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ドロ沼

「思ったより早く用意できたね」

 華菜子が封筒を差し出すと、相手は悪びれもせずそう言った。

 目の前で、本田奈央が封筒の中の札を一枚一枚ゆっくりと数え始める。華菜子は彼女が数え終わるのを辛抱強く待つ。やがて、相手は満足げな様子で札を封筒に戻した。

 華菜子は相手をきつく睨みながら口を開いた。

「ねえ、これであの動画、消してくれるよね?」

「うん、いいよ。今消してあげる」

 華菜子が見ている前で、本田奈央はスマホに保存されていた例の動画を削除してくれた。とはいえ、コピーが存在する可能性は否定できない。動画は例の男たちも持っているかもしれない。だが、その不安を本田奈央に訴えたところで正直に答えるとは思えない。コピーされた動画で再び脅迫される可能性があることに一抹の不安を覚えたが、今は何もできなかった。

「もう、これで終わりにしてよね」

 華菜子はそう吐き捨てると、体育館の裏から足早に立ち去った。


       *  *  *


 約束の金を渡したあと、華菜子はそのまま風俗店へ向かった。店長に退職の意向を伝え、今日を最終出勤日にしてもらうのだ。店長の小島に直接話すのは気が重かったが、相手が相手なだけに無断で辞めればトラブルになる可能性が高い。

 狭苦しい事務所はいつも通りカビ臭く、煙草の煙が漂っていた。長居したい場所ではなかった。それにここに来ると、研修と称して小島に身体をもてあそばれた記憶がよみがえり胸が苦しくなる。

 小島が新しい煙草に火をつけ、煙を吐き出してから口を開いた。

「で、話って?」

 華菜子はおそるおそる切り出した。

「あの、今日で辞めさせてほしいのですが……」

「はあ!?」

 小島が目を剥き、威嚇するような声を上げた。場の空気が一瞬で凍りつく。簡単には辞められないだろうと覚悟していたが、これは予想以上に手こずりそうだった。

「辞めたいだぁ!? お前なぁ、そう簡単に辞められると思ってんのか?」

 小島の目は殺気を帯び、今にも殴りかかってきそうな勢いだ。

「お前けっこう客ついてるし、今辞められたら困るんだよ」

「でもわたし、もう働く理由が……」

「てめえの都合は聞いてねえんだよ!」

 目の前で罵声を浴びせられ、華菜子は身をすくませた。今まで他人にこれほど逆上されたことはなかった。恐怖で足はすくみ、目は涙でにじむ。

 小島は荒々しく言葉を吐き続ける。

「おれが納得するまでしばらく働いてもらう。辞めるなんて絶対に許さねえぞ。いいな?」

 そう言われても、これ以上ここで働く理由はなかった。このまま働き続ければ、すでに落ち込み気味の学業にも影響を及ぼすし、知人にばれるリスクも高まるばかりだ。それに、友人たちとの関係を修復するためにも放課後の自由な時間が必要だった。働き続けるメリットは何一つなかった。

 華菜子が何も言えずにいると、小島の声色が急に優しくなった。

「でもな、おれだって鬼じゃねえ。お前は学生だし、勉強もあるだろうから、シフトを少し減らしてやってもいいぜ」

 彼にとっては最大限の譲歩のつもりだろうが、これ以上こんなところで働いている場合ではなかった。再び怒鳴られるのは怖かったが、華菜子は勇気を振り絞って言葉を発した。

「いえ、もう働きたくないんです!」

 語気が少し荒くなってしまったこともあってか、小島の怒りに再び火をつけてしまった。彼の表情が一変し、殴りかからんばかりに身を乗り出してきた。

「あぁん!? てめえ舐めてんのか!? こっちが歩み寄ってやってんのにその態度は何だ!? 金がいるって泣きついてきたから、未成年のお前をリスクを承知で雇ってやったったんだぞ。それをバイト感覚で気軽に辞められちゃ、温厚なおれでも我慢なんねえぞ!」

「ほんとごめんなさい……」

 華菜子は涙をこらえながら謝罪する。一刻も早くこの状況から逃れたかった。

 小島がさらに畳みかけてくる。

「いいか。おれがその気になれば、お前なんて簡単に潰せんぞ。高校生のガキだから大目に見てたが、あんま駄々こねるようなら、お前の両親にばらして家庭崩壊させてやってもいいんだぜ」

 その言葉に、華菜子は思わず声を上げた。

「それだけはやめてください!」

 取り乱した姿を見て満足したのか、小島が勝ち誇った笑みを浮かべた。

「なら大人しく働けよ。いいな?」

 もはや、自分が抜け出せないドロ沼の状況にいることを華菜子は悟った。

「いいかって聞いてんだろ!」

「は、はい!」

 怒声に身をこわばらせながら、華菜子は思わず高い声で答えた。

「じゃあ、さっさと準備しろよ」

 華菜子は椅子から力なく立ち上がると、肩を落としながらロッカールームへ向かった。


 その日はショックが抜けきれぬまま、客の相手をすることになった。いつもなら無理にでも笑顔を作って接客するのだが、今日は作り笑顔すら浮かべられず、沈み込んだ顔のまま接客した。気の優しい常連客が気を遣って励まそうとしてきたが、気の抜けた返事しか返せなかった。

 自転車に乗って家路へと向かう中、「後悔」という二文字が頭の中を駆け巡った。本田奈央に脅迫されたとき、動画を公開されることを恐れるあまり、言われるがままに風俗店で働くことを選択してしまった。その結果、心身ともに傷ついただけでなく、最悪なことに自分の意思では抜け出せない泥沼にはまってしまった。もし、あのとき、こうなる未来を少しでも想像できていたなら、本田奈央に抵抗していただろう。

 冷静に考えてみれば、あの動画が公開されて本当に困るのは加害者たちのほうだ。そこまで頭が回らず本田奈央の要求に屈してしまった自分を華菜子は激しく呪った。

 暴行を受けて以来、冷静な判断ができなくなっている。そのせいで事態はどんどん悪い方向へと進んでいる。過去に戻ってやり直せたらと切に願った。本田奈央に脅迫されたあの日、毅然とした態度で要求を突っぱね、逆に脅し返してやればよかった。たとえ彼女が逆上して動画を公開したとしても、今の状況よりはよほどましだったはず。

 今さらだったが、警察に助けを求めるべきだったのかもしれない。両親に知られるのは耐えがたかったが、今の苦しみを思えばそれくらい我慢すべきだった。

 店長の小島からは、店を辞めたら両親にすべてを話すと脅された。あの男なら本当にやりかねない。風俗で働いてることは絶対に両親に知られたくない。とすれば、今の自分に残された選択肢は小島の機嫌を損ねぬよう働き続けること以外なかった。

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