第八十七話 求婚
使い勝手のいいドレス、愛用のクッション、ブリュンヒルデは来る大航海の日に向けて持っていく品々を選定していた。エルンストの魔の手から解放されるという喜びから、ブリュンヒルデの表情はとても明るく輝いていた。
「出かける日が待ち遠しいわ。他の準備は終わっているかしら?」
「はい。専属護衛騎士の選定も終わりましたわ。お嬢様のご要望通り、隊長はミレッカー卿でございます」
晴れて自由の身になったミレッカーは公爵から土地と報奨金を貰っていたのだが、護衛騎士を引き続き続けたいと言って留まってくれている。
(これ以上迷惑をかけるのもどうかと思ったけれど、やっぱりミレッカー卿がいてくれると安心なのよね)
脱出計画に巻き込んで申し訳ないと思いつつ、ブリュンヒルデの誘いにミレッカーは笑って『お供します』と言ってくれた。
(うん、さすが攻め様。包容力はんぱねぇ……!!)
一度植え付けられた印象は変わることはない。ブリュンヒルデの中でミレッカーは永遠の攻めである。なお、受けはブリュンヒルデの脳内で只今募集中である。
それから三日後、腐った妄想と出立準備に明け暮れるブリュンヒルデの下へ、積み荷の最終調整をするためにヴィルフリート側の使者がやってきた。
そして驚くべきことは、その使者がテオドアで、彼がいつのまにか士官学校をやめていたことだった。
ヴィルフリートの名代としてやってきたテオドアは肌の色のすっかり落ち着き、帝都の貴族らしい風格だった。応接間で再会したブリュンヒルデは白くなった従弟を見て驚くしかなかった。
「ま、まあ。どうしたのテオドア。一体何かあったの?」
もしや何か不具合があって海に出られなくなったのかとブリュンヒルデは心配した。
「何が……って、公爵家の次期当主がずっと海に出てられるわけないだろう。領地経営を学ぶために船を降りたんだよ」
テオドアはムっと顔を顰めて言う。
「で、でもあなた海が好きでしょう? わたくしは皇家に嫁がないから、無理をしなくていいのよ」
ブリュンヒルデはテオドアを心配して言った。ゲーム原作で彼がどれだけ海に憧れていたかを知っている。そして、無理やり海から離されて性格がひん曲がってしまったことも。
だが、テオドアはブリュンヒルデの心配をよそに大声を出した。
「無理なんかしてないっ!! 俺は俺の意思で船を降りたんだ。それとも誰かを婿に迎えて女公爵を目指しているのか?」
テオドアは探るように見た。トゲのある言い方だが、テオドアに悪意はなかった。ブリュンヒルデと添い遂げたい彼にとって婿だろうが嫁だろうがどちらでもいい。肝心なのは、ブリュンヒルデの心がどこを向いているかである。
「いやまさか!! わたくしにそんな器があるわけないじゃない!! それに政略結婚なんて向いていないし、誰かに合わせて生きるのも無理だわ。申し訳ないけれど……引き続き公爵家をお願いします」
ブリュンヒルデは速攻で手のひらを返し、テオドアに公爵家を託した。
しおらしくお願いするブリュンヒルデにテオドアはやけに熱い視線を向ける。思いつめたように顔を強張らせたままブリュンヒルデに問いかけた。
「……なあ、俺と暮らすのはどうだ? 従兄弟だし、気心は知れている。お前に振り回されるのも悪くないと思っているから、お前は俺に合わせる必要ない」
恋に不慣れなテオドアの精いっぱいの大告白だった。しかし、ブリュンヒルデはあっさりと蹴る。
「せっかくだけれど、やめておくわ。わたくし、自由に生きたいの」
そもそも、ブリュンヒルデの目的はエルンストの魔の手から逃げることだ。むざむざと国内に留まることはよろしくない。
(本来ならエミリオとヴォルフラムをくっつけるまでしたいけれど、鎖につながれて闘奴のように扱われる未来が見える。一人身ならともかく、お母さまを悲しませたくないわ)
正直、自分の身を犠牲にエミヴォルを遂行しようと何度も考えた。しかし、両親を巻き込むことを考えるとどうしても無理なのだ。どうしようもなく腐りきったブリュンヒルデの煩悩に家族愛が勝ったのである。
自分の変化をしみじみと感じつつ、ブリュンヒルデは告白が失敗に終わって呆然としているテオドアをキョトンと見上げるのだった。
恋敗れて抜け殻のようなテオドアをブリュンヒルデは心配し、用意した客間にすぐにテオドアを休ませた。
従弟の急変にブリュンヒルデはとても心配し、医者を手配しようとしたが一部始終を見ていた使用人たちから何とも言えない表情で落ち着くように言われ、ブリュンヒルデは説得に負けて医者を呼ぶことは諦めた。
代わりに、金髪の少年が起き上がれるまで側にいようと考え、ベッドサイドに椅子を用意させ、そこに座り込んで優しい従弟を見守ることにした。
「テオドア。大丈夫? もしかして働き過ぎなのではなくて?」
ブリュンヒルデが心配そうにテオドアを覗き込む。きらきら輝く金髪がするりと落ち、黄金のカーテンのように美しい。
「熱はなさそうなのだけど、どこか痛い所とかあるかしら?」
ブリュンヒルデは白い手をテオドアの額に滑らせて己の額の温度と比べる。彼女にしてみれば簡易的に熱を測るための行為なのだが、純朴なテオドアに刺激が大変きつすぎた。
彼の顔はみるみる真っ赤になった。ブリュンヒルデは熱があると思い込んで医者を呼びに行った。有能な公爵家の専属医師は一目見ただけでテオドアの病状を察した。
恋煩いだなと率直に言うのは、この若者が憐れすぎるなと考えた彼はにっこり笑って公爵令嬢に進言する。
「どうもテオドアさまはお疲れのご様子。お嬢様の旅にテオドアさまもご一緒されれば病状も落ち着きますでしょう」
医師の善意により、こうしてテオドアもブリュンヒルデの旅に同行することができた。思いもよらぬチャンスにテオドアは今回のことを大変反省した。
(……思えば俺も迂闊だった。女性にプレゼントもなしに求婚なんてロマンがなさすぎる。今度は夕焼けの海をバックに彼女の好きな生魚を捧げながら求婚しよう)
転んでもただでは起きないテオドアであった。




