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アラーム音         :約2500文字

作者: 雉白書屋

 ――ピピピ、ピピピ、ピピピピピ…………


「ん……はあ……」


 ――ピピピピピピ


「ん……?」


 男は、浅い水底から無理やり引き上げられるような感覚とともに目を覚ました。肺に残った水を吐き出すように、一つ大きく息をついた。

 いつも通りの朝だ。雑に閉じられたカーテンの隙間から細い朝日が差し込み、薄暗い部屋の床に淡い光の筋を落としている。窓の外からは鳥の甲高い鳴き声や通勤者が足早に通り過ぎる靴音、近所の老人が箒で道を掃く乾いた音。決まりきった日常の音が静かに部屋の中へ流れ込んでくる。

 男は枕元の目覚まし時計に手を伸ばし、アラームを止めた。重たい体を起こして、指先で目ヤニをこそげ落としながら、ふと首を傾げた。

 今のは……気のせいか……。

 そう思い直し、鼻を軽くこすってベッドを下りると、洗面所へ向かい、いつも通りの手順で身支度を始めた。


 ――ピピピピピピ……



 ◇ ◇ ◇



「……なあ」


「ん?」


 会社。デスクでキーボードを叩いていた男はふと手を止め、隣の席の同僚に声をかけた。


「なんか、アラームの音がしないか……?」


「アラーム?」


「ピピピピってやつ。目覚ましの音みたいな」


「……いや? しないが」


 同僚は少し考え込むように宙を見上げたあと、眉をひそめ、小さく首を傾げた。


 ――ピピピピピピ……


「そうか……」


 じゃあ、これはなんだ……?

 朝の身支度の最中も、家を出て道を歩いているときも、電車の中でも、確かにこの音は断続的に聞こえていた。妙に規則正しく、はっきりしている。耳鳴りにしては輪郭がありすぎる。


「鳴ってると思うんだがな……」


「おいおい、幻聴じゃないのか?」


 男は納得できず、不貞腐れたように呟くと、同僚は冗談めかして笑った。


 ――ピピピピピピ……


「そうかな……でも、確かに今もはっきり聞こえるんだが……」


「疲れてるんだろ。ちゃんと眠れてないんじゃないか? 夜中に何度もトイレに起きたりしてさ」


「いや、そんなことは……というか、それはお前だろう」


 ――ピピピピピピ……


「ははは、歳だよなあ。いつの間にか後輩がどんどん増えてよ。でも、うだつは上がらねえのな。はははは!」


「笑えんよ……まあ、食えていければそれでいいんだけどな」


「生意気なやつも増えてよお。……あ、今夜飲みに行くか」


「いやあ、愚痴を聞かされるのは勘弁だな」


「いいじゃねえか。ははは! まあ、そうは言っても会社に目覚まし時計持ってくるやつなんて、さすがにいないだろう」


「それはそうだが……」


 ――ピピピピピピピ……


「まあ、耳に残る音ではあるよな。止めたあとも、しばらく頭の中で反響してさ」


「まあな……」


 ――ピピピピピピ……


「ほら、たまに頭の中で勝手に曲が流れることがあるだろ。それと同じだよ」


 ――ピピピピピピピ……


「いや……いや、やっぱり聞こえる……なあ、本当に聞こえないのか?」


「聞こえんよ。ストレスだろう」


「いや、別にストレスなんて……」


 ――ピピピピピピ……


「そういうのはな、自分じゃ気づかなくても、環境の変化とかで無意識に来るもんなんだよ。あっ、あれだろ?」


「なんだ?」


 ――ピピピピピピピ……


「奥さん、今旅行中で家に一人なんだろ?」


「ああ、そうだが……」


「それだろ、原因は。家事も全部、自分でやらなきゃいけなくなってさ。その疲れが出てんだよ」


「いや、それくらい独身の頃に普通にやっていたしな……」


 ――ピピピピピピ……


「ははは、もうずいぶん昔の話だろ。婦人会の旅行だったか? 電話で泣きついて早めに帰ってきてもらったらどうだ?」


「そんなことできるわけないだろ……」


 ――ピピピピピピピピ……


「いやあ、実はうちのもこの前実家に――」


「ん?」


「どうした?」


「い、いや……なあ、そこの君」


 男は椅子から立ち上がった。少しよろめき、慌てて机に手をついた。そのまま体を支えるようにしながら、新入社員の席へと歩いていった。


「はい?」


「そ、その手に持ってるのは、なんだ……?」


 男は新入社員の手に握られている四角い物体を指さした。


「え? これは――ピピピピ――ですよ」


「……え? すまない、よく聞こえなかった」


「――ピピピピ――です」


「え、いや、だから」


「おい君、社内で――ピピピピ――は使用禁止だぞ」


「ああ、すみません部長。電源切っておきます」


「電源……? なあ、その機械から音が鳴ってないか?」


 ――ピピピピピピピピピピ……


「ほ、ほら! 聞こえるだろ!」 


「え、でも今、電源切りましたよ?」


 ――ピピピピピピ……


「鳴ってるじゃないか!」


 ――ピピピピピピピピピ……


「ど、どうしたんですか。ちょっと落ち着いてくださいよ」

「おい、顔色悪いぞ。座ったらどうだ」

「どうした?」


 ――ピピピピピピピピピピピピピピピピピピ


「頼む、止めてくれ……!」


 ――ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ


 男は両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。だが音はまったく遮れない。頭蓋の内側を直接叩かれているかのようだった。

 音の奔流に視界が滲み、床がゆっくりと遠ざかっていく。

 目を閉じると、だんだん自分が宙に浮いているような、あるいはどこかに横たえられているような不確かな感覚が広がっていった。

 それでも音は鮮明にピピピピピピピピピピピピピピピピピ世界が歪みピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ男はピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ


「これは……目覚ましじゃない……」




 ――ピッ、ピッ、ピッ


 男が目を開けると、白い天井があった。鼻を突くかすかな消毒液の匂い。そこは病室だった。

 ぼんやりとした意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。同時に、さっきまでの出来事は急速に色を失い、霧の向こうへ引いていく。長年の付き合いの同僚の顔も、連れ添った妻の面影も、掴もうとすると指の隙間からこぼれ落ちていった。

 男は震えながら首をゆっくりと横に向け、音の発生源を探した。

 そして、思い出した。


 ――ピッ、ピッ、ピッ


「おれは……事故で……妻は……妻なんて……」


 それは、彼の心電図モニターの音だった。そして今、その役目は――


 ――ピッ、ピッ、ピー………………

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