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真夏の鎮魂歌(レクイエム)  作者: 司馬 雅


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第1部:天空のENIGMA(エニグマ)

 第一章:最後の晩餐


 ある夜、天堂栄一てんどう えいいちは、自分が築き上げた天空の城で、一人苛立っていた。

 タワーマンション、最上階。地上100メートルを超えるこの部屋の窓からは、宝石を散りばめたような札幌の夜景が一望できた。だが、その美しい景色も、今の彼のささくれた心を慰めることはない。


 ライバル企業の社長、金田との特許訴訟は泥沼化し、思うように進まない。

 手塩にかけて育ててきた会社では、副社長の西岡が不穏な動きを見せ、足元をすくわれかねない状況だ。

 そして、最も彼を苛立たせていたのは、愛人のあやの裏切りだった。

 大金を注ぎ込み、意のままになると思っていた若い女が、自分を裏切って別の男に走る。

 その屈辱は、プライドの高い彼にとって耐え難いものだった。


「…クソが」

 誰に言うでもなく悪態をつき、手にした高級ブランデーを飲み干す。

 ストレスで持病の心臓が、時折、鈍い痛みを訴えていた。

 こんな時は、美味いものを腹一杯食って、全てを忘れるに限る。


 彼は、懇意にしている市内の五つ星ホテルのコンシェルジュに電話をかけ、いつものように我儘な注文をつけた。

「俺だ。いつものルームサービスを頼む。内容は任せる、一番いいシャンパンも忘れるな。すぐに持ってこい」

 一時間後、インターホンが鳴った。

 ドアスコープを覗くと、見慣れたホテルのコンシェルジュが、料理を乗せたワゴンと共に立っている。 

 天堂は、厳重なロックを内側から外し、ドアを少しだけ開けた。


「ご苦労」

「天堂様、ご注文のお品でございます」

 コンシェルジュは、深々と頭を下げ、ワゴンを室内に滑り込ませる。

 部屋に立ち入ることは、決して許されない。それが、この城のルールだった。


 再び鍵をかけ、チェーンロックまでしっかりとかける。

 誰にも邪魔されない、自分だけの王国。天堂は、リビングの大きなテーブルに、運ばれてきた料理を並べた。銀色の保温カバーを開けると、食欲をそそる豊かな香りが立ち上る。


 まずは、シャンパンをグラスに注ぎ、一気に飲み干す。

 そして、フォアグラのソテーにナイフを入れた。

 濃厚なバターとバルサミコのソースが、彼の舌を喜ばせる。

 次に、オマール海老のテルミドール。

 プリプリとした身と、クリーミーなソースの組み合わせがたまらない。

 だが、不思議なことに、数口食べ進めると、急に食欲が失せていく。

 あれほど欲していたはずなのに、体が受け付けないような感覚。


「…どうしたんだ、俺は」

 それでも、彼は無理やりメインの牛フィレ肉のロッシーニ風に手を伸ばした。

 最高級のフィレ肉と、その上に鎮座するフォアグラ。トリュフの官能的な香りが鼻をくすぐる。

 一口、肉を咀嚼した、その時だった。

 最初に感じたのは、心臓を鷲掴みにされるような、激しい圧迫感。


「う…っ!」

 そして、嗅いだことのない匂いが、どこからともなく立ち上ってきた。

 甘いような、それでいて、何か薬草を燻したような、奇妙な香り。その香りを吸い込んだ瞬間、心臓の痛みが、さらに激しさを増した。

 息ができない。視界が、急速に白んでいく。


「…ぐ…ぁ…」

 助けを呼ぼうにも、声が出ない。

 彼は、最後の力を振り絞り、いつも薬を置いている寝室のベッドへと向かった。

 だが、その数歩が、永遠に感じられるほど遠かった。


 ベッドに辿り着いた瞬間、彼の意識は完全に途切れた。


 天空の城の王は、誰に看取られることもなく、たった一人で、静かに終えた。

 テーブルの上には、ほとんど手つかずの豪華な料理だけが、まるで王の死を嘲笑うかのように、冷たく残されていた。


 第二章:小料理探偵ふたたび


「…今度は、どんな厄介ごとだ?」

 店を閉めるよう目で古海に促しながら

 隼人の問いに、春馬は重い口を開いた。その声は、低く沈んでいた。


「3日前、死体が見つかった。狸小路にできた新しい商業施設『モユク』の上…あのライオンズタワー札幌の、最上階のペントハウスでな」

「札幌で一番高いタワマンか。雲の上の住人だな」

 隼人が相槌を打つと、古海が、「IT企業『デジタル・フロンティア』の社長、天堂栄一さんね。テレビでも見たわ」と静かに補足した。


 春馬は、生姜焼きを一切れ口に運び、ゆっくりと頷いた。


「ああ。その天堂が、自室のベッドで死んでた。第一発見者は、朝、定期巡回に来たコンシェルジュだ。ドアは内側から施錠された完全な密室。トリプルオートロックに、エレベーターは本人のカードキーがないと居住階に止まらない鉄壁のセキュリティだ。外部からの侵入の形跡は一切ない」

「それで、死因は?」


「急性心筋梗塞。解剖でも不審な薬物は検出されず、持病の悪化による病死として、上はもう処理する気でいる」

「だが、お前は納得してねえ。違うか?」

 隼人のまっすぐな視線に、春馬は悔しそうに顔を歪めた。


「ああ。俺は、現場で奇妙な匂いを嗅いだんだ。甘いような、それでいて少し薬草を燻したような…。すぐに消えちまったが、忘れられん。だが、他の誰も気づかなかった」

「匂い、か」隼人は腕を組む。料理人にとって、匂いは最も重要な情報源の一つだ。


「それだけじゃねえ」春馬は手帳を取り出し続けた。

「テーブルの上には、高級ホテルのルームサービスの残骸があった。天堂の『最後の晩餐』だ。メニューは、フォアグラのソテー、オマール海老のテルミドール、それに特選牛フィレ肉のロッシーニ風。どれもほとんど手がつけられてなかったがな」

 その言葉を聞いた瞬間、隼人の纏う空気が変わった。


「妙だな」

「何がだ?」

「料理の流れだ」隼人の目は、厨房の奥にある見えない献立表を見つめているようだった。


「フォアグラにオマール、ロッシーニ。どれも主役級の、バターやクリームをふんだんに使った濃厚な料理ばかりだ。普通の料理人なら、こんな単調で、客の舌を疲れさせるだけのコースは絶対に組まねえ。まるで…」

 隼人はそこで言葉を切り、春馬の目をじっと見た。


「まるで、何か特定の食材を、他の味でごまかしながら、無理やり食わせようとしてるみてえじゃねえか」

 その指摘に、春馬はハッとした。自分が感じていた違和感の正体が、輪郭を持ち始めた気がした。


「天堂社長、評判はあまり良くなかったみたいよ」

 それまで黙って話を聞いていた古海が、カウンターを拭きながら、何気ない口調で言った。

「ワンマンで敵が多くて、特に女性関係は派手だったって、ススキノじゃもっぱらの噂。会社の経営権を巡って、内紛もあったとも聞くわね」


 恨みを持つ人間は、いくらでもいる。だが、全員に完璧なアリバイがあったとしたら?

 春馬の脳裏に、不可能犯罪の壁が立ちはだかる。

「隼人」

 春馬は、意を決したように隼人の名を呼んだ。


「お前の鼻と舌を貸してくれ。これは、ただの病死じゃねえ。巧妙に仕組まれた、完全犯罪を目論んだ殺人だ」

 隼人は、無言で頷いた。


 夏の強い日差しが、藍色の暖簾を通して、店の床に静かな影を落としていた。一人の料理人が、またしても人の心の闇という名の厨房に立つことを決意した瞬間だった。


 第三章:皿の上の捜査会議


 その夜、「雅宗」に春馬が再び姿を現した。

 そして、いつもの顔ぶれが揃っていた。


「面白そうな話じゃないですか!密室殺人なんて、ミステリーの王道ですよ」

 ノートパソコンを片手にハイボールを味わうのは、在宅SEの諒平りょうへいだ。

 今日も「雅宗」をサテライトオフィスにしている。


「被害者の魂を鎮めるためにも、真相は解明されなければなりません!この智仁ともひとの正義の筋肉が、悪を許しません!」

 プロテインシェイカーをカクテルグラスのように揺らすのは、消防士の智仁。

 その隣で、古海が「はいはい、智仁はとりあえずそのプロテインを飲み干してからね」と優しくいなている。


 隼人

「さて、始めるとするか。」

 春馬が、天堂栄一の人間関係と、それぞれの完璧なアリバイについて説明を始めた。


 一人目は、副社長の西岡。会社のNo.2でありながら、天堂のワンマン経営に不満を募らせていた野心家。天堂の死で、最も大きな利益を得る人物だ。しかし、死亡推定時刻、彼は札幌から遠く離れた函館で、業界団体の会合に出席していた。複数の証言者もいる。


 二人目は、銀座の高級クラブのホステスから、天堂の愛人となった謎の女、彩。天堂から多額の金品を受け取っていたが、最近、別の若い男との関係を疑われ、破滅させられそうになっていた。彼女は、死亡推定時刻、東京行きの最終便で新千歳空港にいたことが、航空会社の記録と空港の監視カメラで確認されている。


 三人目は、ライバル企業の社長、金田。特許技術を巡って天堂と激しく対立し、裁判沙汰にまでなっていた。動機は十分だが、彼もまた、死亡推定時刻には、市内のホテルで開かれたパーティーに出席し、大勢の招待客と談笑している姿が目撃されていた。


「全員、鉄壁のアリバイか…。まるで、示し合わせたみたいだな」

 隼人が、腕を組んで呟く。

「問題は、どうやって殺したか、だ」春馬が頭を抱える。

「解剖じゃ何も出てこない。毒物じゃないとしたら、一体…」


「その『最後の晩餐』、ホテルのルームサービスってのは確かなんですか?」

 諒平が、鋭い視点で問いかける。

「ああ。ホテルの厨房にも確認済みだ。間違いなく、彼らが調理して、コンシェルジュが部屋まで運んでいる」


「じゃあ、そのホテルから部屋までの間に、何か仕掛けられた可能性は?」

 智仁が言うが、春馬は首を横に振った。


「それも調べた。料理には専用の保温カバーがかけられ、部屋の前で天堂本人が受け取っている。コンシェルジュが部屋に入ることもない、防犯カメラにも怪しい動きや人物は映っていない」

 議論は、振り出しに戻ったように思えた。

 その時、それまで黙って皆の話を聞いていた隼人が、静かに口を開いた。


「春馬。お前が嗅いだっていう、その奇妙な匂い…本当に、すぐに消えちまったのか?」

「ああ。甘いような、薬草を燻したような…。ほんの一瞬だった」

「そうか…」隼人は、何かを考えるように、顎に手をやった。その目は、目の前の春馬ではなく、もっと遠くにある、何か見えない真実を見据えているようだった。


 しばらくの沈黙の後、彼は、カウンターの隅でノートパソコンを開いていた諒平に、視線を移した。

「なあ、諒平」

 名前を呼ばれた諒平が、顔を上げる。

「二つ、調べてほしいことがある」

 隼人の言葉に、その場にいた全員の意識が集中した。


「一つは、天堂の会社『デジタル・フロンティア』と、ライバルの金田の会社が、具体的にどんな特許で争っていたのか、だ。ただの技術の盗用とか、そういう表面的なことじゃねえ。その技術の核心…何に使われ、どんな効果をもたらすものなのか。専門的なことまで、できるだけ深く掘ってくれ」


 諒平は、ニヤリと笑った。「なるほど。事件の背景にある『動機』の純度を確かめろ、ってことですね。お安い御用ですよ」


「そして、もう一つ」隼人は、一度言葉を区切ると、さらに低い声で続けた。

「天堂がルームサービスを頼んだ、あの五つ星ホテル。その厨房のトップ…総料理長の名前と家族、経歴を調べてくれ。どんな店で修行して、どんな料理を得意としてきたのか。料理人としての、そいつの『人となり』が知りたい」


 その指示は、あまりにも意外だった。特許の件は、まだ事件との関連が推測できる。

  だが、なぜホテルの料理長の経歴なのか。

  春馬も、智仁も、古海も、その意図を測りかねて、顔を見合わせた。

 しかし、ここにいるメンバーは皆、知っていた。

  隼人の一見無関係に見える点と点を結びつけ、やがて一本の美しい線を描き出す、その驚異的な推理力を。


「あの『最後の晩餐』を作った男だ」隼人は、静かに答えた。

「フォアグラ、オマール、ロッシーニ。あんな無茶苦茶な献立を作るような料理人なのか。あるいは、何か別の意図があって、敢えてあのメニューを組んだのか。料理にはな、作った人間の『魂』が宿る。そいつがどんな人間か分かれば、あのひと皿に隠されたメッセージも、見えてくるかもしれねえ」

 それは、料理人である隼人だからこそ辿り着ける、独自の推理だった。


 物証やアリバイといった警察の捜査線とは全く違う、人間の心理と、料理という作品から、事件の真相に迫ろうとするアプローチ。

「……面白い」諒平が、興奮したように呟いた。

「動機の背景と、犯行に使われた『凶器』の作り手。両方から攻めるってわけですか。最高じゃないですか、その推理」

 諒平の指が、まるでピアニストのように、キーボードの上を踊り始める。


 静かな夜のカウンターで、不可能犯罪の分厚い壁に、最初の小さな、しかし決定的な楔が打ち込まれた瞬間だった。


 第四章:煮詰まった捜査線


 事件発生から、3日が経過していた。

 札幌中央警察署の一室に設置された、名ばかりの捜査本部。

  その空気は、夏の湿気と、成果の上がらない刑事たちの苛立ちで重く淀んでいた。

  道警本部は早々に「病死」と判断したため、この捜査は所轄の刑事課が主体となって、あくまで「念のため」の裏付け捜査を行うという位置づけだった。


 ホワイトボードには、被害者である天堂栄一の顔写真と、ライオンズタワー札幌の見取り図が貼られている。その下には、副社長の西岡、愛人の彩、ライバル企業社長の金田、3人の容疑者の名前と、それぞれの完璧すぎるアリバイが書き出されていた。


「何か進展はあったか」

 捜査本部の指揮を執る、所轄の老刑事・山村やまむらが、集まった刑事たちに檄を飛ばす。だが、返ってくる報告は、どれも代わり映えのしないものばかりだった。


「西岡副社長のアリバイは、やはり崩せません。函館での行動は、複数の証言者が裏付けています」

「愛人の彩も同様です。死亡推定時刻には、新千歳空港の搭乗ゲートを通過しており、その後の航空記録も確認済みです」


「金田社長も、パーティー会場から一歩も出ていないことが、ホテルの監視カメラで証明されています」

 報告を聞きながら、春馬は唇を噛み締めていた。

  誰もが、この捜査が形式的なもので、やがて「事件性なし」として解散することを知っている。

  春馬が主張する「奇妙な匂い」についても、他の捜査員たちは「気のせいだろう」「現場の芳香剤か何かじゃないか」と、まともに取り合おうとはしなかった。


「聞き込みでも、有力な情報はなしだ」別の刑事が、疲れた声で続ける。

  「天堂社長は、確かに多くの人間に恨まれていた。だが、その誰もが、彼を殺すことなど不可能だと諦めていたようだ。あのタワマンのセキュリティは、まさに鉄壁。誰も手出しはできない、と」

「つまり、手詰まりというわけか…」

 山村は、大きなため息をつくと、ホワイトボードを見上げた。


【捜査状況まとめ:発生から72時間】

 被害者: 天堂栄一(48) IT企業「デジタル・フロンティア」社長

 死因: 急性心筋梗塞(解剖で薬毒物反応なし)

 現場状況: ライオンズタワー札幌・最上階ペントハウス。内側から施錠された完全な密室。

  外部からの侵入形跡なし。

 不審点: 轟春馬巡査部長が「現場で異臭があった」と主張するも、裏付けなし。

 被害者が口にしたルームサービスのメニュー構成に不自然な点(雅宗隼人の指摘)


 主な容疑者とアリバイ:

 西岡副社長: 死亡推定時刻、函館に出張中(アリバイ完壁)

 愛人・彩: 死亡推定時刻、新千歳空港で東京行きに搭乗(アリバイ完壁)

 金田社長: 死亡推定時刻、市内ホテルのパーティーに出席中(アリバイ完壁)

 結論: 現時点では、事件性を示す具体的な証拠は皆無。捜査は完全に膠着状態。


「…やはり、ただの病死だったのか」

 誰かが、諦めたように呟いた。捜査本部の空気は、敗戦処理のそれへと変わりつつあった。

 春馬は、その空気に抗うように、固く拳を握りしめた。

(違う…絶対に違う。これは殺人だ。俺が見落としている、何かがあるはずだ)

 だが、組織の中で、彼の声はあまりにも無力だった。

  正式な捜査が打ち切られるのも、もはや時間の問題。残された時間は、ほとんどない。

 春馬は、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。

  そこに表示されているのは、ただ一人の男の名前。


 雅宗隼人。

 公式な捜査が壁に突き当たった今、彼が頼れるのは、あの路地裏のカウンターだけだった。


 第五章:予期せぬ味のハーモニー


 捜査本部が解散ムードに包まれ、春馬が一人、廊下で苛立ちを壁にぶつけていた、その時だった。

「――轟」

 背後から、静かな声がかかった。

  振り返ると、そこに立っていたのは、鑑識課の白衣を着た痩身の男だった。


「…布施か。何の用だ」

 鑑識課のエース、布施ふせ拓也。

  彼は、春馬の大学時代の数少ないの友人の一人だったが、部署が違うこともあり、最近はほとんど話す機会もなかった。


 布施は、縁なしの眼鏡の奥の鋭い目で春馬を見つめると、単刀直入に言った。

「ライオンズタワーの件だ。お前が、現場で奇妙な匂いがしたと言っているそうだな」

 その言葉に、春馬は身構えた。また『気のせいだ』と笑われるのか。

「ああ、そうだ。だが、誰も信じやしねえ」

 吐き捨てるように言う春馬に、布施は意外な言葉を返した。

「俺も、現場で感じた」

「…何?」

 春馬は、思わず聞き返した。


「ほんの一瞬だったがな」布施は、記憶を辿るように目を細めた。

「最初に部屋に入った時、甘いような、薬草を燻したような…。すぐに消えてしまったが、妙な香りだった。他の連中は誰も気づいていなかったから、俺の気のせいかと思っていたが…お前も感じていたとはな」

 予期せぬ共鳴だった。組織の中で、ただ一人、同じ感覚を共有する人間がいたのだ。


「お前は昔から人一倍鼻は鋭かったからな」布施は、少しだけ口元を緩めた。

「大学時代、料理作って調味料入れ間違えた時も、最初に気づいたのはお前だった。

 俺は、お前のその感覚を信じる」

「布施…!」

 春馬の心に、希望の光が差し込んだ。


「だが、問題は、その正体が全く分からないことだ」布施は、すぐに鑑識官の厳しい顔に戻った。

「現場から、匂いの元となるような物質は一切検出されなかった。まるで、空気中に現れて、そのまま消えてしまったかのようだ。これでは、再調査の申請すらできない」


「何か、方法はないのか」

「特定の条件下でのみ気化したり、あるいは二つの無臭の物質が化学反応を起こして、瞬間的にだけ匂いを発生させるような化合物も存在する。だが、それを証明するには、具体的な物証か、あるいは、限りなく現実に近い仮説が必要だ。今のままでは、ただのオカルト話で終わっちまう」

 布施は、春馬の肩をポンと叩いた。


「だから、轟。お前の出番だ。俺は科学の目で物事を見る。だが、お前は刑事の勘で、理屈を超えた何かを掴むことができる。もしお前が、その匂いの正体に繋がる仮説だけでも見つけ出したら、その時は、俺が全力で協力する。上を説得してでも、その仮説を科学的に証明してやる」

 たった一人。

 組織の中で、たった一人だけ、味方ができた。しかも、それが鑑識のエースである布施だ。

  これほど心強いことはない。


「…恩に着る、布施」

 春馬は、力強く頷いた。

「必ず見つけてみせる。その匂いの正体をな」

 布施と別れた春馬の足は、迷わず、あの路地裏へと向かっていた。


 科学の目が、自分の感覚が間違いではなかったと証明してくれた。

  あとは、あの料理人の経験と勘だ。

 2つの異なる才能が交わる時、不可能犯罪の密室に、風穴が開くかもしれない。

  そんな確信が、春馬の中に芽生えていた。


(第1部 了)

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

物語をお楽しみいただけましたら、

ブックマークや★評価で応援いただけると大変嬉しく存じます。

これからも、隼人たちの奮闘を、

どうぞごゆっくりご覧くださいませ。


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