第七話 腐女子にとっちゃあ聖地巡礼
ブリュンヒルデの準備はメイドたちがあらかじめすべてを用意していたおかげでスムーズに終わった。春らしい、淡いピンクのドレスに瞳の色と合わせた青い宝石を身に着けた。
使用人の大絶賛を浴びながら、ブリュンヒルデはディートリッヒのエスコートで馬車に乗り込み、宮殿へ向かった。
四隅に円形の塔を持ち、左右対称に作られた白い大きな宮殿は白鳥が翼を広げたように優美で美しい。攻略本で小さなワンカットにしか過ぎない建築物の現物を見たブリュンヒルデはにやつく唇を抑えきれなかった。
(キャアアアア!!! まさに聖地巡礼!!!! 憧れのヴォルローゼ宮殿に足を踏み入れられるなんてオタクとして本望!! 興奮して鼻血出そう……)
興奮し、踊り出しそうな衝動を必死で抑えるブリュンヒルデだが、ディートリッヒは娘が何かに怯えているように見えてしまった。
「ブリュンヒルデ、大丈夫か?」
「ええ、もちろん。大丈夫ですわ」
下卑た笑みを見られるわけにはいかないため、ブリュンヒルデは俯き気味に答える。陰のある顔を見てディートリッヒは、以前耳にした屈辱な話を思い出した。
(……そういえば、皇太子殿下は我が娘をほとんど構わないと聞いた。もしや、ブリュンヒルデは城で辛い思いをしているのではないのか!?)
ディートリッヒの顔は険しくなった。
「ブリュンヒルデ、辛いことがあれば必ず言いなさい。私がすぐに助けに行くからな」
ディートリッヒの言葉は力が入っていた。娘を思う尊い親心だが、酷い妄想に思考を飛ばしているブリュンヒルデに届かない。だが、ディートリッヒはそんなブリュンヒルデの様子こそ、噂が真実である証拠だと確信してしまった。
ヴォルローゼ宮殿は、政を行う南宮殿と皇族が住まう北宮殿に分かれている。規模こそ小さく、東西に延びる南宮殿に大半を隠されてしまうが、北宮殿の主塔は国内で一番高く作られている。
ディートリッヒはもちろん南宮殿に向かうのだが、娘を心配した彼は通行可能ギリギリの大回廊までついてきた。
南宮殿と北宮殿を結ぶそこは天井が半球形に作られており、等間隔に並ぶ大きな窓からは明るい日の光がバイカラーのタイルを照らしていく。
ブリュンヒルデは夢にまで見たこの大回廊を浮かれながら歩いたが、公爵は敵地に挑むがごとく、恐ろしい形相だった。南宮殿の門を守る衛兵はディートリッヒの形相に肩を跳ねさせた。今すぐにでも立ち去りたい気持ちで震えながら礼を取る。
「それじゃあ、お父様。送って下さってありがとうございます! お仕事頑張ってくださいね」
「ブリュンヒルデ、何かあればすぐに言うんだぞ!?」
「はい大丈夫ですわ」
ブリュンヒルデは名残惜しそうな父と離れ、夢見心地で南宮殿に足を踏み入れた。
ここは限られた人間しか入ることができない特別な場所だ。
(ふっふっふー。ここでヴォルフラムとエミリオが愛を育んでいるのね~。ああ~妄想がはかどるわああ)
笑みを必死で抑えつけながらブリュンヒルデは記憶をたどって廊下を歩く。宮殿の女官や侍従たちはブリュンヒルデの姿を見ると動きを止めて深く頭を下げる。
どれだけ悪党であろうと、公爵令嬢であり次期皇太子妃の彼女に最大限の敬意を払わざるを得ないのだ。
宮殿に用意された授業用の部屋は、たくさんの書物が大きな書棚に整然と並び、まるで小さな図書館のようだった。
ブリュンヒルデを担当する教師は厳しいと評判のラウターバッハ夫人で、元々感化院の院長を務めていた人物だった。非行少年の保護・更生は救貧院でも行うが、ラウターバッハ夫人は更生に特化した感化院を設立したのだ。
そんな彼女を皇后は厚意で支援していたのだが、性格、根性、底意地。どれをとっても最低のブリュンヒルデが息子の婚約者に内定したとき、臨時教師として皇后が雇い入れたのだ。
ブリュンヒルデは初日から彼女に反発し、結果、仲は最悪なものとなった。
それを思い出してブリュンヒルデは早々に逃げ出そうと思ったが、皇宮の教師の言葉は攻略ガイドよりも奥が深いものだと考えなおし、恐怖を腐女子魂でなんとか抑え込んだ。
それが結果的に良かった。
ラウターバッハ夫人は熱心に耳を傾けるブリュンヒルデを見て心を軟化させた。
(ま、まあ。こんなにもキラキラとした目でわたくしの授業を聞くなんて、一体どういう風の吹き回しかしら……)
ラウターバッハ夫人は内心ひどく驚いたが、ブリュンヒルデにとって彼女の話は耳で聞くファンブックのようなもの。好きなものの話に熱中するのはオタクにとって得意分野、熱心になるのは当然だった。
そのため、終了間際になるとラウターバッハ夫人の表情は穏やかになり、声も柔らかくなった。
「そろそろ終了の時間ですね。この勢いであれば遅れていた分も取り戻せるでしょう」
「ご指導、ありがとうございました」
ブリュンヒルデは美しい所作で礼をする。
扉が閉まり、足音が聞こえなくなった頃、ラウターバッハ夫人は物憂げな顔で信頼する侍女の名を呼んだ。
「ねえ、サラ。お前はブリュンヒルデ嬢のことをどう思ったかしら、ここは私とお前しかいないから、率直な意見を聞かせて」
「そうですね。……あくまで個人的な考えですが、以前お会いした時とまるで別人のようです。奥様のお話を余すところまで聞こうとする意欲は目を見張りました。あれが演技とは到底思えません」
「そうよね。わたくしも彼女が演技ではなく本心だったと思うわ。ようやく皇太子妃としての自覚を持ったのでしょうね……でも、もう遅いのよ」
ラウターバッハ夫人はため息とともに言葉を吐く。
「とおっしゃいますと?」
「皇后陛下は婚約破棄の準備を進めているの。これまでの素行の悪さや傲慢な性格から、とても国母を任せられないと判断なさったのよ。ああ、もっと早くブリュンヒルデ嬢が更生していれば良かったのに……残念だわ」
ラウターバッハ夫人は額を抑え、少女の恋の終わりを嘆いた。いくらホルンベルガー公爵家が強大と言えど、これまでのブリュンヒルデの素行から、皇后が資質を問うのは仕方のないことで、むしろそこで騒ぎ立てればホルンベルガー公爵家に非難が集まるだろう。
(公爵なら、針のむしろの宮殿に娘を預けるより、公爵家傘下の適当な貴族に嫁がせるのが最良だと判断するでしょう。むしろ、その方があの娘のために良いことだわ)
ラウターバッハ夫人はブリュンヒルデの幸せを思った。




