2022参院選が終わり、政治を体内の祭儀とし共に成長する
参院選が終わった。そして私は沈鬱としている。この参院選以降三年間選挙が行われないということで、ここでいかに釘を刺せるか、と言われるほど重要な選挙だっただけに、与党が大勝してしまったのはする正直不安でしかない。無論、民主的に行われた選挙の結果であり、大きい国民として与党を信任しているというならば、もうそれ以上言うことはない、永田町に対しては。次に動くべきは我々国民の側である。国民投票か。
とある著述家の方がこの参院選において様々なデータを見やすく整理、公開して、私達有権者に提供してくれていた。私がその中でも学び得たのは、
①維新は地方行政の地盤を得てそこで活動することにより、「力のある政党」というイメージをつけた。
②維新はマスメディアに多く取り上げられることで内容いかんに関わらず多くの発信ができ、それがイメージを強くさせた。
③野党共闘の重要性。
氏もこの選挙の結果を受けて私と同じような心持ちかと推察され、立憲の比例票のマイナス100万票を「提案型野党で党のイメージが弱くなった」と見ているようである。そして、野党共闘をしなかったこと。確かにそれは重要であると思うが、ことここに至った限りは、私はもう一歩踏み出すしかないと考えている。それは、「国民が主体となった民主主義の組織化」である。立憲の提案型野党や野党共闘せず等でイメージが弱まり票が集まらなかった、地方行政とメディアの維新に票が移ったなら、しかし立憲の票が党の対策の不備で移ってしまう、あたかもスーパーの鮮魚売り場で魚の品定めしているかのような、それが果たして正しいのか。立憲がダメだから票を他へと移すのではなく、ダメなら立憲に声をかけ関与し党を成長させていく、そんな国民の姿、「国民が主体となった民主主義の組織化」が必要ではないか。
しかしこの国民が主体となった民主主義の組織化というものが、国民が我が物顔で政治にはびこるというものではないことを注意したい。それは、オルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」とハンナ・アレントの「人間の条件」に寄る。この両者ともその国民から支持されたナチスというものをスペインから、ユダヤ人としてドイツから目撃し、その警鐘を含めざるを得ない生い立ちである。私はその警鐘を、オルテガ・イ・ガゼットから「政治は貴族の生、常に自らを成長させ高い視座を持ち広く他者を見る生がすべきで、それの真逆の成長を怠り低い視座で自己中心的な大衆というものが政治をしてはならない、それすなわちナチス」と、ハンナ・アレントの「人間の要素として生命維持のための労働、世界の耐久性を作る仕事、そして政治的なる活動、のバランスが重要であり、国民国家というものは国家すべてが生命維持のための労働にまるで私的家庭でもあるかのように国家が為される」と読んだ。国家や政治において、私的な大衆、ただ生命維持の労働の点だけで政治にコミットするのは危険である、私はこれに大いにうなずく。ゆえに、私の望む国民が主体となった民主主義の組織化というものは、私的でもなければ大衆でもなければ生命維持でもなければ労働でもない。しかしその主体はこの国民であり人であり私である。そして、直接民主主義に限りなく近づけた自治意識である。それを成り立たせるのは、私という一個の、外界やそれらとの関係性取り囲むシステムにあらず、私という一個の内面の世界においてである。
では、この国民が主体となった民主主義の組織化とは、一体どのようなものであるか。私はこれを、大衆の政治=祭儀と想像した。これは、我々の日常のシーンの中で、最も政治に近しいものを求めてである。祭儀における先祖、神体、霊のような肉体を超えた上位への想像力は、大衆=国民が持つ想像力では最も強く豊かなものである。そしてこの祭儀という広大な空間を異化できる認識と想像力と能力こそ、国民が主体となった民主主義の組織化を成立させる、根源であり人間らしい生き方を示すと考えた。
ただ、私は読者諸氏が、突如先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力と聞いて、どこかキナ臭くなってきたと感じた方がおられるかもしれないと心配する。半端者のそれなどペテン師の域を出ない、妄言であると。私に自己を省みるだけの知性があるかはさておき、それらの言葉を使ったのは、大衆の政治=祭儀として、権力や力というものと対抗するためには、やはりこちらのベクトルではなかろうかと考えてのことである。昨今の強権の様を見ていると、それをどうして止められるか、そのために我々一人一人がどうつながっていくべきか、強権、権力に対して力だけを使っていくくとの限界もみえている。それを越えてなお、我々をつなぎ連帯するための力を、私は先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力だと言おう。私は一個の肉体として、強権・権力彼らの運営に成り立たせる世界から、異なった位層、レイヤーのは世界、領土と財産を想像する。そこで行われる意思疎通、鍛錬=教育、議論、想像によって、私は私の目的と責任を明確にする。しかし、では私の言う大衆の政治=祭儀の骨格たる先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力が既存の宗教とどの点が異するかと問われれば、それは孤立である。国民が主体となった民主主義の組織化とそれを支える大衆の政治=祭儀の空間とは、一個の肉体たる私の尊重と確立から始まる。もし、それらが集団化した力となってしまえば、それは権力に他ならない。先祖、神体、霊、肉体を超えた上位への想像力へ孤立した状態で向き合うそれこそが、自治意識である。この認識と想像力と能力の論理、世界観こそが、今永田町の権力と力に向き合うための豊穣な想像の海へと一人一人によって泳ぎ出すべきだと考える。
果たして、自分が当選して政治家で在り続けんと票集めだけに勤しむ政治家像が正しいのか、国や行政の在り方に・やり方に不満や不安があるからこそ我こそはと出馬し、演説を行い、賛同した有権者が執政の一票を託す、それが民主主義ではないか。当然目的を成すために政界に赴くならば、賛同とする多くの票を集めなければならない。しかしこの二つの大きな違いは、あくまで民主主義たる国民=国民が主体となった民主主義の組織化からボトムアップであるか、永田町の天上に政治家がいて、選挙の時だけ演説カーに降りてきてそのセレブリティを振りかざし票集めに勤しむのか、国民の自治意識の有無である。自民党には経団連や日本会議、立憲には連合、公明には創価学会、共産には党員という、後援者はすでにいるが、それは政治家と国民が窓口業務よろしく応対するものであって、私が展望するのは、言うなれば選挙による間接民主主義を超えた、直接民主主義に限りなく近づけた政治、すなわち自治意識である。そしてそれには、有権者である国民として、想像と認識の十分な鍛錬=教育、議論、想像を必要とし、その場となるのが国民が主体となった民主主義の組織化である。永田町の政治を機械とするならば、その上位たる管理者、強い国民としての民主政治である。それによって国民は、民主政治の管理者としての、領土や財産と目的と責任つまり、政治の機械と両輪となる国民の管理者の勇気を、明確にさせる。おそらくこの先、憲法改正のための国民投票がある。もしやさらなる増税もあるやもしれぬ。その時、国民の、民主政治の管理者としての、認識と想像力と能力が試されるだろう。それすなわち、己の力と欲望の抑制といえるだろう。それを、10万円をくれたから、アベノミクスが娘の就職に有利に働いたから、国葬されるぐらい偉い人だから、という理由で永田町の機械の管理を甘くすることが、民主政治の管理者として正しいのか。
ゆえに、我々国民や大衆は永田町や国際外交上の力の論理たることは不可能であろう。いやむしろ、なってはならないのかもしれない。しかしその力の論理は現状においては必要とされるからこそ、我々管理者たる国民はそれに注意を払わなければならないし、ひざを屈してはならない。もう一度言おう。我々国民と大衆の背後には肉体を超えた上位への想像力、祭儀すなわち肉体を超えて無限なる他者、真たる世界そのものを、階級、人種を、性別を、国籍を、種類を越えた、豊かな領土と財産たる地球そのものを司る認識と想像力と能力があることを自覚し、それが政治へと確立することによって、共に人間が国民が成長できると希望を持つ。我々国民の一個の身体の祭儀、そのものが政治であると希望を持つ、そこから政治を舞おう。
芸人……? 大衆の政治=祭儀?