貴族おれが、孤児院出身の元妻に復縁を認めてやったら、笑顔で「死ね」と言われた。母上、助けてください。
「お前、実は使えるやつだっんだな! 喜べ! 復縁してやる」
おれは、元妻のソフィアが働いている小汚い雑貨屋までわざわざ出向いてやって、彼女に復縁を申し込んでやった。
本来ならおれがほんの少しだけ苦しい立場にいることを察して、ソフィアの方から申し出るべきだが、気が向いたのでわざわざおれの方から出向いてやったから、ソフィアは当然感謝の涙を流すだろう。
なんと言ってもおれは建国に貢献した名門貴族である、アートランド男爵家の跡継ぎなんだから。本来ならどこの馬の骨とも知れない孤児院育ちのソフィアごときが関われるような身分ではないのだ。
しかし、おれの言葉を聞いた彼女はきょとんとした顔をすると、すぐに笑顔になってこう言った。
「死ね」
ん? 今なんて言った?
彼女の言葉がよく聞こえなかったので、おれは自分の話を続けた。
「こんな汚い店で、もう働く必要はない。早くおれのもとに戻ってこい。母上もそうしていいと言っている」
孤児院育ちの女だから、労働にはなれているかもしれないが、それでもおれの妻が外で働くなんてことは不適切だ。
最近では外で働く女も多いというが、自分の妻を外で働かせるなんて、おれには耐えられない。甲斐性のない男と思われるに決まっている。それに、外で働き始めると、女は生意気になると聞いたことがあるし。
彼女を連れて帰ろうと、手を伸ばすとソフィアはおれの手を避けた。驚いて彼女を見ると、ソフィアはなぜかとても冷たい目でおれを眺めていた。いや、そんなはずないか、目にゴミでも入ったんだろう。
「ソフィア?」
呼びかけると、彼女はため息をついた。
「リオネル、頭の悪いあなたには、はっきり言わないとわからないみたい。わたしはあなたのもとに戻るつもりは全くないから。誤解するといけないからはっきり言うけど、身を引くとかそんなんじゃなくて、あなたが大嫌いだから、二度と顔を見たくないってこと」
なんだ? ソフィアは何を言っているんだ???
あー、つまり、形式的なプロポーズをちゃんとしろってことか? まったく、女というのは我儘だ。初めて結婚するわけでもあるまいに。それにしても、ソフィアは美しいな。アイゼルに目移りしたことが、今となっては信じられないくらいだ。
「ソフィア、ため息をつきたいのはおれの方だぞ。でもおれは寛大だから許してやる。指輪がほしいなら、今度な。今日はとにかく早く帰ろう」
女は指輪が好きなものだろう。前に買ってやった婚約指輪と結婚指輪は離婚するときに置いていけといったので、ソフィアは残念に思っているに違いない。
ソフィアが置いていった指輪は、離婚したあと少しの間婚約していたアイゼルにやってしまったので、今はない。
あー、なんでアイゼルと別れるとき指輪を回収しておかなかったのか、悔やまれるな。今度返してもらいにいかないと。そうしたら、ソフィアに新しい指輪を買う金が節約できる。
そんな風に考えながら、ソフィアがおれに近づいてくるのを待っていたら、店の奥から一人の男が出てきた。
「おい、お前。ソフィアさんは、もうお前のところには戻らないんだよ。クソ野郎。殴られないうちにさっさと失せろ」
なんだこの男は。おれの五つ年下のソフィアと大体同じくらいの年頃の若造だった。はっ、まさか。
「ソフィア、まさかこの男と不倫してるのか?」
そう言った途端、右頬に衝撃が走った。たまらず左の方に倒れる。手をついて体を支えるが、右頬だけじゃなく、衝撃を吸収した首も体も手のひらも、どこもかしこも痛い。
あまりの痛みに、反射的に涙が出そうになるが、これくらいのことで泣くのは男ではないと思うので堪えた。
男を睨みつけると、ソフィアがそいつに駆け寄っていくのが見えた。
「やめてアンドレ! 彼は貴族なんだから!」
ソフィアはアンドレとかいうやつの胸に手を置いて、そいつを引き留めている。頭に血が上る。
ソフィアは不倫なんてするような女じゃないと思っていたのに。
ソフィアはおれをきっと睨みつけた。
「あなたに教える義理はありませんけど、誤解されると面倒なので、言います。わたしとアンドレはあなたが思っているような関係じゃありません。でももし、そういう関係だとしても、離婚した身ですから、不倫などと言われる筋合いはありません」
なんてことだ! やはりソフィアとこの男は不倫関係にあるのだ! おれは目の前が真っ暗になった。
「お前がそんなにふしだらな女だとは思わなかったぞソフィア。だがお前にかまってやらなかったおれにも非がないわけじゃない。一度だけのことなら許してやる。おれは寛大だからな。でもこれ以上は許さないぞ。早く戻ってくるんだ」
父上がいつも言っていた。女の愚かな行いには寛大になってやるのが、理性の生き物である男の務めなのだと。本当であれば怒鳴りつけてやりたいところだが、父上のお言葉に従って、許してやることにする。
もっとも帰ったら二度とこんなことをしないように、母上に躾けてもらうつもりではあるが。
「貴様……」
目の端でアンドレがうめいているのが見える。自分のものだと思った女が、実は他の男のものだと知ったのだから悔しいのだろう。
はは。ソフィアの不倫は許し難いが、間男に真にソフィアが好きな男はこのおれなんだとわからせて悔しがらせるのは、なかなか悪くない気分だな。
アンドレに対する優越感が喉の奥から込み上げてきて、こちらを睨みつけるアンドレを肴にして、くつくつと笑ってやった。
だが、チリリンというドアが開く音が、おれの笑いの水を差した。やれやれ、庶民の雑貨屋はやたらと忙しくていけないな。
音のした方を振り向くと、背が高くて無意味に高そうな服を着た男が入ってきた。ちっ庶民のくせにと思ったが、よく考えると、こいつも貴族かもしれない。なぜなら、態度が信じられないくらい偉そうだ。
父上に、貴族相手には礼儀正しくしろと言われているので、そいつの様子をうかがうことにした。
だが、男の次の言葉を聞いて、そんな気持ちも全く失せてしまった。
「ソフィア」
そいつは馴れ馴れしくソフィアの名を呼んだのだ。
ま、まさか、ソフィアはこの男とも不倫していたのか! おれというものがありながら、二人の男に同時に手を出すとは。
おれは信じられなくて眩暈さえ感じた。いくらソフィアがこの国で一番の美女だとはいえ、許せることと許せないことがあるぞ!
「リュシアン」
ソフィアがその男を呼んだ声を聞けば、おれの考えは間違っていなかったことがわかる。頭に血がのぼったおれは思わず叫んだ。
「ソフィア! 誰なんだその男は!?」
リュシアンとか言う男に近寄ろうとしていたソフィアがこちらを向いて少し困ったような顔をした。
「お前こそ誰だ?」
リュシアンとかいう野郎は、おれを蔑むように見た。いや、それは勘違いに違いない。なぜなら、おれは蔑まれるような人間ではないからだ。
「おれは、ソフィアの夫だ」
胸を張って答えると、ソフィアが言った。
「気にしないで」
ソフィアがリュシアンの野郎の胸にそっと触れる。頭に血が上った。くそっ! おれというものがありながら、どういうつもりだ!
「ソフィア! 説明しろ」
そう詰め寄っても、ソフィアはおれに答えようとはしなかった。女のくせに生意気なやつめ。
むしろ反応したのはリュシアンの野郎の方だった。ゆっくりとおれのそばまで歩いてくると、ソフィアを背中の後ろに追いやった。
くそっ、こいつおれよりかなり背が高いな。傲慢な目つきで見下ろされて、なぜか背筋が冷たくなる。
「お前が、アートランド男爵家の後継者か?」
しかし、リュシアンの野郎にそう尋ねられると、鼻が高くなる。やはり、おれは有名だったのだ。
まあ、当然だろう。なんと言っても名門貴族なのだから。建国時代から続く家柄は貴族のうちにもそう多くはない。たとえ爵位が上だとしても、我が家ほどの歴史がない貴族がほとんどだ。
その後継者たるこのおれが有名なのは、あたり前のこととはいえ、実際にこういう反応をされるのは気分がいい。
おれは上機嫌のまま答える。
「その通りだが?」
胸をはると、彼は眉間に皺を寄せた。
「ソフィアになんの用だ?」
リュシアンの野郎に、ごく個人的な内容を質問されてムカついたが、やがて合点がいった。
おそらく、こいつは新聞記者だ。この国では様々な新聞が発行されているが、中には貴族や劇団の俳優などの有名人のゴシップを多く掲載している新聞もあった。
だから有名人であるこのおれのネタを仕入れたいのだろう。本来であればそんなくだらないゴシップのネタになるおれではないが、ソフィアとおれがベストカップルだということが国中に伝わるのはそう悪いことでもないので、取材に答えてやらないでもない。
「ソフィアはしばらくおれと離れていたら、おれのことがとても大切だと気づいたって言うんだ。だからソフィアをうちに連れてかえるところなんだ」
おれがそう言うか言わないかのうちにソフィアが叫んだ。
「わたしはそんなこと言ってない!!」
ん? そうだったか? 確かに少し話を盛ったかもしれないが、ソフィアの気持ちを代弁するならそういう話になるだろう。それに、新聞記事になるなら、話は少し盛ったほうがいいのだ。
「ソフィア、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
やれやれ困った女だとソフィアに視線を向けると彼女は、顔を赤くしていた。わかっているとも。ソフィアは目立ちたがり家の馬鹿女どもとは違う。シャイな女なのだ。かわいいやつめ。
だが心配する必要はない。夫の許可さえあれば、女でも新聞に載っていいのだ。
しかし、気分がよかったおれの気持ちはすぐに邪魔されることになった。
リュシアンの野郎は冷たい目でおれに話しかけてきた。
「ソフィアがお前のことは、一切恨んでいないと言うから、放っておいたがこれほど愚かとはな」
ん? 愚か? ソフィアのことか? 確かにソフィアはおれと比べれば多少知能が劣るが、女は多少馬鹿な方がかわいげがあるのでなんの問題もないが。
「このような愚か者がこの世に存在することが罪だな」
罪? 宗教談義でもしたいのだろうか。おれはそういう目に見えないわけのわからないものは嫌いだが。
何が言いたいんだこいつはと、胡乱な目で見つめると、さらに続けた。
「ふむ。阿呆過ぎて、おれの言っていることが理解できないようだな。ソフィアはもうすぐおれと結婚する。そして、おれにはお前をお前の家ごと潰すだけの力がある」
??? どういうことだ? 何をいっているんだ? ソフィアはおれともうすぐ再婚するのだ。その話をしている……んだろう。
「ここまで言っても、まだわからないとは。初代アートランド男爵が気の毒だ。彼は真に英雄であったから」
なるほど、おれの先祖を褒めていたのか! わかりづらい表現をするやつめ!
「もっと褒めろ! 我がアートランド男爵家は素晴らしいのだ」
機嫌を良くして返事をすると、男は笑った。
「くくくっ、はははは!! これは傑作だ。愚か者にも程があるではないか!! はー、しかし、これ以上こんな阿呆に付き合っている暇はない。さっさと出ていけ」
笑っているかと思ったら突然威圧的になる。なんだこいつは。頭がおかしいのか?
おれは、頭を振ってリュシアンの野郎を無視したが、突然襟首を掴まれた。
あっと思っている間に背中に衝撃を受け、天井が視界に入ってくる。
呆然としていると、次は腹に一撃を受けた。
「ゔっ!!!」
息が詰まって生理的な涙がでる。
視界が戻ったあと、目を開くとリュシアンの足が目に入る。そして、もう一度腹に足が入った。
「がはっ!!」
なぜだ。なぜこのおれがこんなことに。
「やめろ。おれを誰だと思ってるんだ。許さないぞ。絶対に許さないぞ!」
悲鳴をあげながらリュシアンをにらみつけた。父上と母上に言いつけて必ずこいつにむくいをうけさせなければ!
しかし、こともあろうにリュシアンはそんなおれを笑った。
「お前こそ、おれが誰だかわかっていないようだな。おれはエルバンテス公爵だ。お前ごときの脳みそで覚えられるかしらないが、覚えておけ」
……エルバンテス公爵、だと?
先王陛下の最愛の娘と言われたユエル王女の一人息子だという、あのエルバンテス公爵? ユエル王女の兄である現国王陛下の覚えもめでたく、内務長官の職に就任してからは、貴族たちの不正を次々と暴いているというあの?
もちろん、我が家は一切の不正には関わりがないので、無関係ではあるのだが。
父上はついこの間、エルバンテス公爵に取り入っておく必要があるとおっしゃっていた。
そんなやつがいったいどうして、今おれの腹を足蹴にしているのだ?
体を曲げて、これ以上腹を蹴られないように守る。気が付けば、涙で顔中がぐちゃぐちゃになってしまっていた。なんで、どうしてこんなことに。母上! 助けてください!!!
「やめてください。やめてください」
必死にお願いすると、ようやく暴力が止んだ。
目を開けると、エルバンテス公爵が冷たい目でおれを見下ろしながら言った。
「さっさと失せろ」
顎で扉のほうを指し示す。
恐ろしいこともあるものだ。おれは暴力を受けて痛む体に鞭打って、立ち上がり、ふらつくままで、慌てて外に飛び出した。
ああ、恐ろしい。
邸の外は恐ろしいことでいっぱいだと母上がおっしゃっていたが、まさしくその通りだな。おれは後ろを振り返ることなく、自らの邸に逃げ帰った。
***
「あの女を連れ帰れることになったの?」
急いで家に帰ったおれは、ソフィアを心配する母上に返事を返さずに自分の部屋に閉じこもった。
いくら、相手がエルバンテス公爵だからと言って、一方的に足蹴にされたなんてこと誰にも言えやしない。そこで、ひとまず回復を待つことにする。
しかし、ソフィアの店を訪ねた数日後、突然、邸内がうるさくなった。初めはふとんをかぶったままやり過ごそうとしたが、その音は収まるどころか、どんどん騒がしくなっている。くそっ、おちおち部屋にこもってもいられないなんて、なんなんだよ!
文句の一つも言ってやろうと、足音を高くして部屋を出た。
すると、思いもよらない光景が広がっていたのだ。
「やめろ、それを持っていくなー!!!」
「その宝石は関係ないでしょ!? わたしの宝石を持っていかないで!!」
取りすがる両親を振り払うように何人もの人間が、勝手に邸の中をうろうろしている。しかもそれだけではなく、たくさんの書類やら、宝石やら骨董品やらを邸の外に運び出している最中だったのだ。
「いやー! やめて!! お願いします。やめてください!」
母上の泣き声が響き渡る。
その母上に、一人の女が近寄ってきて、母上の首につけていた宝石に目をつけた。
「その宝石も……」
「やめて、これは違う。これは先祖代々伝わってきたものなの。違う、違う」
ほとんど半狂乱になった母上は両手で宝石を隠すと後ずさりした。しかし、後ろにもがっしりとした体格の女がまわっており、母上を羽交い締めにした。
「やめてーーーーーー!!!」
母上の絶叫に女二人は顔をしかめたが、すぐに無表情に戻る。
「ご心配なく。調査の結果、あなたの言ったことが正しいと分かればきちんとお返ししますから。我々はあなたがたと違って、誰かを騙して宝石を盗み取るようなことは致しません」
母上の前側の女はそう言うと、羽交い締めにされたままの母上から宝石のついたネックレスを外して、「押収品」と書かれた袋の中に入れた。さらにそれをきっちり鍵のついた箱にしまうと、母上を取り押さえていた方の女はようやく母上を放した。
「返せ!!!」
しかし、母上が飛びかかろうとしたので、すぐにもう一度母上をつかまえる。母上はわめきながら手足を振り回している。
いつも優雅な母上からは信じられない光景だった。なぜだ、いったいどうしてこんなことに。おれが現実を理解できなさすぎて首を振ってしまっていると、今度は父上が何かさけんでいるのが、目に入ってきた。
「その書類を持っていくな!」
父上は父上で書類のぎっしり詰まった箱を抱えて歩いている男の前に立ち塞がって、彼らの行動の邪魔をしようとしている。
箱を抱えた男は少し眉をひそめたが、父上をよけて階段を下ろうとしていた。
「やめろと言っているだろ!!!」
父上は叫ぶと、箱を抱えた男の肩を掴もうとした。
「関心しませんね」
その一言で父上を止めたのは、眼鏡をかけた痩せた男だった。父上はその男を見るとひっっと悲鳴を上げて後ずさった。
「そのような幽霊でも見たかのような態度を取られると、わたしも傷つくのですが」
男が眼鏡を押し上げながら言う。その男に箱を抱えた男が言った。
「ヴァランタン、あなたの悪評は知れ渡っているのでしょう」
「なんと! わたしはただ、エルバンテス公爵の右腕としてすべきことをしているだけなのに」
箱を抱え得た男は、器用に肩をすくめると、そのまま階段を下りていった。
一方、ヴァランタンと呼ばれた眼鏡の男は笑顔で父上を振り返る。父上はここから見てもわかるほどぶるぶると震えていた。いったい、こんなやせっぽっちな男のどこが怖いというのだろうか。
「心配なさることはありませんよ、アートランド男爵」
ヴァランタンはにこやかに笑った。しかし、父上は何も答えられないでいるみたいだ。
「あなたはあくまでも容疑者です。今回押収させていただいた証拠品をしっかり調査して、容疑が晴れれば、きちんとまとめてお返ししますから。ですから、もしあなたが無実なのであれば、何もご心配いらないのです」
そうにこやかに言うが父上はその男に反論した。
「う、嘘をつくなーーーー!! お前たちは、無実の者にも濡れ衣を着せてまわっているじゃないか!!!」
眼鏡の男は父上の声を聞いて眉をひそめて、言った。
「心外ですね。自分たちの罪を自覚していない馬鹿者たちがそのような戯言を言ってまわっているのですね。男爵、わたしたちは嘘をつきません。もし、あなたが法に触れることを一切していないのなら、何も問題ないでしょう。一切法に触れていないならね」
眼鏡の男は自分の言いたいことを言って満足したのか、父上から目をそらした。そして、ゆっくりとおれの方を見る。
「ひっ」
思わず悲鳴が漏れた。彼は笑顔だったが、目が全く笑っていない。恐ろしくて後ずさりしたが、すぐにヴァランタンに追いつかれてしまった。
「次はあなたです。ご子息。あなたのことは公爵から入念に取り調べるようにとの命をうけておりますから、じっくり調査させていただきます」
「どういうことだ?」
「話には聞いていましたが、思った以上に愚かな方のようですね」
ヴァランタンはため息をついた。
「まあ、いいでしょう。どちらにしろ、あなたがどう思うかなど、どうでもいいことです」
ヴァランタンはそう言うと、おれを無視して周りに合図し、おれの部屋に勝手に入っていった。
「何をする! やめろ! おれが何をしたというんだ!?」
おれは叫んで、そいつらの行動を止めようとした。おれの部屋を荒らされるなんて我慢ができない。
そもそも、おれはどうしてこんな扱いを受けているんだ? 何が何やらさっぱりわからないぞ。父上や母上は少しは理由がわかっているようだったが、おれにはさっぱりだ。
おれはこれまで自慢ではないが、めちゃくちゃ清廉に生きてきた。
アートランド男爵家に生まれたことを誇りとして、偉大な父上、お優しい母上を手本とし、妻のソフィアに対しても誠実に、思いやりを持って暮らしてきたというのに。それなのになぜ!!
「おや、これはなんですか?」
ヴァランタンが、小さなネックレスを取り出した。
ああ、そういえばそんなものもあったな。
そのネックレスは出会ったときからソフィアがつけていたものだった。幼いころに死んだ母親の形見だとか言っていたか。
なかなかよいネックレスだと思っていたので、出来心で一瞬だけ付き合っていたアイゼルにやったのだ。結局アイゼルはこんなものいらんと言って投げ返してきたので、ソフィアに返そうとしまっておいたきり忘れていた。
でもソフィアに返す前に、あいつは事の次第を知って激怒したのだ。だから、おれだってそのくらいの些細なことで怒る女にはつきあいきれんと思い、ソフィアに出て行くように言ったのだった。
いくら女は感情を制御することを知らないとは言っても、あそこまで怒ることはないだろうに。
「ネックレスだが?」
ネックレスも知らないなんて、こいつは人生で女と関わったことがないに違いない。かわいそうなやつだ。そう思いながら答えると、ヴァランタンはため息をついた。
「あなたのものですか?」
「そうだが?」
もちろんと頷いたが、ヴァランタンは疑わし気におれを眺めてきた。
「本当に?」
「もちろん」
こいつはなぜ同じことをなんども聞くんだろう。
「まあ、いいでしょう。調べればわかることです」
ヴァランタンはそう言って、ネックレスを箱に入れた。おれは止めようかと思ったが、さっきの母上や父上の姿を見ているととめても無駄だと思いなおした。それに、本当におれのものなんだから、調べられても問題ないし。
ヴァランタンはその後も色々なものを証拠品だといって箱の中に入れていった。おれが一つも抵抗せずにいた結果、想定よりも早く終わったらしい。最後にヴァランタンはこう言って、帰って行った。
「ご協力感謝します。あなたのように協力的な人間ばかりだと、こちらも楽なんですがねえ」
その笑顔にこちらを馬鹿にするような響きがあったのは、きっと考えすぎだろう。
***
「開廷」
おれたちを裁くための裁判が始まった。
ヴァランタンとかいう男とその仲間たちが去った後のおれたちを、ひとことで言い表すなら、“悲惨”だった。
家財一式のほとんどを持ち去られた我が家では、使用人たちも次々に辞めていった。まるで災害の前にねずみが逃げ出すみたいに。
こんなことになるとわかっていたら、あいつを止めたのに!!
そう後悔したところで、どうしようもない。
今は、父上、母上、そしておれとまとめて台の上に立たされている。
後ろの傍聴席には見ると、エルバンテス公爵がふんぞりかえって座っていた。あいつ本当に公爵だったんだな。傷は治ったはずなのに、あいつを見ているだけで腹が痛くなるような気がする。
さらにその横にはソフィアが座っていた。なぜ公爵の横に座っているのか知らないが、我が妻ながらソフィアはいつも美しい。
惚れ直すとはこういうことだと思う。
美しいソフィアに見とれているうちに裁判が始まったらしいが、何が言いたいのかよくわからない。話を分かるように伝えることができない頭の悪い人間なんだろう。
ただ、父上と母上が必死に言いつのるのを見ていると、裁判官の性格が極悪なのがよく分かる。
裁判には、ヴァランタンも出廷していた。あいつがいちいち言いがかりをつけてきて、父上と母上はそれに困っておられる。ただ裁判官はどうもヴァランタンの嘘を信じてしまっているようにも見えた。
おれはため息をつきたくなる。これほど人を見る目のない男が裁判官などをしていていいのだろうか。この国の行く末が心配になるな。
それにしてもソフィアは美しいな。たまにこちらに視線を向けてきているのを見るに、おれを助けようと尽力してくれているに違いない。ソフィア頼むぞ。ソフィアは抜けているところも多かったが、おれほどではないがそれなりに有能なやつだったので、きっとなんとかしてくれるだろう。
隣でエルバンテス公爵がしょっちゅうおれを睨み付けているのが癇に障るが、きっと嫉妬しているんだろう。男の嫉妬とは見苦しいやつめ。
そしてついに、ヴァランタンが何やらもごもごと言った後で、ソフィアが法廷内に入ってきた。隣には公爵もいて腹が立つが、おれの目はほぼソフィアしか見ていない。ソフィア、美しいな。色々とおれのために奔走してくれていたのだろうが、おれはそれよりも早く家に帰ってきてほしい。
ソフィアはゆっくりと証人台の上に立った。
すぐ近くにソフィアがいる嬉しさで、おれの心は沸き立った。だが、こんなに近くにいるのに、ソフィアはおれの方を向かなかった。さっき遠くにいたときは、たまにおれの方を見たのに、距離は近づくほどに、頑なにこちらに視線を向けないのはなぜなんだろう。
「あなたとアートランド男爵の子息リオネルとはどのようなご関係ですか?」
眼鏡がソフィアに向かって尋ねた。
「リオネル氏はかつての夫です」
そうだ、おれはソフィアの夫だ。しかし、ヴァランタンはなぜそんなわかりきったことを質問するのだろう。
「あなたはリオネル氏にこのネックレスを譲渡しましたか?」
そう言って、ヴァランタンはこの間、おれの部屋から持っていったネックレスをソフィアに向かって見せた。
「いいえ。それはリオネル氏がわたしから、勝手に奪っていったものです」
妻のものは夫のものなのだから、勝手に奪うという表現はどうかと思うが……、ソフィアが家に戻ってきたら、すぐに渡そうと思っていたわけだし。
「あなたとリオネル氏の離婚が成立したときも、リオネル氏はこれを返そうとしなかったわけですね?」
「はい」
ソフィアがヴァランタンにうなずく。仕方がないじゃないか、返そうとしていたのに、怒って勝手に怒って出ていってしまったんだから!!!
「なるほどわかりました。もう結構です」
ヴァランタンがそう言うと、ソフィアは元の座席に戻っていった。ソフィアはいつおれのところに戻るつもりなんだろうか。早くしてほしい。もう我慢できないぞ。
ソフィアが戻った後も、ヴァランタンはさらにもにょもにょ言っていた。自分も多少話しかけられたような気もするが、何と答えたのか覚えていない。
判決は即日で出るということだった。別室でしばらく待たされた後に、もう一度同じ部屋に戻った。
正直、おれはさほど心配をしていなかった。だって、おれも父上も母上も何一つ悪いことをしていないのに、どうして心配する必要があるんだ? しかし、父上と母上は暗い顔を続けていた。
不思議に思いながらも、さっきと同じように台の上に立つ。出席者もさっきの同じで、裁判官のほかにヴァランタンや公爵、ソフィアもいた。
裁判官は、何やら紙に目を落としながら言った。
「判決を述べる」
「アートランド男爵は脱税の罪で、爵位剥奪の上、懲役五年に処す」
「待て! 脱税で懲役刑なんて聞いたことがない! 横暴だ!」
「静粛に! 脱税は最高で懲役八年とすると、十日前にエルバンテス公爵によって定められました」
「法の不遡及に反する!」
「法の不遡及は大陸に存在する概念であって、我が国にはありません。そもそも不法行為に及ばなければこのようなことにならなかったのでは?」
「なっ!? そんなはずはない! 先王陛下のときには確かに……」
この裁判官と父上はなんの話をしているのだろうか。
「そして、アートランド男爵夫人、あなたは多くの宝石を宝石店から購入したものの、宝石店への支払いが滞っていますね。支払期限を一年も過ぎているものもあるとか、したがって、窃盗とみなし、懲役二年に処す」
「そ、そんなの! 支払うつもりはあります! 今はちょっと手元にお金がなかったからであって……窃盗だなんて、懲役なんて、か弱い女のわたしに死ねというようなものではないですか!」
「支払うつもりがあった、を認めればほとんどの窃盗犯が同じ主張をすることになるでしょう。また罪の重さに性別は関係ありません。あなたは同じ罪を犯しても、女性の方であれば罪を軽くしろと言うのですか? 死刑ではありませんので、運が悪くなければ死ぬことはないでしょう。ご安心ください」
「いや、やめて! お願いします! お願いします!」
母上が泣き始めた。……あれ、もしかして、これは良くない状況なのか?
「そしてアートランド男爵の子息リオネル、あなたは元妻のソフィアさんから多くのものを盗んだ窃盗に加えて、離婚後もつきまとい行為を続けましたね。したがって、懲役5年の刑に処した上で、刑期終了後は国外追放とします」
は? え? つまり、どういうことだ?
おれが戸惑って何も答えずにいると、裁判官は念を押すように訪ねてきた。
「わかりましたか?」
「えっと、つまり……」
「あなたは刑務所に入ります。その後国外に追放となります」
なんだと?
「なぜだ! おかしいじゃないか!」
「あなたはソフィアさんのものを盗みました。さらにつきまとい行為もしました」
「そんなことしてない!」
おれが主張すると、裁判官はため息をついた。そこにエルバンテス公爵が割って入った。
「無駄だ。その阿呆は説明しても理解できない」
そう言ったあと、公爵はおれにも話しかけてくる。
「おい阿呆。お前には理解できないだろうが、会うのはこれで最後だろうから、言っておく。ソフィアは昨日おれと結婚したから、今はおれの妻だ。二度となれなれしく呼ぶなよ。あと、今度ソフィアのそばに近寄ったら、手段を選ばずお前を殺す。覚えておけ、と言っても覚えられないだろうがな」
え? ソフィアがエルバンテス公爵と結婚? 馬鹿な。
公爵の言っていることの大半は理解できなかったが、公爵のその言葉だけはおれの耳にすっと入ってきた。血の気が引くとはこういうことをいうのだろうか。全身に血液が回らなくなってしまっているような感覚だ。
いや、気のせいだ。ソフィアはおれと結婚しているのだから。
「ソフィア、最後にこいつに恨みをぶつけてやれ」
そんな言葉もおれの耳には入らない。でもソフィアの声だけはしっかりと届いた。
「リオネル。結婚当初はあなたのことが好きだった。馬鹿な人だけど、悪い人じゃないと思ったから。でも、あなたはいつも自己中心的で自分のことしか考えず、わたしの大切にしているものも、勝手に不倫相手に渡してしまった。それ以来、あなたのことが許せないし、大嫌い。だから二度とわたしの前に現れないで」
大嫌い。大嫌い。大嫌い。
その言葉が頭の中に反響した。
あれ、そういえば、前にもその言葉を言われたことがあるような気がしてきた。ソフィア、なんで、おれはこんなにお前のことが好きなのに。おれ以外の男と結婚するなんて。そんなの、そんなの、どうして我慢できるんだ。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だああああ!!!!」
おれが叫んだが、そのときにはソフィアはもういなかった。
エルバンテス公爵だけが、おれを見下ろして、さげすむようにおれを見下ろした。
「ようやく状況が理解できたようだな。そうでないとつまらないから、嬉しいよ。お前の母親が言っていたように、刑務所の環境はあまりよくない。犯罪抑止のためにな。犯罪者が庶民よりも良い生活をしていたら、不満が噴出するに決まっている。お前はそこで後悔しながら過ごすがいい。生きて刑務所をでてこれたとしても、二度とソフィアに近づくな」
そう言ったあと、エルバンテス公爵は楽し気に声を上げて笑いながら去って行った。
でも、おれの頭の中は、さっきのソフィアの声が未だにこだまし続けていた。
大嫌い、大嫌い、大嫌い。
おれは、絶望に叫ぶ両親の隣で、ただ頭の中でその言葉をつぶやき続けることしかできなかった。