第五十三話 子供の正義
恋の誤解を盛り合わせた皇太子一行がようやくデンベラの街に到着した。門兵は疑いの心を封じ込め、にこやかに『薔薇の乙女』を出迎えた。
しかし、偽の笑顔はすぐに粉砕された。
ブリュンヒルデの優しげな表情に目を奪われたからだ。
馬車の中、エルンストがブリュンヒルデをエスコートしたため、当然、ヴォルフラムとエミリオが隣同士になる。それがブリュンヒルデの萌え心を最大限に擽らせた。腐女子は、推しカプが同じコマ、カットにいるだけで数通りの妄想を展開することができる。ブリュンヒルデは持ち前の妄想力で二人のサイドストーリーを脳内で構築し、一人愉悦に浸っていたのだ。
萌えを摂取したブリュンヒルデの心はもはや菩薩。この世のすべてが幸せでできているような錯覚にさえ陥っていた。
溢れる幸せオーラを無意識にブリュンヒルデが振りまいた結果、門兵が犠牲になった。
隊長格が腑抜けた部下を叱責し、丁重にブリュンヒルデを迎えた。
そのとき、子供が走って来たかとおもうと、ブリュンヒルデに向かって石を投げつけてきた。
小石だったが、それはブリュンヒルデのすぐそばを通った。
「かえれニセモノ! 薔薇の乙女様は俺が守るんだ!!」
義憤に燃える子供の目がブリュンヒルデに向けられる。親は慌てて子供を抱え、石畳に頭を擦り付けて謝った。
「ば、薔薇の乙女様!! 申し訳ございません!!! 申し訳ございません!!! 子供の失態は親の失態、どうかお叱りはわたくしどもに下さいませ!!」
父親と母親は、子供が走り出すのを止められなかった。つい一瞬の事だった。二人は冷や汗をかきながら懸命に謝った。
子供は自分のせいで大好きな両親が謝罪することにおののいた。そして同時にブリュンヒルデに強い怒りを持った。
(こいつはニセモノなのに! 薔薇の乙女様を病気にした悪い奴なのに!!)
謝る両親とは真逆にギラギラとした目でブリュンヒルデを睨む。
ブリュンヒルデは子供の憎悪を真っ向から受け、ようやく腐った妄想から現実世界に戻った。同時に、誤解を解くチャンスだと思った。
「どうぞお立ちになって。そして謝る必要はありませんわ。この坊やの言うことは尤もです。わたくしは薔薇の乙女ではありませんから」
ブリュンヒルデは膝を折って謝り続ける親に微笑みかけた。ドレスが汚れるのもいとわないブリュンヒルデの態度に周囲からどよめきが起こる。
親二人はブリュンヒルデから言われた言葉が上手く呑み込めなかった。酷い言葉で罵られるか、棒で打ち据えられるか、はたまたこの場で切り捨てられるか……そんな恐ろしい未来を信じていただけに、優しい言葉が信じられなかった。
震えるだけの二人とは違い、子供はギロっとブリュンヒルデを睨んだ。
「やっぱりお前はニセモノなんだな!!」
「ニセモノ……何か誤解があるようですけど、わたくしは薔薇の乙女を名乗ったことはありませんよ。わたくしは薔薇の騎士、乙女を守る存在です」
ブリュンヒルデが苦笑しながら言うと子供はきょとんとした。てっきり、悪い公爵令嬢は自分の言葉を非難すると思ったからだ。
「じゃ、じゃあ。なんで薔薇の乙女様を病気にしたんだよっ!!!」
「病気にした覚えはなく……少し会って何が原因か見つけなければいけないのです」
眉を下げてブリュンヒルデが言うと子供が吠える。
「そんなこと信じられるかよっ!! どうせ薔薇の乙女様を殺しに来たんだろっ!! そんなの絶対にさせねえからな!!」
正義に燃える少年の目はとても鋭かった。幼いながらに不遇の少女を守ろうとするその意気にブリュンヒルデはゴクリと生唾を飲む。あと十年経つと男前の攻めに育つだろう。
邪な考えを振り払い、ブリュンヒルデはこの状況を利用できないかと考えた。
(薔薇の乙女じゃないと信じてくれるのはこの子だけ。なら協力してもらおう)
「……ご心配はごもっとも。なら、好きなだけわたくしを見張ってください。そしてわたくしが薔薇の乙女ではないと証明して頂戴な」
ブリュンヒルデが微笑む。
うっかり子供はその笑顔に見ほれるところだった。
(く、くそっ。なんでこんなにキレイなんだっ!! こいつは悪女なのにっ!!)
子供はそっぽ向いた。これ以上、綺麗な緑の目を見ていたら、この人がいい人に思えて来そうだったからだ。
「い、いいぜ。やってやるよ。俺がお前を薔薇の乙女じゃないって証明してやるっ!!」
子供は目を反らしたままそう啖呵を切った。
親二人は驚きのまま、目を白黒させていたが我に返るとすぐにブリュンヒルデに許しを請うた。
「子供の戯言でございます。どうかお許しくださいませ!!!罪は我ら二人の命で贖います!!」
拝み倒す二人にブリュンヒルデは苦笑しつつ、なんとか宥めようとした。
「ご両親も心配でしたらぜひご一緒にどうぞ。皆さんに危害を加えることは絶対にしないと約束いたします。……皇太子殿下、証人になって頂けます?」
ブリュンヒルデは後ろに控えていたヴォルフラムに声をかけた。しかし、ヴォルフラムはすぐに返事ができなかった。ブリュンヒルデが石を投げつけられたとき、ヴォルフラムは激怒していたのだが、子供相手に大人げないと必死で怒りをかみ殺していた。他三人も同様でポーカーフェイスの下で激しい怒りを讃えていた。
(相手は子供……相手は子供……)
呪文みたいに唱えながらギリギリのラインで我慢していた。
「え、ああ……証人……か」
正直、不敬罪の証人ならいくらでもなる気でいたが、ブリュンヒルデが求めるものはヴォルフラムの望みと程遠い所にある。
少し渋るヴォルフラムだが、即答しない様子を怪訝に思ったブリュンヒルデがこてんと首をかしげる。金の髪が揺れて緑の瞳がヴォルフラムを物憂げに見つめる。
ヴォルフラムの理性はすぐに陥落した。
「……わかった。証人になろう。皇太子ヴォルフラムの名をもって三人の安全は保障する。これでいいのか、ブリュンヒルデ」
「ええ、ありがとうございます。皆さん、立ってくださいな。これから一緒にクララ……薔薇の乙女のところに行きましょう」
ブリュンヒルデはヴォルフラムに言うと跪いたままの母親の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。水仕事で荒れた手を美しい白い手が包み込む。まるで光に包まれたような温もりだった。
白い手を汚してしまう、と母親マヤは思ったがその優しい手を振り払うことはできなかった。
父親クルツも同じだった。二人はブリュンヒルデの手によって立ち上がった後、自分の手をみつめてその名残を惜しんだ。
しかし、子供だけはブリュンヒルデの手を跳ねのけた。バチンと大きい音をさせ、ヴォルフラム達の目が険しくなったが、ブリュンヒルデは笑うだけだった。
その場にいたものはブリュンヒルデの寛容さに驚き、また少しずつこの少女に心を開きつつあった。
しかし、ブリュンヒルデは別に寛容でも何でもない。俗物と言ってもいい。
(いたあああ!!! うう……でも子供相手に怒るのも大人げないし……!! くっそ、なんで相手が私なんだよっ!! これがミレッカーみたいな大らかで大人びたイケメン相手なら、師匠と弟子のなれそめカップリングで萌えられて微笑ましい目で見られるのに!!……お、このカプいいかも)
ブリュンヒルデは接点のないミレッカーを無理やり持ち出し、心の中で勝手に萌えた。そしてその喜びが笑顔となって表に出たのだった。
それが腐った笑顔とも知らず、子供……ゲルトの心は揺れた。
(な、なんだよ。なんでこんなことされて笑っていられるんだよ……)
少しずつ、自分が正義と信じた考えが崩れ始めた。実に単純な子供である。