第六話 腐女子、ようやく気が付く
春の柔らかな日差しを浴びながら、ブリュンヒルデは朝摘みの花を浮かべた水で顔を洗い、外国から取り寄せた香油で髪を整えた。実に贅沢な朝だ。
「お嬢様。本日の衣装はどのようになさいますか?」
「なんなりとお申し付けくださいませ!」
見慣れないメイドがキラキラとした眼差しをブリュンヒルデに向け、意欲たっぷりで言う。ようやく眠気が冷めてきたブリュンヒルデは、新顔のメイドに声をかけた。
「着るものにこだわりはないからお任せで。……そういえば、風邪をひいていた子は大丈夫なの? あなたたちが来たということは、まだ治っていないのよね?」
何気なくブリュンヒルデが答えると、メイドたちは悔しそうに顔をくしゃりと歪めた。
「……お嬢様。ユリアは謹慎中です。復帰したとしても二度とお嬢様の前に現れませんのでご心配なく」
「本当に、今まで何も気づかずに申し訳ありませんでした。まさか、ユリアがお嬢様を陥れようとしていたとは、夢にも思いませんでした。本当に申し訳ありませんでした」
メイドたちはひれ伏さんばかりの勢いで頭を下げた。
ブリュンヒルデは驚いて二人を止めた。
「待って。謹慎中ですって? ユリアは風邪をひいただけでしょう?」
言った後で、ブリュンヒルデは嫌な考えがよぎった。
(もしかして、この世界は風邪一つ引いただけで懲罰モノなの!? ブラック過ぎない!?)
ユリアの悪意を覚えていないブリュンヒルデは規律の厳しさにおののいた。
「それはひどいわ。お父様たちにお願いして謹慎を解いてもらうようにお願いするわ。風邪をひいただけで謹慎なんて重すぎるもの」
「お、お嬢様。違います。風邪をひいたからではございません」
「そうです。ユリアが処分されたのは、お嬢様をわざと孤立させるように悪意をもって動いていたからです。……真偽を確かめず、噂を盲信した私どもも落ち度はあります」
自己嫌悪から眉間にしわを寄せる彼女たちにブリュンヒルデは戸惑った。そして頭の中で昔読んだ攻略ガイドやファンブックを思い返す。
(思い出した。ユリアってモブが確かにいたわ。ブリュンヒルデがヒロインを虐めた時も煽ってた覚えが……)
うっすらとシルエットが頭に浮かびあがる。目立った活躍はなかったが、ブリュンヒルデの片腕的ポジションだった。
(この人たちはユリアが諸悪の根源でブリュンヒルデが被害者と思ってるのね。ユリアがいなくてもブリュンヒルデは立派な悪党だと思うんだけどな)
なにしろブリュンヒルデである自分が言うのだから間違いがない。軽く過去を思い出しただけでも、顔を覆いたくなるレベルのことをしてきている。
むむむと唸り、無言になったブリュンヒルデをメイドたちは心配し、また自分たちのせいだと泣いて謝罪し始めた。ブリュンヒルデは慌てて彼女たちを慰める。
「だ、大丈夫だから気にしないで。それよりお腹が空いたわ。支度を済ませて食堂に行きましょう」
ブリュンヒルデがそう言うと、彼女たちは目を腫らしたまま、テキパキと動いた。
白い肌に映える、薄い緑のドレスを纏ってブリュンヒルデは公爵邸を歩く。驚いたことに、使用人たちが整列し、口々にブリュンヒルデに謝罪していく。
誰が誰かわからないままブリュンヒルデは曖昧に笑い、腹の虫が鳴らないようにと祈りながら進んだ。
執事が扉を開くと、重い音と共にまばゆい光が飛び込んできた。
公爵邸の食堂は本館の一階、大きな窓から大噴水を臨む場所に位置している。
広さは五十人が会食しても十分なほどで、名工が手掛けた荘厳なシャンデリアと高名な画家が手掛けた天井画がより空間を豪華に見せている。
由緒ある、ホルンベルガー公爵家の食堂で公爵夫妻は椅子に座らず、ブリュンヒルデを出迎えた。
「ブリュンヒルデ。今まですまなかった。信の置ける人間だと思ってお前の専属にしてしまったが、まさかお前を陥れようとしていたとは!」
「本当にごめんなさい。親なのにあなたを信じ切れなかったわ。謝ってもあなたの傷ついた心が癒されるわけではないけれど、どうか謝らせて」
マルガレーテはぽろぽろと涙を流しながらブリュンヒルデを抱きしめた。
華奢な身体の震えが伝わり、彼女がどれだけ心を痛めていたのかがわかる。
ブリュンヒルデは戸惑いながらも、マルガレーテを抱き返すと、微かな嗚咽が聞こえてきた。
(ゲームだとわからなかったけど、公爵夫妻はブリュンヒルデのことをとても愛していたのね)
じわりと温かいものがゆっくりと身体に広がっていく。
記憶の中で母を必死で呼ぶ幼い自分を思い出す。
『奥様はお忙しいので、お会いできません』
『旦那様は出仕されております。しばらくはお戻りになりません』、駄々をこねるブリュンヒルデにそう諭した使用人たちは職務を全うしただけだが、幼いブリュンヒルデは父母に嫌われているとしか思わなかった。
(私はずっと寂しかったのよね。だから、邪魔をする使用人が大嫌いで、父母と仲のいい令嬢たちに嫉妬したんだわ。だからといって暴力を振るっていいわけじゃないけど)
前世の記憶があるからこそ、そう思えるがブリュンヒルデのままだったら素直に母と抱き合えなかっただろう。
「お母さま、お父さま。今までごめんなさい」
謝るブリュンヒルデに二人はさらに涙を流し、ディートリッヒが腕を伸ばし、長い腕で妻子を抱き寄せた。
家族の抱擁はしばらく続き、席に着いた後も感情を引き摺って皆が目を赤くしていた。
食事は和やかに始まり、ディートリッヒは珍しく食後の紅茶も飲んだ。いつもなら忙しなく退室するのだが、それだけこの時間が惜しかったのだ。
「旦那様。そろそろ出立の準備をするお時間です。家族団らんをお邪魔するのは大変心苦しいですが……」
眉を八の字に寄せて執事長のカルムが告げる。
「……そうか、もう、そんな時間か。楽しい時はあっという間だな」
「本当ですわ。でも、今日が最後と言うわけではありませんもの、明日も明後日も、家族で食事を楽しみましょう」
「ああ、そうだな」
マルガレーテの言葉を聞いてディートリッヒは微笑む。
ブリュンヒルデは仲の良い夫妻の会話を微笑ましく聞いていたが、急にディートリッヒから話題を振られる。
「ブリュンヒルデ、お前も宮殿に行くのだろう? せっかくだから一緒に行こう」
「え?!」
寝耳に水の言葉にブリュンヒルデは目を瞬かせる。
ディートリッヒは娘の反応に首を傾げた。
「毎週、火曜日と金曜日は宮殿でケッセン夫人から教育を受けているだろう。今日はないのか?」
(あ、そういえばブリュンヒルデは皇后になるための教育を受けているんだったわ)
その証拠に、前世ではまったく触れたことのない学問が記憶の中にたっぷりとある。残念ながら、所詮、悪役令嬢のブリュンヒルデがその知識を活用することはないのだが、宮殿に行けば皇太子……ヴォルフラムたちに会える。
そう考えた瞬間、体が勝手に動いた。
急に立ち上がったため、ガコンと大きい音が立ったが、彼女は気にせず満面の笑みを浮かべた。
「行きましょうお父様!!」
キラキラとまばゆい笑顔にディートリッヒは圧倒されながらも、子供のようにおおはしゃぎする娘と一緒に食堂を出た。
「お父様。すぐに準備してまいりますわ!!」
そう言うとブリュンヒルデはドレスの裾を持ち上げて走り去っていった。その後姿を見ながら、ディートリッヒは小さくつぶやく。
「ブリュンヒルデは本当に皇太子殿下を慕っているんだな……」
「旦那様。胸中、お察しいたします。お辛いですが、これもお嬢様の幸せのためでございます」
寂しさを忍ばせたディートリッヒの言葉をカルムが受ける。
「無論分かっている。あの子が幸せになるのなら、父親として立派に送り出して見せるさ。ただし」
ディートリッヒは言葉を切った。
「あの子が泣くようなことがあれば、ヴォルフラム殿下を皇太子の座から引きずり下ろすことも考えている」
ディートリッヒの青い目がナイフのように鋭く光る。彼女の過激さは父親譲りだった。不敬丸出しの発言だが、実際のところ帝国の六分の一を支配するホルンベルガーは皇帝ですら無視できない存在だ。
規模と財力から言えば、ヴェナール大陸の小国三つ分以上の規模と力を誇る。
公爵の娘を思う強い決意を執事長は顔色を変えず、ただ深く頷いた。