終わらない悪夢
【発狂までのカウントダウン——】
山瀬は初デートから積極的だった。その日にホテルに誘われ、奈央はすんなり応じた。
女性経験が豊富なのか、山瀬はベッドの上でとても落ち着き払っていた。奈央はただ身を委ねるだけでよかった。
雅とのセックスは、キスを交わし、胸を軽く揉まれる程度の前戯でそのまま挿入という単調な流れだったが、山瀬は前戯にたっぷり時間をかけ、何度も体位を変えながら終始興奮を途切れさせないようにしてくれた。人によって、セックスがこれほど違うものなのかと驚きを覚えるほどだった。
こうして、奈央は山瀬と交際を始め、週末は必ず二人で過ごすようになった。金曜日の仕事終わりに食事をし、そのまま山瀬の自宅で一夜をともにするのが定番の過ごし方になった。
身体を許したとたんに態度が変わる男も多いと聞くが、山瀬は変わらず優しく接してくれた。そのおかげで、奈央は満ち足りた時間を過ごせていた。彼のために料理の腕を磨くことにも熱心になった。もともと料理は得意なほうではなかったが、少し手の込んだレシピに挑戦したりと努力を重ねた。
プライベートだけでなく仕事も順調だった。熱心な姿勢が評価されて多くの業務を任されるようになり、ますます仕事にも熱が入るようになった。公私ともに充実した日々が送れていて、奈央はこの幸せが長く続くことを願った。
* * *
働きはじめて半年ほど経ったころのことだった。出社すると、社内の空気がどこか張り詰めているのがわかった。奈央の胸が、急にざわつき始める。
「奈央ちゃん、おはよ」
同僚の竹内真里が笑顔で声をかけてきた。奈央はほっと胸をなで下ろす。緊張の原因が自分ではないとわかったからだ。
「おはよう。何かあったの?」
奈央が聞くと、真里は少し声をひそめて答えた。
「よくわかんないけど、上の人たちだけで会議してるみたい」
「そうなんだ……」
奈央の胸が再びざわついた。早朝から開かれている異例の会議。どうか自分とは無関係であってほしい——そう願わずにはいられなかった。
始業時間になったが、役職者全員が会議に出席しているため朝礼は中止となった。
奈央は不安で落ち着かず、仕事に集中できずにいた。やがて三十分ほどして、会議室の扉が開く音がした。どうやら会議が終わったようだ。すると、会議室から出てきた人事部の男性社員がこちらに向かってくるのが見えた。石川という名の中年男だ。
「本田さん、ちょっと来てもらえるかな?」
困り果てた彼の表情を見た瞬間、悪い予感は確信に変わった。周囲が急にざわつき始める。
奈央は動揺を抑えて、どうにか立ち上がる。隣の席に座る真里が、不安げな顔を向けてくる。奈央は顔を伏せて、前を歩く石川のあとに続く。
面談室に通され、奈央は白いテーブルを挟んで石川と向かい合って座った。彼の顔は渋り切っていた。呼び出された理由は一つしか思い当たらない。大学在籍時の悪夢がよみがえる。
まさか、ここにまで送りつけてくるなんて!
死刑宣告を待つ罪人のような面持ちで、奈央は石川の言葉を待った。
「実は、こんなものが届いたんだ」
石川がそう言って差し出したのは、A4サイズの見慣れた紙だった。
奈央はすぐに紙から視線を外した。詳しく確認するまでもなく、それが実家や大学にばら撒かれたものと同じものだとわかった。
「これ、見てもらえるかな?」
石川にそう言われても、奈央はうつむいたまま奥歯をぎゅっと噛みしめた。その態度でもろもろ察したのか、石川はそれ以上強要してこなかった。
「本当は、斉藤君にも同席してほしたかったんだけど……」
斉藤は奈央の直属の上司だったが、数日前からインフルエンザで休んでいた。
石川が言いにくそうに続けた。
「入社時に誓約書に署名してもらったの覚えてるかな? そこに、従業員が会社に損害を与えると判断された場合、即刻解雇できるって書かれてるんだ。それで今朝、君について緊急会議が開かれてね、このまま君を雇用し続けるのは会社にとってリスクが高いと判断されたんだ。そういうことだから、申しわけないけど今日付けで依願退職という形を取らさせてもらいたい」
奈央は悔しさに唇を噛んだ。しかし、ここで抗議しても結果は変わらないのは目に見えていた。
「はい、わかりました……」
退職の手続きを終えて面談室から出ると、周囲の視線が鋭い矢のように突き刺さってきた。奈央はうつむきながら、足早に自分のデスクへ向かった。
退職のために私物の整理を始めると、オフィスの空気がさらに緊迫するのがわかった。まるで、広場に丸裸で立たされているような羞恥心に襲われた。誰もが無関心を装いながらも、こちらの動向に注目しているのがわかる。隣に座る竹内真里も例外ではない。パソコンに集中する振りをしながらも、こちらの動きを気にする様子が伝わってくる。それでも、彼女は決して声をかけてこようとはせず、まるで奈央が存在しないかのように振る舞っている。自分に何らかの火の粉が降りかからないようにと、しっかりと壁を作っているのがわかる。奈央はその冷たい態度に深く傷つき、目から涙があふれ出しそうになったが、奥歯を噛みしめながら黙々と私物の整理を続けた。
私物を片付け終えたあと、奈央はどうしても気持ちを抑えきれずに、交際相手の山瀬が座るデスクに目をやった。
「え……!?」
少し離れた席に座る山瀬を見た瞬間、奈央はショックで顔から血の気が引いていくのがわかった。彼はこちらの視線に気づいているはずなのに、頑なに顔を上げようとしない。硬い表情でパソコン画面をじっと見つめている。
奈央は、彼との関係も終わったことを悟った。これほど冷たく拒絶されたあとでは、たとえ彼から連絡があったとしても、今まで通りの自然体で接するのはむずかしいだろう。
オフィスの入館証を返却するために、奈央は人事部の石川のもとへ向かった。失恋のショックと羞恥心から顔を上げることができず、染みの目立つ足元の灰色のカーペットを見つめながら歩く。その間、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえる。泣くのは、この地獄のような時間をやり過ごしてからでいい。もしここで泣き崩れてしまえば、さらに惨めな思いをするだけだ。この場に自分の味方は一人もいない。そんな場所で泣いたところで、誰も慰めてはくれないだろう。だから今は、絶対に弱さを見せるわけにはいかなかった。
奈央は一度立ち止まると、目元に溜まった涙を乱暴に拭った。
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