最悪な、日々。
――体調が悪いと、全部悪い方向に向かっていく気がする。
昔からそうだ。そして、そのほとんどは母親が原因だったりする。
最近、調子が悪い。体調もだが、物事全ての調子が悪い。
仕事でもミスが続き、キャストとの問題も起こしてしまい、しばらく書類仕事をするだけの部署に回された。
マジで、最悪だ。やりたいことに近づくどころか、遠ざかっている始末だ。どこまでも運がない。
回された部署でも上司と相性が合わず、衝突ばかりしていたのが最近の出来事だ。思い出したら、むしゃくしゃしてきた。
「もう少し申し訳なさそうにできない? 君のせいで、もう大変なんだけど」
「いや、あれは俺のせいじゃないでしょ。勝手に勘違いした相手方が悪いわけで。俺は再三連絡しましたよ」
「悪くなくても、ああいう時は形だけでも謝らないと。喧嘩ごしになって、乱闘騒ぎになるのはありえないよ。力関係ではこっちが弱いんだし。あそこの事務所とトラブル起こしたら、損害の方がひどいわ。それぐらい子どもじゃないんだからわかるでしょ」
「……あそこで阿ってどうなるっていうんすか。同じようなこと繰り返されるのがオチです。責任問題なんですが」
上司とは全くそりが合わない。俺がやったことをネタにして、当て擦るみたいに何度も何度も繰り返して嫌味を言ってくる。このときも同じように、俺に嫌味を言ってきていた。
何度もおなじようなことを繰り返している相手に、悪くもない俺が謝らなければいけないっていうのか? こちらが下手に出ているから、相手が強気になるんじゃないか。俺だって何度か我慢はしたさ、そのたびに報告もした。それなのに、なんの対処もせずにここまで放置したのは、上じゃないか。いいかげんにしてくれ。
普段なら、ある程度聞き流して終わりにする。でも、このときは無理だった。俺の逆鱗に触れる一言をこの男が言い放ったからだ。
「……君さ、コネでここに入ってるんだって? 元大物女優の息子だかなんだか知らないけど。調子に乗らないでね。周りが迷惑被るからさ。いっそのこと、その伝手でもつかって解決してくれたらよかったのに」
「……ハア? いまそんなこと関係ないだろ、さっきから一体何様のつもりだよ!!」
「……⁈ やめなさい!!」
あまりのいいように、椅子から立ち上がり、上司の襟をつかんで持ち上げた。周りは騒然とし、俺は周囲に取り押さえられた。
俺はそのまま自宅で長期休暇を取ることになった。休暇という名の自粛期間である。
口論になった状況を説明すると、上司にも責任があることを上が認めて、退職やその他処分につながることはなかったが、これは職場に戻ったときにどんな噂が流れていることだろうか。憂鬱だった。
酒を大量に飲まないと眠れないようになっていた。同僚に勧められて病院に行き、飲酒をやめるよう伝えられ、職場のトラブルによるストレスで眠れなくなっているのだろうと、睡眠薬と漢方薬を処方されたのは最近の話だった。
母が騒ぎを聞きつけて、マンションを訪ねてくるようになると、それは一気に悪化した。
頭痛や吐き気、震えなどはもう慣れていた。母親と関わるとこうなる。とくに衝突を繰り返すと、あまりのストレスに自分がイカレてしまいそうになり、結局折れるのが毎度のことだったが、今回は流石に折れるわけにもいかず、母親の連絡や突然の訪問を居留守で済まし、なんとか現状を保っていた。
「……それで、どうして俺のところに来るんですか?」
「あんたが母親とのことどうにかしろって言ったんだろ」
「俺が言ったのは、何もしないままでは解決しないということで。自分で動いてみるのも一つの手だと伝えたかっただけですよ」
「言うだけ言うのは無責任だろ。責任もって解決策を考えてくれ」
俺は隣人宅に無理矢理上がり込み、相談をしていた。もう破れかぶれだった。話を聞いてくれるような友人はいないし、ネ友に母の話を聞かせるなんてことは死んでもしたくなかった。遊ぶ友達すらも無くしたくなかった。大して付き合いもなく、別に付き合いが途切れても何も気にしない、流れで事情を話した隣人になら、もう何をいってもいいんじゃないかという気持ちになっていた。ドライで、他人に執着することもなさそうな男だし。
それだけ追い詰められていた。
「お母さんが家に訪問してくるのなら、そのときにきっぱり言えば良いでしょう」
「あんたは俺の母親の怖さを知らないだろ。俺が文句を言えばその10倍ヒステリックに返されるんだ。もう普通の会話は通じないと思ってる。諦めてるよ。どうにかしてくれないか、頼む」
「……他人が介入するのも手だとは言いましたけど、俺みたいな素人が、下手にその手のことに手を突っ込んでも逆に事態が悪化するだけですよ。あるじゃないですか。弁護士……ではなくて、そういう相談ができるところ。NPO法人とか探してみればきっとあると思いますが」
カウンセラーに話を聞いてもらうとか。保健所とか、ネットで検索すればいろいろと出てきます。と、隣人は言った。
だが、俺はそんなところに相談しても意味がないと思った。母はそういった訴訟問題には慣れっこだと言っていたし、金の力で潰してくるのがいつものことだった。
「ああもう。その顔やめてもらっていいですか」
「どうにかしてくれるのか」
「まず、お母さんとの関係を話していただいて良いですか。話を聞かないとどう動いて良いのかもさっぱりだ」
俺は、嫌そうな顔をした男に母親との関係を話した。
途中からメモをし始めたので、何事かと思ったが、解決策を練るために必要なのだと言われた。あいつの家は本だらけで、一体なんの職業についているのかは知らないが、知識量だけはありそうだったので、そういうものかと納得して、話を続けた。
ーー母親は昔から押し付けがちな女だった。
子どもの頃はベビーシッターに育てられていたようなものだった。仕事が忙しいのか、両親ともに家にいないことが多かったのだ。しかし、その割には習い事だったり、塾だったりは山のように通わされ、成績なども逐一確認されていた。
母が仕事を引退してからは、様々な重圧が俺にのしかかってきた。監視されていたという認識だ。友人に干渉されるのは当たり前。部屋の中に入り、机の中やカバンの中身を勝手に見ていたのも、後から知ってゾッとした。やめろと言っても母は隠れて繰り返していたのを知ってる。果てはスマホの中身まで盗み見しようとしていて、母の前でスマホを使うのはやめた。
母は自分の価値観と俺の価値観が合っていないと許せないというタイプだった。何があっても俺は母親の味方をしないといけないし、反抗するのは許されない。
子どもの頃は、母の言うことを絶対的に信じていたものだったが(自分が悪くないという主張だけはうまかった)、世間を知るにつれて、母親がおかしいという認識は強くなっていった。
母はプライドが高く、他人より全てにおいて上回っていないと気が済まない。身につけるブランド品から、自らの美貌、父の会社のこと、全てのことを見せつけるように自慢するのが趣味だった。小学受験に合格したときは、俺のことを褒めるより先に親戚に電話をするような人だ。
中学になる頃には、父と母の距離は離れていたように思う。
母は平気で嘘をつく人間だ。自分が有利になる状況を作るためなら、なんでもする。
女優として培った演技力を駆使して、俺や父を一方的な悪者にして、自分の心を満足させる。そのせいで、父と俺は母の友人たちからは嫌われていた。嘘の上手い虚言癖。その場その場で、都合のいい嘘をつく母はとてもタチが悪かった。
父も昔は、そんな母の演技に騙されたのだろうが、いまでは冷めた目で母を見つめている。2、3年一緒にいれば母の不自然さには気がつくものだ。
別れなかったのは、父も母のステータス目当てで結婚したからだろう。有名女優を妻にしたという勲章。いわゆるトロフィーワイフ。父も母と似たようなものだ。比べれば母よりはいくらかマシだというだけ。
俺は母の干渉に疲れて、就職後はここで一人暮らしをしていること。しかし、それでも干渉は酷くなる一方で、困り果てていることを話した。
「……で、その状況でどうして、その母親と縁を切らないんです?」
「縁を切るったって。職場も母の知り合いが多い場所だし、それに……」
「それに? 金銭的な支援が途絶えるのが嫌だとかですか? 蓄えはないのですか? 職場も変えてみることもできるでしょう。まず、その依存関係をどうにかした方がいいのでは?」
どうしてこいつは金銭的な支援があると知っているのだろうか。驚いた。
正直、金銭面では親に頼っているところがある。マンションの契約は親の名義だ。食費なんかは自分で出しているが、それは微々たるもので。俺の収入はほぼゲーム課金や推しのスパチャに回されている。それでも足りなければ、親から貰うこともしばしばだった。今から俺だけの収入で、今までの生活を暮らしていけるかというと不安はあった。転職に関しても……。
でも、依存というほどではないはずだ。マンションを購入してくれるという母の話も断って、ここに来た。
「貯金はあまりない」
男はため息をつくと、「……問題はあんたにもありそうだなぁ」と小さな声で言った。
「金は貯めればいいだろ」
「そんな簡単に貯められるんですか? 今まで金に困ったことあります?」
「課金やめるよ」
「課金ですか……どれくらい課金してるんです。それに、そんな簡単にやめられるものなんですか? 自分の生活費がどれくらいか分かってます?」
ゲーム課金は月でまちまちだけど、20〜30万ほどだと思う。色んなゲームに課金してるのもあって、だいたいそんなもんだ。スパチャはイベントごとがあるときに5万くらいだ。
そこまで酷い金額ではないはず。
「そんなん分かってるよ、俺が使ってんだ。食費が7、8万?……電気代が多分1万、それと……あと」
「はぁ……」
呆れた顔をされて、コイツに相談するんじゃなかったと思った。こんなふうに否定されるんじゃ話しても意味がない。そして、それと一緒に無性に恥ずかしくなった。
「一旦帰って下さい。親と縁を切るのか、今の生活を続けるのか。それとも全く違う選択を取るのか。しっかり決めてから、来るなら来て下さい」
決心もなく、相談だけされても困る。と言い渡されて、俺は何も言えなくなり、隣人の家のドアを開けて出ようとした……そこで。
「お中元のお裾分けに来ましたー。……あれ、お二人仲良かったんですか?」
もう1人の隣人が来た。




