第六十六話 信頼
ルドルフが戻るころにはすっかりポテチがなくなっていた。多めに作ってはいたのだが、ゲルトがものすごい勢いで平らげたのだ。
「ごめんなさい。目算を誤ったようです。また作りますわね」
「は、はい……」
しょげたルドルフにブリュンヒルデは慰めるように言った。食べ物の恨みは恐ろしい。ルドルフも例外ではないのかとブリュンヒルデは意外に思った。頭の中がホモ・食べ物で占めるブリュンヒルデは、好きな女性の手作りを食べ損ねたルドルフの男心に気づくことはなかった。
「塩の調達はうまくいきまして?」
「あ、ええもちろんです。最高品質のものを仕入れてまいりました」
「それは上々ですわ」
純度が高いほど効果は高くなる。食用より工業用の方が高品質を要求されるのもそのためらしい。
ブリュンヒルデは運搬をルドルフに頼んだ。
「ああ、もしかしたら今頃魔獣をすっかり倒してしまって、入れ違いになってしまうかもしれませんわね」
「それは嬉しい誤算ですな。塩は人間に不可欠なもの、兵站にも使えますので私が買い取りますよ」
ルドルフはブリュンヒルデの言葉を受けて朗らかに返す。寡黙が売りの男だが、恋は彼の口を饒舌にするらしい。
二人は笑いあったが、実際のところ、現場は悲惨だった。
上級魔獣は薔薇の騎士、あるいは乙女の力でしか倒せない。くわえて覚醒して完全体となった魔獣に鏃など雨ツブみたいなものだ。
ヘルモルトは通じないと分かっていても、雷の矢を打たずにはいられなかった。
「ベネシュ卿からの鳩が来ました。魔獣を十分に引き付け、別動隊が薔薇を奪取するまで持ちこたえよとのことです」
軍鳩の書簡を受け取った兵士がエミリオに報告する。彼の大きな声はその場にいた兵士全員の耳に入った。
彼らの顔は一様に険しい。
海の火は魔獣の周りで燃え続けているが、魔獣は火が弱まった個所を狙って翼を振り、風圧で火を消そうとする。火薬の装填が間に合わなければ魔獣は自由自在に動き回る。
何より恐ろしいのが、時折、頭部から突き出す角のように太くて鋭い触手の存在だ。それは火の勢いが弱まると同時に、装填するために配置をした兵に襲い掛かるのだ。
鏃や雷の矢で触手を狙い撃つが、強靭な触手はものともせずに獲物を狙う。
すでに戦線離脱したものは数十名を超えた。
エルンストの命令は非情としか言いようがなかった。
だが、エミリオは少しだけ微笑んだ。
(やはり、ホルンベルガー嬢を巻き込みたくなかったんですね。いつものあなたなら、容赦なく送り込んでいたでしょうに)
エルンストの人間らしさに思わず笑んでしまう。それが一種の気分転換にもなった。
一見、兵を見殺しにするようなエルンストの言葉だが、エミリオはそう受け取らない。長年、艱難辛苦を共にした彼の気持ちは言葉にせずともわかる。
(兵の命は僕が守れということでしょう。そして、僕ならそれができると)
ずいぶんな無茶ぶりだが、それだけエルンストがエミリオを信頼しているということだ。何でも自分でやりたがりの彼だが、ルドルフやエミリオ、ヴォルフラムに対してはその限りではない。
「期待に応えないわけにはいきませんね」
かなり難しい条件だが、それゆえにやりがいはある。
エミリオはいつもの穏やかな笑みを一変させ、鋭い視線を禍々しい魔獣に向けた。
一方、鳩を送った後のエルンストはずっと頭を抱えていた。
自分の采配を後悔したことなどない彼だが、今回は『悪手』とわかって指示した。ブリュンヒルデの能力が使えなくとも、素晴らしい叡智を持つ彼女なら、厳しい現状を打破してくれるだろう。
それでも行かせたくなかった。
それでどうなるか……考えなないはずはない。エミリオを信頼してはいるが、万が一のことは可能性として十分ある。ブリュンヒルデを行かせなかったことで何も得られず、犬死させることだってあり得る。
愚かだ。実に愚かな行いだ。
「……彼女がこの事を知れば、俺を軽蔑するだろうな」
エルンストは自分を嘲笑った。
だが、嫌われてもいいと思った。憎まれてもいい。彼女を失うことに比べたら、そんなものどうだって良かった。
己の愚かさと、罪深さ。
すべてが滑稽でエルンストは喉を鳴らして笑った。
そんな中、執務室の扉が二度叩かれた。
こんな時に誰だと心の中で悪態をつく。苛立ちも相まって口から出た言葉は乱暴だった。
「なんだ!」
「あ、あの。わたくしです。ホルンベルガーですが、今、よろしいかしら……?」
鈴のなるような彼女の声が陰鬱な部屋に美しく響く。
エルンストは夢かと思い、呆然と立ち尽くしていたが、もう一度響く彼女の声でようやく心を取り戻した。
今度は優しい声で彼は答える。嘘と本物が入り混じった笑顔で。




