第八十四話 称号
ヴォルローゼ宮殿の南側、政務を司るその厳粛な場で皇帝はエルンストからの書状を読み上げていた。それは驚くべきものだった。
「クララ・メルベートが薔薇の祝福を授かり、薔薇の乙女として覚醒した。かのものは重傷を負った黄薔薇の騎士、ヘルモルトを治癒し、その偉大なる力を示した」
皇帝の言葉に居並ぶ大臣は歓声を上げた。
「いやあ、すばらしい!! 薔薇の乙女が再び我が帝国に降臨されたとは、まことに喜ばしいことじゃ」
「わしはてっきり、ホルンベルガー嬢が薔薇の乙女だと思っておったが、まさかクララ嬢がのう」
「いやあ、変に言いふらして恥をかかずに済んで良かったわい」
呑気な大臣たちは喜び合い、また皇后の忠告に感謝した。
その中でレーブライン侯爵だけが大人しかった。先にエルンストから聞いていなければ、「うそだ!!」と場をわきまえずに怒鳴り散らしていただろう。
それほど彼はブリュンヒルデに入れ込んでいた。
(クララ嬢が治癒能力を覚醒させたのだってホルンベルガー嬢がお膳立てしたからではないか。魔獣の気配をいち早く察知し、黄薔薇の騎士を覚醒させ、また魔獣を撃破したのは彼女だ!)
ふつふつと彼は怒っていた。
しかし、彼の怒りは皇帝の言葉で瞬時に鎮静化した。
「なお、魔獣の気配を察知し、ケルシャ、ゲンドルの街を救ったホルンベルガー嬢の功績は並々ならぬものがある。ベネシュ卿曰く、彼女は『薔薇の乙女』や『薔薇の騎士』とは別の存在、彼らに力を与える『薔薇の女神』ではないかとのことだ。異論がある者はおるか?」
皇帝の言葉に大臣たちは首を振った。
ブリュンヒルデの功績はレーブラインの努力の甲斐もあり、耳にタコができるくらい知り尽くしている。
「ベネシュ卿のおっしゃる通り、『薔薇の女神』が相応しいと存じます」
「さようさよう、過去の文献を見ましても、薔薇の乙女の覚醒は国が魔獣に蹂躙されてからの事、今回のように危機を未然に防ぐことができたのは、ひとえにホルンベルガー嬢のお導きの結果、まさに『薔薇の女神』に相応しいかと存じます」
とある大臣が言った。彼は思ったことを言っただけだったのだが、レーブラインは初恋の乙女のごとく、その言葉に胸を射抜かれた。かの大臣の手をガシっととり、強い力で握りる。
「その通りだ!! 陛下、わたくしもベネシュ卿の考えに賛同いたします。ホルンベルガー嬢の功績はもはや人知を超えております。どうか『薔薇の女神』の称号をお送りください」
熱弁を振るうレーブラインに圧倒されながら、皇帝は傾いた。
「私もホルンベルガー嬢の功績は称えられてしかるべきだと考えておる。だが、ホルンベルガー嬢はとても謙虚で目立つのを嫌う性分だ。まずは彼女の意思を確認してから話を進めよう」
皇帝の言葉にレーブラインは渋々ながら頷いた。
続けて皇后が言う。
「侯爵、あなたの企画した凱旋パレードですが、それについてもホルンベルガー嬢の意思を確認してからにしましょう。英雄の気に添わぬことをするのが正しいことだと私は思えません」
「……承知いたしました」
レーブラインは深く頭を垂れる。皇帝と皇后に繰り返し言われ、ようやく頭が冷えたのだった。
一方、デンベラの街は毎夜に渡って宴会が繰り広げられていた。そこで、ポテトチップスとクラフトコーラが大量に振る舞われ、ブリュンヒルデの偉業を皆が讃えていた。
しかし、ブリュンヒルデの頭の中は逃げる事だけを必死に考えており、ロクに酒宴を楽しめていない。
(叔父様からの連絡はまだなのかしら……。はやくしないと、エルンストが次の手を打ってくるわ。こうなれば、明日にでもここを発つしかないわね……)
好待遇を受けるにつれ、ブリュンヒルデの疑心暗鬼度は上がっていった。
ブリュンヒルデは皆が寝静まった夜、オットーに馬車の手配を頼んだ。
「馬車……でございますか」
「ええ、早く家に帰りたいの。お母さまたちが心配しているわ。明け方に発ちたいのだけれど、お願いできる?」
「……わかりました。至急ご用意いたします」
オットーは少し間を置いた後、請け負ってくれた。間の空け方が気になったが、用意してくれるならなんでもいいやと考え、ブリュンヒルデは明日に備えて寝た。
鳥が鳴く前、ブリュンヒルデの扉が叩かれた。
眠い目をこすりながらブリュンヒルデはよっこらしょと寝台から降りて扉を開ける。
「ブリュンヒルデ。準備が終わったから呼びに来た……すまん! まだ着替えが終わっていなかったんだなっ!!」
目の前にいたのはヴォルフラムだった。彼はネグリジェのままのブリュンヒルデを目の当たりにして顔を真っ赤にし、慌てて扉を閉めた。
彼の声でようやくブリュンヒルデの脳が覚醒する。
「こ、皇太子殿下!? こ、こんな朝早くに何かあったんですか!?」
まさか魔獣が出たのだろうかとブリュンヒルデは青ざめる。
「出立の準備ができたと伝えに来ただけだ!!」
「しゅ、しゅったつ……?」
「昨日、オットーに帰宅準備をするように命じていただろう? 街の役人総出で準備をしてくれたぞ。おかげで俺たちの手間もだいぶ省けた。あとは馬車に乗り込むだけだ」
ヴォルフラムの言葉でブリュンヒルデはようやく合点がいく。
(そういやオットーに口止めとかしていなかった!! あたしのアホー!!!!!)
凡ミスを後悔しながら、ブリュンヒルデは渋々着替え、疲れ果てた顔で皆の前に顔を出した。
皆はそれが宴会疲れだと考え、口々にブリュンヒルデを労わる。特にクララは心配して治癒能力を使おうとまでした。
「クララ、気持ちは嬉しいけれど、あなたの能力はここぞというときに使ってね。乱用すると疲れて再び倒れちゃうわ」
「で、でも……ブリュンヒルデ様のお顔が真っ青です。むしろ今こそ使い時なのかと!!」
「だ、大丈夫!! 体は何ともないから!! 家でゆっくり寝れば治るわよ」
心配性なクララを嗜めながらブリュンヒルデは馬車に乗り込んだ。クララも同じ馬車で、寝込んでいた時のことを誰かから聞いたのか、
「今度は私がブリュンヒルデ様のお世話をします!!」
と意気込んだ。
ブリュンヒルデはありがたく、彼女の膝を枕にして横になった。
オットーが手配してくれた馬車は豊かなクッションと、肌触りのいい生地で誂えられ、とても居心地が良かった。
馬車はブリュンヒルデを気遣ってゆっくりと進むから、まるでゆりかごに乗せられているような気分になる。
うとうとと心地よい眠気がしたころ、クララに呼び起された。
「ブリュンヒルデさま! あれ!!」
クララは大きな声で窓の外を指で差す。
ゆっくりと起き上がったブリュンヒルデは、窓越しにその光景を見た。
「おい!! 絶対にまた街に来いよ!!」
朝日に照らされ、真っ赤なに染まったゲルトが小高い丘に立っていた。馬車が通る道は限られるが、すばしっこいゲルトなら近道も知り尽くしているのだろう。彼は先回りしてブリュンヒルデを待っていた。
母親のように泣きながら見送るなんて嫌だった。父親のように礼を尽くしてお別れを言うなんて今更恥ずかしかった。
「絶対だからな!!!」
ゲルトはブリュンヒルデの馬車が見えなくなるまで叫んだ。
馬車に乗るブリュンヒルデの答えはゲルトの耳に届かない。彼はきっとブリュンヒルデはここに来てくれないだろうと、うすうす理解していた。子供心に、ブリュンヒルデの心はいつも別のところにあると気づいていたのだ。
だが、もう会えないと諦めたくはなかった。
(上等だ。俺の方から行ってやる……。いつか、誰よりも強い騎士になってお前に会いに行ってやる)
こうして帝国最強の剣士が誕生するきっかけとなるのだが、ぞれはずっと未来の話である。




