第五十五話 眠れる薔薇の乙女
傷心のエルンストはブリュンヒルデから数歩後を歩いていた。ご自慢のポーカーフェイスも天から奈落へ蹴落とされたショックのため、それほど機能していなかった。
クルツとマヤは青少年の気落ちを間近に見て、その傷の痛みをよく理解した。
(ホルンベルガー公爵令嬢さまはまったく気が付いていないのね……。こんなにわかりやすいのに)
マヤはゲルトに引っ張られて慌てるブリュンヒルデと抜け殻のようなエルンストを見比べながら思った。
(目標をしっかり持っている女性は色恋沙汰に鈍感だからなあ。俺もマヤと付き合うまで本当に苦労したし……)
クルツは過去の努力を思い出しながら、若い青少年にエールを送る。
「ゲルトくん。病院内は走ってはいけませんよ。静かに歩きましょう」
「うるせぇ!! 俺はお前を監視するために来ているんだ! お前が先回りして変なことしてないか、真っ先に薔薇の乙女様に会わなきゃいけねえ!」
「正義を遂行するために、自分の悪事を正当化するのはよくないですよ。ここにいるのは具合が悪い人たちばかりです。その人たちのことも考えて行動しましょうね」
憎まれ口をたたくゲルトにブリュンヒルデは根気よく笑顔で接した。それは自分のためである。 唯一、ブリュンヒルデの味方になれそうな逸材であるため、なんとかこっちがわに引き込みたかった。
(金……で買収は無理そう。お菓子ならワンチャン?)
色々と頭の中で考えながらブリュンヒルデはゲルトをたしなめた。
ゲルトはようやく自分が愚かなことをしていると気づき、しゅんと項垂れた。存外、素直な性格らしい。
大人しくなったゲルトの手を引き、ブリュンヒルデは案内されるまま廊下を歩いた。
最後の角を曲がるとヘルモルトの黒い髪が見えた。彼はすぐに駆け寄ると、その場に跪いた。
「お嬢様……。まことに申し訳ありません。クララ嬢を守り切ることができませんでした」
声は小さいが、そこには悔恨が樹液のようににじみ出ている。眉間に深く刻まれた皺とやつれた顔にその辛さが如実に表れていた。
ブリュンヒルデは彼に駆け寄った。
「ヘルモルト。あなたのせいではないわ。むしろ、わたくしがもっと気を配っていれば良かったの。何があったか話してきかせて」
やつれたヘルモルトを立たせ、ブリュンヒルデはクララの病室に入った。ゲルトは二人の緊迫した空間に、騒いではいけないと感じて大人しくした。
病室に入ると青白いクララが横たわっていた。周囲にはたくさんの贈り物が置かれ、彼女がどれだけ慕われたかがわかる。
ヘルモルトはクララと同行したときのことをつぶさに話した。
「お嬢様もご存じの通り、クララ嬢は倉庫に入ってから倒れました」
「ええ、お見舞いに行ったわ。わたくしの名前をうわごとで呼んでいたのよね」
「はい。当初は悪臭に当てられただけ……という話でしたが、あれ以来一向に目を覚ましません。うわごともなくなりました」
「何かの病という可能性は?」
「医者が力を尽くして調べてくれましたが、どんな症状にもあてはまりません」
ブリュンヒルデは考え込んだ。
(未知の病という可能性もあるけど、ゲームの主人公がそんなモノにかかるとは思えない。そういう場合はモブや攻略キャラがかかって主人公が助けるのが王道。……主人公が行動不能ということは、ゲームオーバーしたということかもしれない)
ブリュンヒルデの考えは初期とだいぶ変わっていった。予想外の展開、ミレッカーの危機、母との関係……ここがゲームと割り切るにはとても残酷で温か過ぎた。しかし、実際のところ、ゲームと同じように物語が進行している。それゆえに、『ゲーム』から切り離せずにいた。
(もしかして私が薔薇の乙女になりすますのが成功しちゃったからクララがこんな目にあったの? でも、クララが倒れたのは私が薔薇の乙女と認識される前……ということは、前段階でクララに分岐ルートのミスがあってバッドルートに突入しちゃった?!)
ブリュンヒルデは前世の記憶をまさぐった。バッドルートを思い出そうとした。しかし、ブリュンヒルデはハッピーエンド至上主義であるため、攻略サイトを駆使してバッドエンドはスルーし続けていた。推しの辛い顔など見たくないという理由だ。
(私がクララと会ったから? クララが攻略キャラじゃなく、悪役令嬢の私のために動いたから?)
ブリュンヒルデは考えれば考えるほど、すべての要因が自分へと帰結した。
(どうすればリカバリーできるの? もう救えないの?)
ブリュンヒルデはこんこんと眠り続けるクララを見た。目が落ちくぼみ、頬がこけて愛らしい顔がしおれた花のようになっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ブリュンヒルデはぽろぽろと涙を溢した。真珠のような雫がクララの青白い頬に落ちる。
エルンストはか細く震える肩をただ見ていることしかできなかった。
(くそっ。好きな女性をたすけることができなくて何が神童だ。ただの馬鹿野郎じゃないか)
慰めることも、優しい言葉も、エルンストはすべてが無駄だと悟っていた。何をしてもクララを目覚めさせる術がない。上っ面の慰めなど彼女をさらに苦しめるだけなのだ。
誰も言葉を発せなくなった部屋でただ一人、ゲルトだけは叫んだ。
「おいニセモノ!! 薔薇の乙女様はなあ! 薔薇が一番お好きなんだぞ!! なんでこの部屋に薔薇が一本もないんだよ!! 泣いてるヒマがあったら薔薇の百本でも買ってこい! 金持ちなんだろ!!」
彼は単純にそう思っただけだった。
たくさんの贈り物、花束の中で薔薇の花がないのが疑問だった。そして、泣いているだけのブリュンヒルデに腹が立った。その顔を見ていると無性に……辛くなった。
ゲルトは両親二人に抱えられた。二人は息子の非礼を頭を下げて謝った。
エルンストとヘルモルトは冷ややかな目で見ていたが、ブリュンヒルデは違った。
目を丸くしてゲルトを見つめ、ブリュンヒルデはゲルトに負けないくらいの声で叫んだ。
「それだー!!!!!」




