ひとときの休息
お久しぶりでございます。
なんやかんや、打ち合わせにはギリギリ間に合った。
一校も大した修正はなく、表記揺れが少々見られたくらいで、一安心した。
他の仕事も余裕があるので、少々休むことにして、家の掃除や家事などを取り組もうと思った。
「……なんだこりゃ」
集中モードを超えて、現実に戻ると、いつの間にか部屋はゴミ溜めになっていた。いつものことだが、頭を抱える。
「集中すると、他が見えなくなる」
資料も、食料も、ゴミと紛れて一切見えなくなっていた。洗濯物が廊下のあらぬところに埃まみれになって落ちている。
足の踏み場もないその状況。信じられない。本当に自分がやったのだろうか。
汚れているのは、好きではない。いや、それどころか嫌いだった。
ため息をつきながら、部屋の掃除を始める。窓を開けて換気をし、部屋に書き物用のメモシールを貼っておく。使用したものの補充と、自分の無意識の動きを付けるためだ。
まず、資料を集めて棚に直す。種別に分けて、デューイ十進分類法に沿って並べていく。
日本では図書の並べ方は日本十進分類法の方が主要だが、日本のものよりもこちらの方が慣れていた。デューイの分類法を参考に作っただけあり、日本のものはそれに似通っているが、やはり違和感があった。
「神経質すぎると言われたが、法則に従って並べるのは効率的なんだ」
誰に向けたわけでもない独り言が漏れる。一人暮らしの悪癖だろうか、しんとした空気をごまかすように言葉を吐くようになった。テレビの音、お気に入りのミュージック、生活音。ふとした音を自分が望んでいることに気付く。それは一人で生活していなかった頃には気づかなかったことだ。
どうしても耐えられなくなれば、街に飲みに出かけたり、友人を呼び出すーー彼らも家族がいるため簡単には捕まらないが。
そんな自分を哀れんでしまう前に、クラッシック、特にドビュッシーの曲を流して、ごまかした。
本棚の埃をはたき落とし、気になったので、踏み台に乗って照明の埃も拭き取る。
大きなものをゴミ袋に入れ、細々としたチリや埃などを掃除機で吸い上げる。フローリングワイパーで拭き上げ、スプレー式のワックスをかけて磨いた。
窓拭きワイパーをバケツにつけて、上から下に向かって均等に力を込めて、滑らせていく。
「…………」
何も考えずに、無心で上から下に動かしていく。汚れに染まった水が下にだらだらと垂れ、窓の上部から窓が透明度を失い、外の景色がゆがんでいった。
ワイパーをくるりと半回転させ水切り側に切り替えて、また同じように上から下へと動かす。ゆがみを正すように、無機質に規則的に。
3時間ぶっ通しで、部屋を掃除した。
要らないものはゴミに捨て、まとめておいた。先日出したゴミは一月前のモノだった。また、ゴミをためないようにしなくてはいけない。
「さて、何をしようか」
見違えるように綺麗になった部屋を眺めて、新しいことを始めたい気分になった。やる気になったときに、すぐ行うのは迷いをなくす一番の方法だと思われる。
スパイスカレーを作ろうと思う。完全栄養食ではないが、栄養を摂るにはこれが一番だ。シンプルに、奇をてらうことなく、基本に忠実に作っていこう。まずは材料からだと、スーパーに買い出しに行った。
調理台に材料を並べて、キッチリとグラム数を計った。
スパイスは、クミン、ターメリック、コリアンダー、カルダモン、オールスパイス、ガサムマサラ。
カイエンペッパーは辛すぎるので入れず、レッドペッパーを少し。まともに食事を摂っていなかったので、刺激物はなるべく少なめにする。
あとはニンニク、ショウガ、玉ねぎ、トマト缶、りんご。それに、サイコロの牛肉。ヨーグルト。
「自分でも、完璧主義だと分かってるんだがな。こればかりは、どうもならん」
タマネギを細かくみじん切りにしていく。半分に切り、リズムを狂わせることなくトントンと縦に切り込みを入れ、タマネギに水平方向に包丁を入れる。そして、そのまま軽く力を入れて、横に包丁を入れていく。
ニンニクは包丁の腹で皮ごと潰し、同じくみじん切りに。ショウガも皮をむいて、みじん切りだ。
まず、鍋にサラダ油をしいて熱し、タマネギを中火で薄い茶色に色が変わるまで炒める。弱火にし、ニンニク、ショウガを投入し香りをつける。
じゃあ、じゃあ、炒まっている音とともに食欲が刺激され、食はやはり香りからだと確信する。
「ふふふふふ」
便利なカットトマト缶を鍋の中に投入。次いでヨーグルト。トマトを潰すように混ぜながら、スパイス、塩と水を入れていく。
そのまま中火に戻し、魔女のような気分でぐつぐつと鍋をかき混ぜる。匂い立つスパイスが火にかけられることで、さらに刺激的にカレーの香りを宙に漂わせた。
サイコロ肉を豪華にゴロゴロと大量に入れる。赤い赤い肉の塊は、じわじわと火が通り、茶色に変化していく。カレーの肉は、鶏、豚、牛、好みが別れると思うが、肉の脂肪の甘みを感じたいなら断然牛だと思っている。豚もけして嫌いではないが。
品種、部位も変えて試してみても楽しいだろう。なんといってもカレーを毎日主食として食べている国もあるのだから、できない話でもないような気がする。
蓋をして、弱火で15分ほど煮込む。
その隙にお茶をコップに注ぎ、一気に飲んだ。作業をはじめてから一切の水を飲んでいなかったのだ。そのまま何杯も飲み、飲む。
「……うまい」
ーー水分を摂らなければ、こうなるのも仕方ない。それに気付かないから、生活能力がないのである。
そのままコップを横に、思いついたネタをメモに書き付けながら、時間が経つのを待つ。
ーーしばらくして。
「……もう、いいだろう」
肉にしっかり火が通ったかを確認するために、箸を入れ、一口味見した。……唾液がジュワッと出てくる旨さと、ほどよい辛みだった。さらにガサムマサラを入れて、少し煮込んで完成だ。とろみがしっかりついていることも確認した。
「くくくくくく」
先ほどから止まらない気味の悪い笑い声とともに、白いライスを皿に盛り、その半分にゴロゴロの肉をひたすら乗せていく。
そして、テーブルに座ることも忘れて、スプーンをカレーライスに差し込んで頬張った。
「……」
何も言わずにまたスプーンを突っ込み、口に運ぶ。
香りが部屋中に満ちている。カレーの甘いようで、辛い、刺激的な匂い。鼻腔が興奮のあまり、その空気をさらに吸い込みたいと望んでしまうような、そんな芳醇な旨さをもたらすものと、実際に口にしたときの旨さは比べものにならない。
うまいに、言葉はいらない。
奇妙なほどに付け加えられた説得力よりも、結局は食べてみればわかるのである。カレーは絶対的な中毒性があると感じた。納得できた小説を描き終える多幸感も似た喜びだ。けしてやめられない。止められない。
あっという間にすべて食べ終わり、中年にもなり、腹の肉にも気を遣う年頃だというのに、もう一杯おかわりをした。
トマトの甘みに、ヨーグルトの甘酸っぱさが、カレーの刺激を柔らかく変えていた。舌で味わい、喉でそのなめらかさを意識した。
満腹感を感じるよりもさきにカレーに手が伸びてしまう。
「……うますぎた」
料理小説になりつつあるので、彼の食道楽はここまでにして。
その後、彼は風呂を沸かして新陳代謝を上げることにした。食べ過ぎを気にしたのである。今更な話だが……。
「……ふぅ」
髪を二回シャンプーで洗い、トリートメントをして、しっかりと泡立てた顔用の石鹸で顔を洗った。ボディシャンプーで、背中をゴシゴシ、脇や耳の下、中、足のかかと、指の隙間など、垢のたまりやすい場所を入念に磨いて。
ざぶんと、入浴した。あふれるお湯に風呂の醍醐味を感じている。
「気分がいいなぁ。仕事も一段落したし、掃除も終わった、うまい飯は食った」
鼻歌をふふふーんと歌いながら、彼は眼を瞑り、今日の充実感に浸った。何事にも代えがたい達成感が体を支配していたーーその別の名を疲労感と呼ぶ。
ーーそして、かれはそこでねおちし、にじかんごにめをさました。
料理小説ではないです。でも、美味しいカレー食べたいです。
お風呂で寝るのは危ないので、ご注意下さい。