休みなんて、そんなものはない。
ーー小説家に休みは無い。
明確な仕事の時間が決まっている訳では無いゆえに、休みという明確な時間もないのだ。1日1日が正念場であり、暇であってもネタを集めるのに余念はない。遊びに出ても、トイレに行っても、例えば夢の中だってネタを探し求めている。脳も休みが必要なはずだが、俺の身体は職業病に犯されているようだ。
「……今日も徹夜か」
締め切りが近いわけではなかったが、完全に昼夜逆転生活になりはじめていて、小説を書く手を止められないほどにノっていたのも徹夜をしてしまった理由の一つだ。
今日は夜まで起きて、生活リズムを元に戻した方が良いだろう。ここで眠ってしまえば、不健康まっしぐらだ。
昼食がなかったので、近くのコンビニに買い出しに行くことにした。最近はコンビニのおにぎりの値段が異常に高くなっている。一つが200円近くなっているものもあり、一体誰がこのおにぎりを買うんだろうかと思いながら、弁当を手に取る。
昔と比べると食料も2倍以上値上がりしている。エンゲル係数が過去にないほど上昇しているという話も聞く。エンゲル係数は家計の消費支出に占める食料費の割合を示す指標であり、この割合が高いほど国民の財布がきつくなっている現状だ。
つまり、この国はそれほど逼迫している。高齢者が増加しているとはいえ、先進国の中では突出して高い値だ。国民の不満も溜まるはずである。
「さてさて、戻ろうかな」
途中で眠らないためにコーヒーやエナジードリンクを買い漁り、ついでの夕食も買っておいた。買い出しは明日の自分がやるはずだ、たぶん。無理なときはUberがある。
自宅に戻るために、階段を上がる。なんだか妙に身体が重い。最近、ジムに行ってないなと鈍い身体を引きずって思った。
そこで。
――ドン、ドンドン。
とんでもない音がした。重低音の壁から壁に響き渡るような音だ。太鼓で叩いている音に近いような。それがなんどもなんども繰り返し。わざわざ俺が通る時にならなくてもいいのではというほど、大きな音だった。
(……いったいなにが? 壁がゆれてないか?)
音の原因だと思われる部屋は、あの部屋だった。俺の部屋の隣の隣。
そーっと様子をうかがう。一体何が起きているんだろうか。暴力事件? 棚でも落ちたのだろうか。大きな音だった。気になる。入り口のドアに耳を当てて、音に耳をすます。何も聞こえない。一瞬のことだったようだ。
あの彼の部屋だ。普段は物音一つしないし、逆に周囲の部屋がうるさかったら必ずクレームをしてくるような彼の。
好奇心が抑えられない。しばらく右往左往して、決心した。
問題が起きていたら心配だから、声をかけても問題は無いよな。
確認するだけ。そう、確認さえできれば。
息を吸って、インターホンを押す。反応が遅い。やっぱり何かあったのだろうか。
もう一度インターホンを押す。出てきた顔を見て、ギョッとする。
いつもの彼も機嫌が悪そうな顔をしているが、今日はその段ではなかった。よほど不快なことがあったようで、眉間の皺が濃い上に、表情も何倍も機嫌が悪そうだ。
「……すごい音がしたから、気になりまして、何かありましたか?」
「…………」
しばらく無言の時間が続いた。このまま殴られるんじゃないかと覚悟するほどには、空気が重かった。
「あんた、ゲームできる?」
きょとん。
自分でもあっけにとられた顔になっている自覚があった。その発言が唐突すぎて。
「アーケードゲームなら、よくやりました」
かろうじて、そう返答する。
高校、大学と友人たちに付き合わされてよくゲームセンターに行っていた。自分からやろうとすることはなかったが、何事も要領よく熟す体質のせいか友人たちをコテンパンに負かしてしまい、負けず嫌いの友人たちに対戦を申し込まれる事が何度もあった。そのせいか、ある程度の腕にまでなった。
最近のゲームは流行も分からない。最新のゲーム機が発売されるというニュースを見て、甥っ子に買ってやろうかと思うぐらいだった。シナリオには興味があるので、RPGの有名どころに手を出していた時期もあったが、最近は仕事が忙しすぎて小説を読むことすら出来ていないのだ。
「じゃあ、対戦ゲームできる? ストファイとか」
「まあ、多分……」
コントローラーを渡される。
操作性を理解して、キャラクターを選択する。そのまま戦闘がスタートする。
ーー瞬殺された。
コンボが炸裂し、何もできずに終わった。よくわからないうちに、ボコボコにされた。
「……手加減はしてくれないんですね」
「手加減?」
フンッと鼻で笑われた。俺は一体何のためにここに来たんだったか。
「手加減とかの前にあんた弱すぎるから、勝負にならないし。勝ち負けなんて気にしてない」
「いいますね……」
打ち負かしてやらないと、気が済まないな。久しぶりに、身体に熱が入った。
♢
「……あんた、性格悪いだろ」
「? 普通にゲームしてるだけじゃないですか。勝ち負けは気にしないんじゃ無かったんですか」
テレビ画面にはK.O.の文字が。
何度か対戦して、キャラクターの特性、コントローラーのくせや彼のやり口が理解できた。相手のリズムを崩して、コンボ技をひたすら入れまくる。たまにガードをして。
相手が攻めてくるタイミングは、ひたすら相手の動きを見る。コンボが入る瞬間をつき、ガードを成功させ、こちらから連続コンボを決める。必殺技のゲージも見ながら、しゃがみ、立ちガード、後退を組み合わせながら、相手を翻弄する。
流れるような攻防は戦っていて楽しかった。ボコボコにされた分を返すことは出来たと思う。
「で、話してもらってもいいですか」
「なにを?」
「いやいや、分かりますよね」
コントローラーを動かしながら、話を誘導する。素直に話してくれるとは思ってないが、ゲームをしながらなら、少しはどうだろうか。
彼は取り出してきたアケコンをガチャガチャと動かす。
「……あんたって親居る?」
「もちろんいますよ。人の子ですからね」
「どんな親?」
「うーん、普通の親ですよ。心配性で。一バツもらっちゃった親不孝な息子なもので、その分、いろいろとうるさいですが」
「へー、あんた結婚してたわけ」
「えぇ」
これでも一応20代前半で結婚していたのだ。好き勝手にしすぎて、愛想を尽かされてしまったが。
子どもも居なかったし、小説家になるという自分の言葉に元妻はついていけないと言い、私は差し出された離婚届にサインをした。正直良い機会だと思った。円満で波風も立つこともない離婚だった。
「子どもは?」
「いませんね。機会に恵まれなかったので」
「ふーん……結婚ってどんな感じ?」
「まあ、なんというか、自分の空間の中に新しい人がいるという感じですよ。友人とも、家族とも違う、他人と言うには距離が近いですが。徐々に妻と一緒に居ることになれてくると、それが自然というか、帰属意識が生まれましたね」
「自分の空間?」
「……自分の中のフィールドといえばいいですか。縄張りと言った方が近いのかな、厳密には違いますが」
一緒に居ることが当たり前になりすぎて、彼女に対する感謝や敬意の念が無くなってしまっていたのが結婚生活の晩年だった。やってもらうことが当たり前、何も言わずともそうあるべきだという固定観念ができあがっていたのかもしれない。
「結婚が嫌だったから、離婚したんだろ? 違うの?」
「そういうわけではないですね。進む方向性が違ったというべきでしょうか」
「へー。で、結婚して後悔してる?」
「……なんともいいがたいですね」
あの時間を後悔することはないといえば、うそになる。自分に対して次第に攻撃的になる彼女に、どう接すれば良いのか分からなくなり、一緒に居ても針のむしろに座るような気分になっていた。正直、世間体だけで結婚を続けていたのもあった。
「独り身が向いていたのかもと思う経験ではありました」
「親からそのあと結婚しろとか言われたりしない?」
「時々、いい人はいないのかと聞かれたりはしますが。特に何か言われたりはないですよ」
「……うらやましいね。俺なんて結婚しろってしつこいんだぜ」
……親と喧嘩したのか。話の流れが見えてきた。
「ご両親がどんな考えで結婚しろと言っているかは分かりませんが、簡単な選択で取って良いものではないのは確かです」
「だよな、今の時代にそぐわない事ばっかり言われて最悪だったよ」
「例えば?」
「独り身で居るのは見苦しい。俺は見合いでもしなきゃ結婚相手は見つからないだってよ」
よく聞くな、そういう話は。
彼のコマンドを打ち込む指が止まる。俺の指も止まった。
「ほんと毒親だ」
心の底からそう思っているのだろう声だった。
「……親は子どもが大人になろうと、心配するものですよ。自分の子どもなんですから」
「あんたは知らないから、そういうこと言えるんだよ。あの親は自分の見栄で、子どもが結婚してないのが見苦しいって言ってるの」
「そう思うことがあったんですか?」
「昔からそうなんだよ。俺は親の見栄のためにいるらしい。何度も嫌だって言ってるのに、話も聞かない」
「親も子どもの心は見えないですし、子も親の心は見えません。ましてや他人である俺は何も言えないですが――思うだけでは何も解決しない」
――それほど嫌なら、一度腹を割って話をするとか。見合いを一度受けてみるのも良い。一度受け入れて、やっぱり無理だったと断ることも出来る。
話をするときには自分以外の仲介役を立ててみると、話がスムーズに行ったりするものです。
そう言って、俺は席を立った。彼の瞳がにらみつけるようにこちらを見たが、これは個人の問題で、俺が介入するような事では無かった。
「……えらそうにいろいろ言ってしまいましたが。むしゃくしゃして、壁に八つ当たりするよりは、その方が建設的だと思います。頭ごなしに拒否するだけでは、大変ですよ。
あと、お隣のひとも心配すると思うので、その顔どうにかして下さいね」
彼の部屋から出て、自分の部屋に戻る。
弁当を食べ損ねて空腹だった。弁当の蓋を開けて、冷めた中身を食べる。あまり美味くは無かった。
昔は何も言わずとも、妻が暖かい食事を用意してくれていたものだが。けれど、これを選んだのは自分自身だった。
――さて、仕事をしよう。俺に休みは無いのだから。