第六十五話 雷
人っ子一人いない、がらんどうの街を蹄の音を響かせて騎兵が駆け抜ける。足自慢の馬だけで構成された彼らは魔獣を引き付ける役目だった。ヨアヒムの家から魔獣を離し、別動隊が薔薇の捜索に当たる。そしてヘルモルトの弓で魔獣を仕留めるというのが今回の作戦だ。
ヘルモルトと弓兵隊は見晴らしのいい教会の屋上に登り、獲物が出てくるのをひたすら待った。
待ちくたびれた兵の一人が近くの隊長に尋ねる。
「建物が残っていて意外でした。てっきり壊滅状態だと思ってたんですけど、魔獣はそれほど強くないんですかね?」
「ああ、おそらくヨアヒムの居住区の半径二キロを海の火で囲っていたからだろう。奴は強力だが火を怖がる。薔薇の騎士様がいらっしゃるとはいえ、何が起こるかわからん。火を絶やさずにいつでも火矢を打てるようにしておけ」
『はい!』
兵たちが声を上げる。
自分達でも魔獣を倒せるかもしれないという事実が彼らの士気を高めた。
エミリオは簡易テーブルの上に地図を広げ、補佐官らと共にゲンドルの地理をもう一度、確認していた。ヴォルフラムは薔薇の奪還役として街の外壁を迂回して入る手筈となっている。
「ハルティング卿! 緑の狼煙が上がりました! 魔獣が来ます!!」
双眼鏡で監視に当たっていた兵が声を上げる。騎兵はおとりの役目を果たせたらしい。早いうちからの攻撃は魔獣を逃がしてしまう恐れがある。十分に引き付けてから退路に海の火を放ち、ここに追い込む必要があるのだ。
「わかった。引き続き監視に当たれ! 弓兵隊、号令をかけるまで弓矢を放つな。退路を断ってからだ」
エミリオはそう命じ、自信も注意深く大通りを見つめる。
軽快な足取りで一騎が通りに飛び出してきた。続いて数騎が後に続く。
そして体を震わせるほどの地響きが段々と近づいてきた。
その姿は実に不思議だった。透き通る体躯に天使を思わせるフォルム。神々しいとすら思ってしまうその姿に皆は我を失った。
驚いたのはヘルモルトだった。
ブリュンヒルデから聞いていた形状が違う。八つの足もなければ甲羅のような胴体もない。
薔薇の乙女疑惑騒動でブリュンヒルデはグリアセルの覚醒のことをすっかりと忘れ、自分が目で見た姿をヘルモルトに伝えていたのだ。
幸いなことにエミリオはヴォルフラムから聞いていたため、彼ほどの動揺はなかった。
「魔獣が広場に入った! 海の火を放て!!」
エミリオが叫ぶ。
予め撒かれていた火薬が一斉に燃え上がる。
グリアセルは突然の炎におののいたように巨体を揺り動かす。
「ヘルモルト卿! あなたの出番だ」
エミリオは薔薇の騎士を呼んだ。
本来なら自分の手で始末を付けたい。だが、薔薇の騎士ではない自分には彼を援護するしかない。嫉妬心と憧れがまじりあった微笑をエミリオがヘルモルトに向ける。
ヘルモルトはこくんと頷き、雷の矢を放った。
閃光がまっすぐにグリアセルの胴体を貫く。命中したとき、兵たちから歓声が上がったが、それはすぐに恐怖に変わった。
グリアセルはヘルモルトの矢を食らってもビクともしなかったのだ。
「……ホルンベルガー嬢の危惧していたことになったか」
エミリオは悔しそうに唇を噛んだ。
こうなれば彼女を前線に立たせるしかなくなる。それはどうしても避けたいのに、他に打つ手が見つけられなかった。
「……軍鳩を飛ばせ。雷が通じなかったとお伝えしろ」
血反吐を吐きそうなほど、絞った声がエミリオの喉から出た。
悲報を載せて軍鳩が飛んだ。
薔薇を捜索中のヴォルフラムはエミリオからの知らせに拳を震わせた。
「くそっ。どうあってもブリュンヒルデをここに呼ばなければいけないのかっ!!」
覚醒したグリアセルと唯一対峙したのがヴォルフラムだ。
あれは恐ろしい怪物だった。
好きな女性を危険なことに巻き込まなければならない状況を、ヴォルフラムは激しく恨んだ。
エルンストも同じだった。
鳩の知らせを受けたあと、彼はブリュンヒルデに伝えるか迷った。ブリュンヒルデが能力を自由に操れなかったと報告を受けた時、これで彼女を巻き込むことはないとエルンストは胸を撫でおろしたというのに、むしろ状況は悪くなっている。
「彼女だけは安全な場所にいて欲しいのに……何かないか、何か!!」
エルンストは頭をかきむしった。
しかし、考えれば考えるほど、ブリュンヒルデを切り札に使うほかなかった。どんなに兵を投入しても魔獣相手では何もならないだろう。海の火で足止めをしているが、覚醒したグリアセルがいつどんな進化を見せるかもわからない。
エルンストはダンっとテーブルを叩く。拳から赤い血潮が一つの線となって滴り落ちた。
「何が神童だっ!! 愛する女性を守り切れず、ただ危険な場所に行かせなければならない状態の……どこがっ!!」
エルンストは悔しさにたまらず、ぎりりと歯を食いしばった。