報酬の代償
「原口、ちょっといいか?」
帰りのホームルームが終わったあと、華菜子は担任の男性教師に呼び止められた。このタイミングで声をかけられたのは初めてだったため、とてもいやな予感がした。
華菜子は警戒しながら声を震わせた。
「……なんですか?」
「ちょっと、職員室で話そうか」
「え!?」
華菜子は焦った。それでは遅刻確定だ。店長の小島はなぜか自分にだけ遅刻に厳しい。
「先生、すみません。家の用事があって、あまり時間が……」
「そうか。なら、ここで手短に済ませるか」
その言葉に、華菜子はほっと胸をなで下ろす。
すでに教室からは、生徒の姿はほとんどいなくなっていた。
「原口、最近どうしたんだ? 成績がだいぶ落ち込んでるぞ」
「すみません……」
華菜子は謝りつつも、その程度の話かと安堵した。
「何か悩みがあるなら、いつでも相談に乗るぞ」
「いえ、別に悩みとかは……。最近、ちょっと体調が悪くて……」
「ああ、そういうことか」
〝体調が悪い〟の一言で、教師はすぐに納得したようだ。人は原因を見つけるとそこに飛びつきたがるというが、まさにその典型のような反応だ。
「学年トップクラスだったお前がここまで成績を落とすなんてな。早く体調を整えないと、このままじゃ志望校も危ういぞ」
「はい、わかりました」
当たり障りのない言葉しか吐けない教師に、華菜子は軽い苛立ちを覚えた。
* * *
「ほい。今月分な」
仕事終わりに、店長の小島から封筒を渡された。
華菜子は礼を言って事務所を出ると、狭いロッカールームで手書きの給与明細を確認した。十七万八千円だった。手持ちの貯金と合わせれば二十万円を超える。
「これでやっと、この場所から抜け出せる……」
自然と安堵のため息が漏れる。若い身体を酷使しただけあって、要求された金額を期日までに用意することができた。だが、それ以上に失ったものも大きかった。
鏡を見れば、かつての自分はそこにはいなかった。鏡に映るのは、人生に絶望した敗者の姿だった。
見た目の変化は誰の目にも明らかなようで、母は顔を合わせるたびに心配そうに声をかけてきた。学校では友人たちが気遣ってくれるものの、彼女たちとの間には距離ができつつあった。常に自分が険しい顔をしているのが原因だろう。店では男たちの欲望を満たすために男性器を咥えているのだ。そんな現実の中で正気を保つのはむずかしい。最近では、親友の綾でさえ放課後に誘ってくることもなくなっていた。すでに、こちらから声をかけにくい空気にもなっている。
すべてが悪い方向へ向かっていた。生きること自体が辛かった。
「それもこれも、すべてあの女のせいだ……」
本田奈央を殺してやりたいという衝動は日に日に強くなっていた。だが、それを実行すれば、家族に迷惑がかかるだけでなく自分の人生も終わってしまう。まだ未来ある年齢なだけに、彼女のせいでこれ以上人生を壊されるわけにはいかない。
そのため、要求された金を払って本田奈央と関係を断ち切ったあとは、不本意ではあったが、復讐の炎は胸の奥に封印するつもりだった。そう、当面の間は——。
華菜子はさっそく退職の意思を伝えるためにロッカールームを出て事務所を覗いた。だが、店長の小島は他の女性たちと楽しげに話していた。ちらと彼がこちらを見るが、すぐに視線を外して会話に戻っていく。笑い声が大きく響く中、割り込むのは気が引けた。
話が終わりそうもないため、退職の件は次の出勤時に伝えることにした。
「お先に失礼します……」
小さくつぶやき、華菜子は店をあとにした。