第七十五話 急変
デンベラの門兵は砂埃を上げて駆けてくる一団を見つけた。
「皇太子殿下が戻って来られた!! 門を開けよ!!」
エルンストから指示を受けていた彼らはすぐに動いた。
同じころ、クララを乗せた救護馬車が大通りを抜けて東門に向かっていた。
クララが辛くないように馬車の進みはゆっくりだったが、確実に薔薇の花とクララは近づいていた。
ブリュンヒルデはそう広くない馬車の中でクララの顔を見ていた。少し幼い印象を受ける丸みを帯びた頬は少し赤みが差し、唇はさくらんぼ色だった。以前見た時よりも格段にクララの表情は良くなっている。
(クララが目覚めればもう何も心配することはないわ。ヘルモルトの腕は治るし、薔薇の騎士を新たに目覚めさせることも可能だから、魔獣がたくさんでてきても対処できる。ふー!! やっとここまできた!!!)
ブリュンヒルデは胸を撫でおろした。
(クララが目覚めればもう心配いらないわ。エルンストに追及される前にとっとと脱出しよう。 エミヴォルも惜しいけれどこのままとどまって断頭台送りにされたらお母さまやお父さまがどれだけお嘆きになるか……)
カプ固定厨としてエミヴォルに命をかけるのはやぶさかではないが、優しい両親の気持ちを考えると突っ走ることはできない。ブリュンヒルデは涙を呑んでエミヴォルを諦めることにした。
(欲を言えば新たなる婚約者の冊立を阻止したいんだけどエルンストがいる限り早々に看破されそうなんだよなあ)
ブリュンヒルデはエルンストを潜在的な敵と疑って譲れない。いかに優しくされようとゲームでさんざんブリュンヒルデを苦しめ、地獄送りにした腹黒策士を信じることはできなかった。
「……っ」
ブリュンヒルデが悩んでいる最中、耳が小さな悲鳴を拾った。
「クララ? 起きたの?!」
ブリュンヒルデは椅子から飛び降り、寝台に手をついてクララの顔を覗き込んだ。
青い顔だった。唇は紫で小さな体が凍えるように震えている。
「クララ!? どうしたの!? クララ!!」
ブリュンヒルデは肩を揺らして名前を呼んだ。しかし、クララは小さくうめき声をあげるだけで答えない。だが、その表情は彼女の苦しさを十分に物語っていた。
何がクララを襲っているのか、ブリュンヒルデには皆目見当がつかず、小さなクララの体を抱きしめた。
「クララ、しっかりしてクララ!!」
ブリュンヒルデは泣きそうになりながら声を上げた。
馬車の外にいた護衛騎士はただごとではない声にすぐさま反応した。
「ホルンベルガー嬢、どうかなさいましたか!?」
「クララが苦しそうなの! ねえ、皇太子殿下はまだいらっしゃらないの?!」
「……門まであと暫くかかります。この速度ですと10分はかかるかと」
「なら、もっとスピードをあげて」
ブリュンヒルデはそう言った。
御者は指示通りに馬を走らせた。ガタガタと揺れる馬車内でブリュンヒルデはクララをぎゅっと抱きしめる。
どうするのが正しいのか、ブリュンヒルデもよくわからない。だが、今はヴォルフラムの持つ『薔薇の花』だけが希望だった。
東門、見張り台の監視兵は双眼鏡をいったん置いた。自分の目がおかしくなったのかと思った。昨日、行きつけの飲み屋で女将にいわれるがまま酒を飲んだのが悪かったのかもしれない。酒は怖いと思いつつ、彼は目をこすった。
しかし、彼の両眼は相変わらず奇妙なシルエットをとらえている。
「なあ、あれ。なんだろうな?」
兵は違う方向を見ていた同僚に尋ねた。
「鳥にしちゃあでかすぎるだろう。分厚い雲か何かじゃないか?」
あまりの大きさに問われた兵はそう答えた。
「だよな」
兵は納得した。
しかし、その塊は徐々に大きくなっていき、兵はもう一度双眼鏡を覗き込んだ。同僚も同じようにした。すると扇のような尾と豊かな翼が二人の目にくっきりと映り、彼らは悲鳴を上げてその場で腰を抜かした。
すでに門についていたエルンストはその騒ぎを聞きつけ、弓兵隊を胸壁に配置するように指示をした。
しかし、まだ十分に遠いため射程圏内になく、エルンストは打つ手がなかった。
また、鳥の目指す先が問題だった。遠くにいるヴォルフラム一隊に目掛けて下降していたのだ。