第八十話 奇跡
ガラガラと音を立てて車輪がでこぼこ道に轍を作る。
鎮痛剤を投与されたヘルモルトは意識もまばらで、街から上がる煙に体を強張らせた。主君のいる街で何かあったのか、お嬢様は無事か、ヘルモルトの唇はそう叫ぶが、音にならず、ただ無意味に唇が動くだけだった。
しかし、傍についていた看護兵はなんとなくその意味を理解し、ヘルモルトが落ち着くための嘘を言った。
「あの煙は作戦成功の狼煙です。何の心配もいりません。さあ、気を楽にしてください。街についたら医者が待機していますからね。きっと、腕も……よくなりますよ」
衛生兵の言葉は自分の希望に近かった。医者の手配はすんでいるが、ここまで損傷した腕は、切り落とすしかないだろう。しかし、気力を削がれた患者は生きることを諦めてしまう。衛生兵はなんとかして彼に生きてほしかった。あの恐ろしい現場にいたものにとってヘルモルトは救世主であり、英雄だったのだ。
(あの狼煙は位置を確認するためのもの。もしや、街に魔獣が現れてヘルモルト卿の助けを呼んでいるのではないだろうか?)
一度、考えが動き出すと止まらない。作り笑いが維持できなくなり、彼は同僚に看病を変わってくれるように頼んだ。
「隊長、前方から何かが来ます!!」
兵の一人が声を上げた。とたん、全員に緊張が走る。それは徐々に近づいてきた。全速力で駆けてくる影を見て兵たちは柄を握る手に力を入れた。
だが、その緊張は続かなかった。遠目であったが、貴人が乗る馬車だった。そしてその馬車の窓から華奢な女性が身を乗り出した。風にあおられて美しい金髪が揺れる。
「ヘルモルト!!」
綺麗な女性の声だった。
兵たちは呆気に取られていたが、その声を聞きつけたヘルモルトは身じろぎした。
「お……嬢様」
か細い声で主人を呼ぶ。
もちろんその声はブリュンヒルデに届かなかったが、彼女は確実にヘルモルトに近づいていた。十分に馬車が近づいたところでブリュンヒルデは馬車を降りてヘルモルトの待つ救護馬車へと走った。
そしてその後を騎士に抱えられたクララが続く。
「ホ、ホルンベルガー公爵令嬢!」
隊長はブリュンヒルデの姿を見て慌てて体を折り、礼を取る。他の兵もそれに続いたが、ブリュンヒルデはすぐに立ち上がらせた。そして横たわるヘルモルトに近づいた。彼女はヘルモルトの痛々しい両腕を見て悲鳴を上げそうになった。あまりにもむごい有様だった。そして、そのきっかけを作ったのは紛れもないブリュンヒルデのなのだ。
「……ごめんなさい」
ブリュンヒルデはそれ以外の言葉が出てこなかった。しかし、ヘルモルトは優しく笑う。
「謝らないで下さい。お嬢様のおかげで私は騎士として『人を守る』ことを全うできました。騎士にとって無力程辛いものはございません。この力を与えて下さったお嬢様に感謝いたします」
ヘルモルトの声は小さかったがブリュンヒルデの耳元にきちんと届いた。しかし、まだ顔を俯いて自責の念に駆られるブリュンヒルデに明るい声が投げられる。
「そうですよ。ブリュンヒルデさま。しょんぼりなさらないで下さい。それに、ヘルモルト卿の腕は治るのでしょう?」
騎士に抱えられたままのクララがキラキラした笑顔で言う。デンベラを発つとき、薔薇の乙女の治癒能力を聞かされたクララは驚いたものの、ブリュンヒルデの言葉をもはや疑うことはなかった。
「ヘルモルト卿!! 私、治癒能力が使えるんですって!! だからちゃっちゃと傷を治しちゃいますね!! 傷よ治れ!!」
クララは大きな声で叫んだ。ブリュンヒルデに早く笑顔になって欲しい一心だったが、何も起きなかった。
「あ、あれ?」
クララはぽかんとする。
もちろん、周囲も同様だ。
ブリュンヒルデは少しだけ微笑む。クララの気持ちがなんとなく伝わった。
「……クララ、治癒能力は手順があるの。こっちへきてくれる?」
「はい、はい!!!」
頬を赤く染めたクララは騎士に連れてきてもらってブリュンヒルデの隣に来た。
「患部に手を翳して、治りますようにと念じながら今から言う呪文を唱えるの。『偉大なる御身よ、我が祈りを聞き届けたまえ』とね」
ブリュンヒルデが教えると、クララは深く頷いた。緊張した顔で彼女は手を翳し、ブリュンヒルデに教えられたとおりの呪文を唱える。
すると虹色の光がクララの手に集まり、ヘルモルトの両腕を包み込んだ。徐々にその光が小さくなり、蝋燭の火が消えるように最後の明かりがなくなったころには、ヘルモルトの腕が完治していた。
ヘルモルトは両腕を上げて感覚を確かめるように手を握ったり、開いたりして動かした。
「……信じられない」
ヘルモルトは思わず声を漏らした。
周囲の兵たちはぽかんと口を開けたままにしていたが、次第にその口から歓声が沸き上がった。奇跡だ。素晴らしい。と彼らはクララを称えた。
クララは自分がしたことなのにドバーと涙を流し、グチャグチャな顔で良かった良かったと喜んだ。ブリュンヒルデもうっかり泣いてしまい、二人で抱き合った。クララを抱えた騎士はとても居心地が悪かったが、喜び合う二人を見て同じようにほほ笑んだ。
その奇跡は少し離れたところから、ヴォルフラムとエルンストも見ていた。彼女たちの邪魔になならないよう、あえて距離を取っていた。
「薔薇の乙女の治癒能力は素晴らしい力だな」
「ええ。ですが、様々な制約があると文献に記されていましたので乱発はできません。ホルンベルガー嬢でしたらご存じでしょうが」
「……俺を鳥から庇った奴らも治療してやりたいが、難しいかな」
「あとでホルンベルガー嬢に相談いたしましょう。きっと良い知恵を授けて下さいます」
エルンストの言葉にヴォルフラムは笑う。
「違いない。 ……クララ嬢が薔薇の乙女なのは疑う余地もないが、その力のすべてを知り尽くしているブリュンヒルデは一体何者なんだろうな。薔薇の乙女の上をゆく、さしずめ、薔薇の賢者と言ったところか」
ヴォルフラムが本気とも冗談ともつかない調子で言うとエルンストは笑う。
「そんな味気ない名前何てあの方に似合いませんよ」
「なら何が似合うというんだ?」
ヴォルフラムがムっとした顔で言うと、エルンストはきっぱりと答える。
「薔薇の女神」
だと。




