第七十三話 魔獣、再び
全速力で馬を走らせるヴォルフラム、そして天幕をぐるりと迂回したルドルフは、ちょうどジクセン平野の西端で邂逅した。ヴォルフラムは荷車を引き連れたルドルフを見て驚き、馬の足を止めてルドルフに詰め寄る。少し前まで危機的状況にいた彼は少しの異変にも激しく反応した。
「ルドルフ。その荷物の山は一体どうしたんだ? もしかしてなにか問題でも起こったのか!?」
「い、いえ。ただ、魔獣に塩が効くかもしれないとホルンベルガー嬢がおっしゃって、念のため塩をお届けに参った次第です。……やはり、杞憂のようでしたな」
ルドルフは呑気に言った。
彼に緊迫感がないのは現場の危機的状況を知らされていないからだ。薔薇を手に持つヴォルフラムを見て問題なく作戦が成功したと素直に喜んだ。
「……ブリュンヒルデは二重に作戦を練ってくれていたのだな。本当に……あいつは……」
ヴォルフラムは嬉しそうに、また憧れを滲ませて小さく笑う。
ルドルフはヴォルフラムの反応に怪訝そうな顔をしたが、ヴォルフラムが実情を離して聞かせると声を上げて驚いた。
「なんと! そんなことになっていたのですか……いやほんとうに、こうして無事に薔薇を奪還できたこと、誠に喜ばしく思います。しかし、ホルンベルガー嬢の助言がなければと思うと恐ろしい。彼女の叡智はまさに国の宝ですな」
「本当にな」
ヴォルフラムは頷く。
「さてと、話はあとだ。俺は薔薇を届けに先へ行く。ルドルフ、お前も一緒に来てくれ。魔獣の来襲はないと思うが、念には念を入れたい」
ヴォルフラムの言葉にルドルフは従った。
ヘルモルトがいない今、魔獣に対抗する手段は塩しかない……と彼らは信じ込んでいる。塩が効くかもしれないのはグリアセルだけで、ラテルガーのような魔獣には効かないのだが、彼らは疑うことなく信じ切った。
なお、海の火の火薬は速度を損ねるという観点から持ってきていなかった。
こうしてヴォルフラムと塩を引き連れたルドルフ一行がジクセン平野に差し掛かる。天幕がずらりと並ぶ平野にヴォルフラムは迂回か、それとも塩を捨てて突っ切るか、二択を迫られた。
「……速度を優先する。ルドルフ、お前は塩を兵たちに持たせて魔獣に対処できるようにしろ」
「わかりました」
ヴォルフラムはそう言い残して少数の騎兵と共に天幕が並ぶ場所へ向かって行った。ルドルフは荷物をほどき、水で塩を固めたものを兵たちに持たせると、ヴォルフラムの後を追わせた。ルドルフは避難所の統括に投石器を借り、その後を追った。投石器はY字型の棹に伸縮性の布を張った武器で、弾と布を同時に引っ張り、その反動で弾を打ち出す仕組みである。
一方、ヴォルフラムはようやく天幕群から抜けたところだった。かすかだが遠くにデンベラの城壁が見える。ヴォルフラムはもう一息だと気合を入れて馬を駆った。
ジクセン平野の東側が黄色い小さな花が群生していた。そこを蹄の音を響かせてヴォルフラム一行が突っ切る。鍛え抜かれた軍馬の疾走は地を揺らし、大地が割ける亀裂音すらかき消した。
ルドルフの隊はヴォルフラムの隊の後を追っていた。だからこそ、その異変にすぐ気づくことができた。黄色い花の絨毯が真っ二つに割れ、そこから複数の異形のものが這い出てきたのだ。その姿は木であった。根を足のように使い、枝を手のように使って彼らはヴォルフラムの後を追う。高さは馬よりも小さい程度だったが、数が多かった。軽く見積もって二十体はありそうだった。
ヴォルフラムの隊は殿がその異形に気づき、声を上げてヴォルフラムに報せた。
「ヴォルフラム様!! 後方に魔獣が接近中!! 我々が囮になり、奴らを振り切ります」
「頼む!」
ヴォルフラムはそう言い、馬を飛ばした。
残りの兵は魔獣をヴォルフラムに近寄らせまいと、少しだけ速度を落とした。ヴォルフラムの手前、『振り切る』と言ったが、あの異形相手にそれが通じるかわからない。戦うことはできないが、自分たちの命でいくらかの足止めはできるだろう。
兵たちは死すら覚悟の上だった。
天幕に住む民は異形を見て悲鳴を上げた。彼らを守る騎士たちですら当惑して立ち尽くしてしまった。ルドルフはそんな彼らを一喝する。
「狼狽えるな!! 動揺こそが一番の敵だと心得よ!! すぐさま民を連れてゲンドルの街へ向かえ!! あの異形どもは我々が食い止める!!」
ルドルフの言葉に騎士たちは意気を取り戻し、慌てふためく民を誘導して東へと向かった。
しかし、異形どもはルドルフたちに目もくれず、一心不乱にヴォルフラムの後を追っている。まるで吸い寄せられるかのような彼らの行動に、ルドルフは一つしか理由が思い当たらない。
「狙いは薔薇か! お前たち、けして追いつかせるな!! 塩弾を投げつけろ!!」
ルドルフは叫んだ。
兵たちは馬を飛ばして異形どもを追い、その背に塩弾を投げつける。固めた塩は異形にぶつかり、粉々に砕けた。
ルドルフたちにとって幸いだったのが、魔獣が『草木』の性質を持っていたことだ。塩害は草木に大きなダメージを与え、数年は作物が育たない不毛地帯となり果てる。ブリュンヒルデが使うのを渋った理由がそれだ。
異形どもは塩によって体内の水分が失われたのか、次第に動きが鈍くなっていった。全速力で駆けるヴォルフラムの隊は逃げ切ることに成功し、魔獣を囲んだルドルフの兵たちは火でそれらを焼き払った。
一時は死を覚悟した兵たちは、自分たちを救ったブリュンヒルデの叡智に感心した。
「ホルンベルガー嬢は薔薇の乙女ではないということですが……もはやそれすら信じられません。彼女が乙女ではないとしたら、誰が乙女となりえるのでしょう」
兵の一人が感動のあまり、つい口にしてしまった。
それはルドルフも思っていたことだし、口には出さないが他のものもそう思うだろう。ブリュンヒルデが居なければ魔獣グリアセルを倒すことはできなかったし、よしんばヘルモルトが自力で攻略法を見つけたとしても、ジクセン平野に出没した魔獣によってすべてが無に帰していただろう。
そう思いながらも、ルドルフは『クララ』を薔薇の乙女だと信じ切っているブリュンヒルデの思いを踏みにじることはできなかった。
「馬鹿を言うな。薔薇の乙女はクララ嬢だ。そのホルンベルガー嬢が断言しているのだから、それ以上の根拠はないだろう」
ルドルフの言葉に失言した兵は大慌てで謝った。
兵たちは叱られた兵を慰めつつ、作戦の成功に安堵の声を口々に漏らした。
しかし、ルドルフだけは得も知れない恐怖を未だにぬぐい切れないでいる。薔薇を持ったヴォルフラムを狙い、自分たちの行動を阻止するかのような魔獣の動き、統制と呼ぶにはお粗末すぎるが、それでも一つの目的で彼らは動いていた。
(魔獣が誰かに操られているとしたら、由々しき事態だ。すぐにエルンストに報せねば)
ルドルフは緩んだ兵たちを一喝し、全速力でデンベラに向けて馬を走らせた。