第七十七話 民
空を舞う巨大な鳥の存在はジクセン平野の民を慄かせた。獲物を屠る鷹のような動きで鳥はゆっくりと空を旋回する。
人々はいつそれがこっちへ爪を向けるかと怯えた。
ルドルフの指揮でゲンドルの街へと避難は始まっていたが、木の魔獣を見ていない者は、兵たちに避難を指示されても、重い腰を中々上げなかった。食事時だったのもいけない。
「煮炊きがもうすぐ終わるって言うのに、兵隊さんはせっかちでいけねえな」
「食事くらいとらせてくれてもいいだろうに」
『魔獣が攻めてくる』と兵たちが言ったのだが、
「薔薇の乙女様がいるんだからどうってことないさ」
と呑気に汁物をすすった。
だが、そんな彼らの表情を変えたのは、ボール遊びをしていた子供の言葉だった。
空高く蹴り上げたボールを目で追った子供は、珍しい色の鳥を見つけたのだ。
「父ちゃん、あの鳥はなんていうの?」
子供の声に端を発し、何の気なしに上を見上げてその強大な鳥……魔獣を目の当たりにしたのだ。
人々は動けなかった。人は見知らぬものを目にしたとき、思考が瞬時に飛んでしまう。彼らもそうだった。ひたすら、鳥の化け物が行く先を目で追った。
そしてその鳥が神のみ使いでないことは、平地をかける一隊がその爪で吹き飛んだことで理解した。その後は、悲鳴を上げ、腰を抜かし、兵たちに縋りついて泣き叫んだ。
兵たちは彼らを立たせようとするが、恐怖に覚えた彼らはその場で座り込むか、逃げ場所を探して走り出し、収拾がつかなくなっていた。
ルドルフが声を上げて落ち着かせようとしたが、鳥の恐怖の前にその声は届くことはなかった。
「父ちゃん、あれ何?」
子供が声を上げた。
恐怖を理解していない子供は、両親がなぜ泣き叫ぶのか不思議でたまらなく、鳥をつぶさに観察していた。
「黒い光、初めて見た」
子供は不思議そうに言った。
その直後、地鳴りが響き渡り、爆風が一帯を襲った。天変地異かとさえ思ったが、それはすぐに止んだ。
人々が気づいたときには、空に鳥の姿は何もなかった。
「あれは夢だったのか?」
誰かが呟くが、全員が同じ夢を見るというのも変な話だ。
「一体あの鳥はどうしたっていうんだ! 兵隊さん、何か知っているんだろう!?」
民は兵たちに詰め寄った。避難誘導に専念していた彼らは答える言葉を持っておらず、ただ押し黙るしかない。
その代わりに無邪気な子供の声が響いた。
「あっちの街から黒い光が飛んだんだよ。それが鳥を消しちゃったんだ」
すごかったと、子供は楽しそうにはしゃぐ。
「く、黒い光!?」
「そんなものがあるわけないだろう!」
大人たちは理解できない恐怖から、自然と声が荒くなる。
子供はムキになった。
「嘘じゃないもん! 本当に黒い光が出たんだってば!!」
そう叫ぶ子供の頭にやさしく、大きな手のひらが載せられた。
「君の言う通りだ。黒い光……黒薔薇の騎士、ホルンベルガー嬢が化け物を退治して下さったんだ」
ルドルフは穏やかな声で言った。その声に子供は嬉しくなってぱあっと明るい笑顔になった。
「あれは黒薔薇の騎士様の力なの?! すごかったよ!! あんな大きな鳥を倒しちゃったんだから!!」
興奮気味に子供は話した。ルドルフはしゃがんで子供と同じ目線になり、その話を嬉しそうに聞いた。
いつのまにか子供の周りには人だかりができていた。黒い光を見た者はいなかったが、巨大な鳥の脅威がなくなったことは覆しがたい事実だった。
しかし、人々の中にうまく呑み込めない者もいた。
「あのう。黒薔薇の騎士様と言うと、薔薇の乙女様のニセモノではなかったでしょうか」
男の質問にルドルフは眉を顰め、あきらかに不愉快そうな顔をした。怯む男だが、ルドルフはじっと見据えた。
「ホルンベルガー嬢は常に『自分は薔薇の乙女ではない』と仰っていた。我々が彼女の功績から『薔薇の乙女』と勝手に決めつけていたにすぎん。ニセモノは本物に成り代わったモノのことを言うが、ホルンベルガー嬢は一度たりとも成り代わったことはない。それはよく覚えておいて欲しい」
ルドルフはきっぱりと言い切った。
彼からは熱ささえ感じる怒りが迸っていた。目の前の男にではなく、自分たちの愚かさがブリュンヒルデに消えない瑕をつけてしまったことが堪らなかった。
(くそ。俺たちが彼女の言葉に耳を傾けていれば、彼女がニセモノの汚名を被ることはなかったのに!)
ルドルフの怒気に当てられて男はコクコクと頷いた。
「も、もう、あんな化け物はでてこないので?」
他の民が問いかけた。目下、一番気になるところだ。あんな化け物が跋扈するなら、とっとと逃げ出さなきゃあいけないと思った。
「出てくるかもしれんが、黒薔薇の騎士様、ホルンベルガー嬢が退治して下さる。だが、今度から、避難指示が出たらきちんと従って動いてくれよ」
ルドルフが言うと、民たちは反省して迷惑をかけた兵たちに謝った。
危機が去った彼らは、黒い光の話に花を咲かせ、その眼で見れなかったことを悔しがった。そして、そんな素晴らしい力を持った人が、自分たちを守ってくれることに喜び湧いた。




