第八十六話 脱出計画
大きく開かれた窓から外の風が流れ込み、カーテンを巻き込んでふわりと踊る。この季節特有の緑の匂いはとても清々しく、ブリュンヒルデの腐った脳内をさらに発酵させてくれる。
サラサラと深い紫色のインクで文字を綴り、ブリュンヒルデは満足げにほほ笑む。魔獣発生の危機を乗り越え、安寧が訪れたブリュンヒルデはホルンベルガー公爵家で大切に守られて暮らしていた。ブリュンヒルデとしてはエルンストの魔の手が伸びる前に国外へ脱出したいのだが、叔父は遠い国へ行っていたため、まだ戻ってこなかった
焦る気持ちを萌え妄想でなんとか宥めて、ブリュンヒルデは日々を暮らしていた。
「すばらしいできですわ。さすがホルンベルガーが誇る工房ですわね」
ずっと前に注文していたペン。そして書きやすい紙がようやくできあがり、試作品がブリュンヒルデの下へ届けられたのである。
持ってきたのは工房の責任者、エッボである。
彼はブリュンヒルデの喜びを受けて嬉しそうにほほ笑む。自慢の出来ではあったが、前代未聞の発想力で開発局を驚かしたブリュンヒルデのめがねにかなうか、ずっと緊張していたのだ。
「お褒めにあずかりまして光栄でございます。年内に大量生産ができるよう、設備を準備しておりますゆえ、しばらくお待ちください」
「お願いね。わたくし、紙の消費量がとても多いの」
「心得ましてございます。ところで、お嬢様に一つお話がございます」
「わたくしに?」
「さようでございます。お嬢様の考案なされた木材をとかして紙に成型する……画期的な発想です。ペン先も素晴らしい。ぜひ、特許を取り、お嬢様を代表として新しく事業を起こされてはいかがでしょう」
エッボの提案にブリュンヒルデは目を丸くする。ペン先も木材パルプも自分が考えたわけではない。さらに言うと、パルプも『木材を溶かして紙を作って』というひどく抽象的なもので、製品化までこぎつけたのはひとえに開発局の奮闘によるものである。
「製品化できたのはあなたたちの努力の結果ですわ。わたくしは欲しいものを言っただけですもの。特許は工房でお取りなさい。販売も自由にして貰って構わないわ」
正直、ホモカプ以外に興味がないブリュンヒルデはエッボの提案をめんどくさそうだなと考えて一蹴した。
エッボは驚き、考え直すように言った。良質な紙は需要がある。この優れた才ある少女に相応の肩書とリターンがあってしかるべきだとエッボは説得するが、ブリュンヒルデは首を縦に振らない。
(自分で一から考えたのならともかく、パクッてるだけだからなあ……。研究者たちの血と汗と涙の結晶を横から掻っ攫うなんてできねぇわ)
あと、めんどくさい。
エッボはブリュンヒルデを説得するが、ブリュンヒルデが中々折れないので折衷案として出願書類にブリュンヒルデの名前を併記することを求めた。ブリュンヒルデもそれくらいならと許可を出し、エッボはホクホクした表情で退室した。
その日の夜、家族そろっての晩餐でディートリッヒはブリュンヒルデに特許の再確認をした。
「本当に良かったのかい? お前独自の収入が手に入るのに」
「十分なお小遣いは貰っておりますわ。むしろ使い切れないほどですもの」
ブリュンヒルデがにっこりと微笑む。そうなのだ。この父はさらにブリュンヒルデの予算を増やしてしまったのである。
「いやいやそれくらいでは足りないはずだ。流行りのドレスや宝石、化粧品……この店があればすぐに呼び寄せよう」
「そうよ。ブリュンヒルデ。あなたはこんなに美しくて可愛らしいのですもの。いっぱいいっぱい着飾らなければ」
父と母がタッグを組んでブリュンヒルデに言う。しかし、ブリュンヒルデとしては屋敷に籠って日がな一日妄想にふけっていたい。そして何より壮大な計画がブリュンヒルデにはある。両親に言っていなかったのは、すっかり忘れていたためである。
「お父さま、お母さま。お気持ちは嬉しいのですが、わたくしはこの度の騒動でとても疲れましたの。ですから、国外へだっしゅ……いえ、旅に出たいですわ。お小遣いはその資金に致します」
ブリュンヒルデの言葉に両親や物静かな執事たちまでもが声を上げて驚いた。
公爵はあわてながらも、咳払いして何とか落ち着きを取り戻して尋ねた。
「ど、どこか行きたい国でもあるのかい? それなら家族旅行で行こうじゃあないか」
「あら、素敵ですわ! 思えば家族旅行なんてしたことがありませんでしたものね」
マルガレーテが手を叩いて喜ぶ。
「行きたい国は特にありません。わたくしは旅がしてみたいのです」
真っ赤な嘘だ。とりあえず、エルンストの手が届かない場所へ逃げたい。
「た、たび?!」
公爵は聞き返した。
「はい。叔父様の船に乗り、世界を旅したいのです。お願いお父様。許可を下さい」
ブリュンヒルデは潤んだ瞳で見つめた。
「し、しかし……」
愛娘と離れがたい公爵は渋った。
たしかに、娘を国外脱出させようかと一度思ったこともあるが、ブリュンヒルデと一緒に食事をする喜びがなくなると思うと寂しい。公爵は揺れた。
もう一押しだと睨んだブリュンヒルデはさらに言う。
「それに、この国でわたくしは自由に暮らせませんもの。窮屈はまっぴらですわ」
なぜか、薔薇の乙女のクララではなく『薔薇の騎士』のブリュンヒルデの人気がすこぶる高い。市民からの献上物とかで屋敷に毎日何かしらが届き、お茶会や舞踏会の招待が様々な方面から来る。それもだいぶブリュンヒルデを疲れさせていた。
「……たしかに、この国ではお前の一挙手一投足、見張られているようなものだからな」
公爵はため息を吐く。公爵家で真綿に包むように守ったとしても、閉じ込めていることには変わりない。
マルガレーテも表情を暗くする。娘と離れたくはないが、かといってブリュンヒルデの自由を束縛することもできない。今まで冷遇してしまった分、たくさん幸せになって欲しいのだ。
「わかったわ。ブリュンヒルデ。旅を許しましょう」
マルガレーテが答えた。腹をくくるのはいつも公爵より早い。
「マ、マルガレーテ!?」
公爵は妻の名前を呼ぶ。
「あなた! ブリュンヒルデがここまで思い悩んでいるのですよ。親ならそれを汲むべきですわ!! 心配なのは私も同じ! ですけれど、ヴィルフリート殿と一緒なら安心ですわ。信じて託しましょう」
覚悟を決めた妻の顔に圧倒され、ディートリッヒは頷くしかなかった。
こうしてブリュンヒルデは堂々と国外脱出の切符を手にすることができたのである。
一方、ヴォルローゼ宮殿ではある種の企みが進行していた。
宮殿の一角、高い天井と長いテーブルに有力貴族たちが居並び、端席に皇帝と皇后、そして皇太子が座る。いつもと違うのは、席にエルンストやエミリオ、ルドルフがいるということだ。彼らの親だけならいざ知らず、彼らがこの席に招かれるのはまさに異様だった。
進行役の貴族が張りのある声で一同に宣言する。
「では、来る薔薇祭りの日、ホルンベルガー嬢に伴侶を選んでいただくということでよろしいですな」
皇太子ヴォルフラム、エルンスト、エミリオ、ルドルフが頷く。この場を用意したのは彼らだった。
ある夜、ヴォルフラムの部屋に集まった彼らお互いのブリュンヒルデの思いを再確認した。そして、誰もが引くつもりがないことを知り、ブリュンヒルデに選んでもらおうと考えたのである。
しかし、国の英雄となったブリュンヒルデを娶るとなると、各個人の事情だけでは済まされない。そのため、この仰々しい場を設けたのだった。
「皆の者、わかっていると思うが一番重要なのはホルンベルガー嬢の心だ。意に添わぬ結果でも潔く受け入れ、恨むことのないように」
皇帝が念入りに若者たちへ言う。
「ご心配はいりません。我々は誰が選ばれても祝福しようと固く約束いたしました。思いが報われなくても、ブリュンヒルデが選んだ道ならば、祝福するのみです」
強い決意を秘めたヴォルフラムの言葉に皇帝は力強く頷いた。




