闇堕ち
「何、金が必要なの?」
顔に煙草臭い息が吹きかかる。華菜子は顔をしかめないよう意識しながら小さくうなずいた。
面接を受けている狭苦しい事務所は、とてもカビ臭くてじめっとしていた。実際に壁や天井はカビが目立っている。
履歴書に目を落としながら店長が黙りこくってしまう。その顔は何かを考えているというよりか、何も考えていないように映った。機能が停止したロボットのようにも見えた。三十歳くらいの小汚い風貌をした男で、パサついた茶髪と無遠慮な物腰は、いかにも風俗店の店長といった感じだ。
「君、まだ十七歳だよね?」
「はい……」
「未成年働かせてんのばれると、いろいろまずいんだわ」
「はあ……」
すんなり雇ってもらえると思っていただけに、華菜子は少しとまどった。少し考えが甘かったのかもしれない。
「こっちもリスクを負うわけだから、その辺わかってほしいんだわ」
「はあ……」
「とりあえず、念書、書いてもらえる?」
「念書……ですか?」
「そう、念書。うちが無理やり働かせたわけじゃないっていう証明さ」
店長は手近にあったA4用紙を裏返してスチールデスクの上にばんと置くと、ボールペンを無造作にその上に放った。
華菜子はとまどいながらボールペンを手にする。
「なんて書けば……」
「そうだな……。わたし、何々は、この店で自主的に働き始めました、決して強制ではありません……ってな感じか」
華菜子は言われた通りに手を震わせながら書き込んだ。
「それと、ここにフルネームも書いて」
「はい」
指示通りに用紙の下に名前を書き入れると、今度は朱肉が差し出された。
「名前の横に拇印な」
華菜子は朱肉をつけた親指を署名の右端に押しつけた。
「あと、もし警察が来たら、年齢を偽って面接を受けたって証言してくれよな」
「え!? 警察が来るんですか!?」
〝警察〟という言葉に、華菜子は恐怖を覚えた。
「めったに来ねえから心配すんな。でも、不安なら無理して働かなくてもいいんだぜ」
完全に足元を見られている——。華菜子は目をぎゅっと閉じてうつむいた。
こちらが金に困っているのをいいことに、目の前の男はずいぶんと高圧的な態度だ。とはいえ、ここで辞退するという選択肢はなかった。今月中に金を用意できなければ人生が終わる。あの動画が世に広まれば、自分の居場所はなくなってしまうのだ。
「どうする?」
「……だいじょうぶです。問題ありません」
華菜子はそう答えるが、望む金額が貯まったらすぐに辞めるつもりだということは口にできなかった。そんなことを言えば、仕事をもらえなくなると思ったからだ。
「今日から働けるんだよな? じゃあ、今から研修すっから、服脱いで」
「え……」
華菜子は驚きで言葉を失う。
「ほら、早く」
「今、ここで……ですか?」
「そうだよ。だいじょうぶ、誰も来ねえから。おれも時間がないんだ。早くしてくれよ」
「は、はい……」
苛立った口調に急かされ、華菜子は慌ててブラウスのボタンに手をかけた。
全身が拒否反応を示したが、もうこの場にきては、逃げ出すという選択肢はなかった。ここは覚悟を決めるしかなかった。
華菜子の頬に涙が伝っていったが、目の前の男は同情のかけらも見せなかった。
* * *
「華菜子、こんな遅くまでどこ行ってたの?」
家に帰るなり、母の鋭い声が響いた。
「……友だちの家で、勉強してた」
華菜子は伏し目がちに、か細い声で答えた。
「遅くなるなら連絡くらいなさい」
「うん、わかった……」
母と目を合わせることなく、華菜子はそのまま浴室へ向かった。
強い罪悪感から、母の顔をまともに見ることができなかった。だが幸いにも、母は腹を立てている様子もなく、深く問い詰めてくることもなかった。これまでも両親が過度に干渉してくることはなかった。今後は遅くなる前に電話を一本入れれば問題なさそうだ。
浴室に駆け込むと、すぐに熱いシャワーを浴びた。全身にまとわりついた男性客の汗や唾液の匂いを拭い落とすように、強く肌をこすり、口に水を含んで何度もうがいをした。鼻の奥には精液の匂いがこびりついていていた。鼻の穴に指を突っ込んで執拗に洗うが、不快な匂いはいっこうに消えない。
「研修」と称して店長の小島の前で胸をさらし、彼の股間に顔を埋めたのだが、そのショックがまだ抜け切らぬうちに、立て続けに二人の客の相手を強いられた。最初の客を相手にしたときは極度の緊張から歯の根が合わず、ガチガチと歯を震わせながら、まともに言葉も発せぬ状態で接客した。
華菜子がそんな状態では客も大して楽しめなかっただろうが、幸運にも、今日の二人の客はどちらも親切で穏やかだった。ごく普通の三十代くらいの男性たちで、風俗を利用するような人たちには見えなかった。店長の話では、慣れるまでは受付である程度客を選別してくれるとのことだった。
そうはいっても、身体をさらに汚された事実は変わりなかった。この先、誰かとピュアな恋愛なんてできそうもない。万引きで停学になった吉野リサよりも、自分のほうが汚らわしい存在になったように感じられた。
「華菜子! いつまで入ってるつもり!」
母の非難の言葉が飛んでくるが、華菜子はそれでも身体を洗うことを止められなかった。口の中も何度もすすぎ、不快感を消そうと躍起になるが、何度繰り返しても心が晴れることはなかった。
ようやく浴室から出たあとも、気分が悪いと告げて食事も取らずに二階の自室にこもった。
机に向かい、いつものように日記帳を開く。恥辱まみれの一日を書き記していく。店長に何をされ、どんな要求をされたか。客とのやりとりも、思い出せる限り詳細に書く。そのとき抱いた恐怖や嫌悪、わずかな安堵も記録する。唯一の救いは二人の客が優しかったことだ。もし、毎回あのような客だったら、金が貯まるまで耐えられるかもしれないという希望も湧いてくる。
だが、すぐさま負の感情が心を覆い尽くす。十七歳という若さでこんな仕事に身を落としてしまった現実に気が狂いそうになった。絶望はやがて怒りに変わり、当然その矛先は本田奈央へと向かう。
「いつか絶対に、この屈辱をあの女にも味合わせてやる!」