第八十三話 暗躍
愛用の椅子の上でレーブライン侯爵は、心の友からの手紙をいそいそと開いていた。長年の知己ではなく、ついこの間心を通わしたばかりなのだが、親友と言っていいほどレーブラインは心を許していた。相手の名前はエルンスト・フォン・ベネシュ・クロイツァー。皇太子の側近である。彼は愚かなレーブラインの勘違いを正し、贖罪の道を示してくれた恩人でもある。
レーブラインは子供のようにはしゃぎながら美しい筆跡を目で追った。
「なんと!!」
ある程度読み進めたレーブラインは声を上げた。傍に控えていた執事は主人の声に反応した。
「侯爵様、いかがなさいました」
「ホルンベルガー嬢が薔薇の乙女であるということを伏せて欲しいとのことだ……」
レーブラインは夢破れた青年のようにがくりと力なく椅子に体を預けた。レーブライン侯爵は皇帝への奏上、ホルンベルガー家の謝罪の後で、大々的にブリュンヒルデの正体を発表する予定だった。大規模パレード、楽団や舞姫の選定、レーブラインは頭の中でたくさん夢を詰め込んでいたのだが、エルンストの手紙はその夢を粉々に砕いた。
「それは……困ったことでございますな、一体何があったのでございましょう」
レーブラインがどれほどホルンベルガー嬢に心酔しているかを知っている執事は主人に尋ねた。
「ベネシュ卿がホルンベルガー嬢と賭けをしたらしい。その賭けが終わるまでは公表しないという約束になったそうだ」
「ホルンベルガー嬢が薔薇の乙女であることをずっと否定していらっしゃいますから……ベネシュ卿はホルンベルガー嬢の意を汲んだのでしょう」
「……まあ、本人に無理強いしても仕方がない。薔薇の乙女の件は伏せ、『刻印』が出たことと、彼女の功績だけを触れ回ることにしよう」
レーブラインは不服そうに渋い顔をしながら言った。
シガーラウンジ、コーヒーハウス、行きつけのテイラー。レーブラインはそこでブリュンヒルデがいかに素晴らしいかを皆に話して聞かせた。傍系の貴族、ユリアに陥れられた不遇、そしてそしりを受けつつも世のため人のため、身を犠牲にして働く彼女の献身を涙ながらに語った。
長い間、ホルンベルガーと敵対していた彼の変わりように周囲は面食い、何か薬物でも盛られたのではないかとすら心配した。しかし、レーブラインは根気よく語り聞かせ、またホルンベルガー公爵家から追い出されたユリアがしでかした罪の数々が明るみになるにつれ、人々の心はブリュンヒルデに向いた。
ユリアの罪状は多岐にわたった。恐喝、窃盗、詐欺も行い、さらには五組のカップルを破局させた上に男から金銭を巻き上げていた。あまりの酷さに取調官は、「お前は世が世なら大悪党になれていたよ」とうっかり称賛してしまうほどだった。
こうしてレーブラインの活躍により、ブリュンヒルデの悪評はすっかり落ち着き、その人気ぶりに議会で『再婚約』の話題が上るようになった。奇跡の力を持つ『薔薇の乙女』が次期皇后となれば、帝国の繁栄は約束されたものだと熱に浮かされた大臣が皇帝に進言していた。しかし、皇帝は難色を示していた。
「皆の申すように、薔薇の乙女が皇后になれば民も喜ぶだろう。だが、我々はホルンベルガー嬢を断罪した側だということを忘れるな。婚約破棄を言いつけておきながら、手のひらを返して再婚約など厚かましいにもほどがある」
「陛下のおっしゃる通りですわ。わたくしたちの行いがどれほどかの彼女を傷つけたことでしょう。彼女の意思が最優先です。それに、ホルンベルガー嬢は自分は薔薇の騎士であり、薔薇の乙女ではないと否定しています。彼女の意思を無視し、事を進めるのは愚か極まりありませんわ」
皇后も皇帝に賛成した。
かつて、ブリュンヒルデを糾弾していた大臣たちは真っ赤な顔で俯き、その議題は二度と上ることがなかった。
一方、ホルンベルガー公爵家では別の動きがあった。
「ブリュンヒルデの悪評が落ち着いたのはいいのだけれど、このままいくとあの子は皇太子殿下と無理やり結婚させられるのではないかしら」
公爵夫人、マルガレーテは娘を案じた。娘が皇太子をとても愛しているのは知っていたが、皇太子が娘の力を利用するつもりで結婚するならなんとかして止めたいと考えていた。それは夫であるディートリッヒも同じで、ブリュンヒルデを逃がす計画を立て始めた。
「気候のいい場所で修道院を作ってみるのはどうだろう。もちろん剃髪もなし、名ばかりの修道院でブリュンヒルデに自由に過ごしてもらうんだ」
「まあ、素敵ですわ!! それなら余計な虫もよってきませんしね」
妻は夫の妙案に手を叩いて喜び、秘密裏に修道院建設計画を始動させていた。