亡人の表情が、ほっと緩む。
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけで、救われます」
それから、その方と、何度か面会を重ねた。
領地の収支。
将来を見据えた融資計画。
幼い嫡男をどう支えるべきか。
ランガーは、あくまで仕事として、誠実に助言をしていただけだった。
その日も、いつものように。
「今日は、息子も連れて来ておりますの」
そう言われ、応接室に通した。
緊張している少年に、優しい言葉をかけ、彼の表情を和らげた。
その光景を……。
扉の外から、誰かが見ていたことに、気づくことはなかった。
(やはり……)
廊下の陰で立ち尽くしながら、ルシアンは胸を押さえた。
穏やかに微笑むランガー様。
向かいに座る、美しい貴族女性と、たぶん、その方の子供。
それは、まるで家族のような光景だった。
あの女性はどこかで……見覚えがあった。
私は記憶を巡らせた。
そう、いつだったか、お兄様と参列したルイノール侯爵様の葬儀。その際、喪主を務められていた方だわ。
つまり、今は未亡人ということになる。
(そういうことだったのね。それなのに私ったら……)
胸が、ちくりと痛んだ。
今日にかぎって、兄に頼まれ書類を届けに来ただけなのに、偶然見かけた光景に、見てはいけないものを見てしまった気がして、ランガー様に声をかけることが出来なかった。
自分が何を期待していたのか、分からない。
けれど、その光景を見てしまった瞬間、何かが静かに崩れた。
釣り合わない。
彼がそう言った理由が、今なら分かる気がする。
(きっと、あれは彼なりの優しさだったのね。それなのに私ったら、勘違いをして……僅かな期待をしてしまった)
胸の痛みを抑えながら、私は頼まれた書類を、隣室のテーブルに置き、そっとその場を後にした。
その夜。
机の上に置かれた釣書の一通に、ルシアンは視線を落とす。
侯爵家嫡男。
家格も、人柄も、申し分ないと評判の相手。
(……前を向かなくては)
これ以上、誰かに心を乱されるのは、もう終わりにしたい。
ゆっくりと、その釣書を手に取った。
返事をするべきか。それとも。
答えは、まだ出ない。
ただ一つ確かなのは。
この胸の痛みが、思った以上に厄介だということだった。
彼女の脳裏には、今日目にした三人の仲睦まじい姿が、焼きついたままだった。




